34 過去の清算
魔塔での調査結果が出そろってから、ちょうど一週間が経った。
今日、セドリック殿下とエリオット殿下は、王城内で開かれる重要な会議に出席している。出席者は王太子殿下をはじめとする王族と貴族家門の一部──そして私は、今回は帯同しなかった。
『会議が終わるまで、少しの間待っていてほしい』
セドリック殿下にそう言われた私は、王城南の小庭園へと来ていた。
手入れの行き届いたその庭は、王族専用の控えの場としても用いられるらしい。こぢんまりとしてはいるものの、咲き誇る花々は丁寧に手をかけられていて、空気も穏やかだ。
会議は小一時間ほどと聞いている。
数日は療養していたが、またこうして護衛の役目に復帰できて嬉しい。
アイリスからはこの前よりもさらに治癒魔法を何重にも付与したというペンダント、エリオット殿下からは軽量化に努めたというボタン型の何かをもらった。
『この前みたいに、困ったら人にぶつけるといいよ〜』と言っていたけど、物騒すぎると思うの。
私はそっと庭園に揺れる木々を眺めた。
初夏の風は心地よく、控えの時間もこうして過ごせば悪くない。
遠くで鳥のさえずりが響き、小さな虫が花々の間を飛び交っている。
(……誰?)
ふと、背筋を撫でるような、妙な気配がした。
誰かがこちらに近づいてくる足音。だが、その歩調には馴れ馴れしいほどの躊躇いのなさがある。
「やあ、こんなところで会うとは」
その声を聞いた瞬間、心臓がどくんと跳ねた。
……忘れようとしていた記憶が、音を立てて蘇る。
(どうして、ここに……?)
顔を上げると、目の前にはエドワード様がいた。
以前と変わらぬ、いや――ほんの少し、くたびれた姿で。
(会議はまだ終わっていないはず。各家門の当主と嫡男たちが出席していると聞いているわ)
本来ならば、この時間にここにいるはずがない。
なのに、彼は何の迷いもなく、まるで通りすがりに挨拶でもするかのように私に声をかけてきた。
目についたのは、わずかに皺の入ったシャツの袖、気の抜けたような襟元、微かに泥のついた靴。
(……バークレー伯爵はご存じなのかしら)
今日リリアナが会議から距離を置いたのは、バークレー伯爵家の名前が出席者リストにあったからだ。そしてエバンス家も。
嫌な予感がした。
私の目を覗き込むようにしてくるエドワード様に対し、私はそっと半歩、足を引いた。
彼はそんな私の動きには気づかないふりをして、あくまで自然な笑顔を浮かべている。
「君の姿を庭園で見かけてね。ちょうど話がしたいと思って」
私はわずかに身を引くことで、エドワード様から距離を取る。
「ご機嫌よう、エドワード様。今日の会議には、ご出席ではなかったのですか?」
努めて穏やかに返す私に、エドワード様は一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
「……ああ。あの会議は抜けてきた。本当はずっと謝りたかったんだ。君のことをないがしろにしてしまっていたことに」
その口調に後悔の色がにじんでいたかもしれない。けれど、それはきっと、自分の罪悪感を慰めるための言葉だ。
「でもね、リリアナ。僕には――君が必要だとわかったんだ!」
ぞわり、と背筋を撫でるような不快感。
その一言で、私の中に澱のように溜まっていた感情が、ふつりとあふれかける。
「君もいつまでもわがままを言わずに、素直になってくれ。これからは君を大切にすると誓うよ」
……はあ。
思わず、吐息が漏れた。と同時に、足元の空気がびり、と震えた気がした。
風の流れが乱れている。
また無意識に魔力が漏れていたらしい。心を落ち着かせるために一度深呼吸をして、またエドワード様を見据える。
危うく、あのボタンの何かを投げるところだった。
「リリアナ……」
エドワード様が、そっと手を伸ばす。私の腕に触れようと――いや、掴もうとした。だが、その手は触れる寸前で止まった。
「……っ!?」
その瞬間、私は彼の手首を素早く正確にひねり上げていた。
ぐるりと腕を反対方向にひねられ、エドワード様は苦悶の表情を浮かべている。
「もう、やめてくださいませんか」
声は冷静だった。感情に任せて怒鳴るのではなく、ただ事実を突きつけるように。
「ここでのあなたの行動は、規定に反します。第一、嫡男ではないあなたの登城は――本日、認められていないのではありませんか?」
その瞬間、エドワードの顔色が変わった。
「リリアナ、そんな言い方……」
「事実です。あなたは会議の途中でこの場を離れ、私的にここへ来たと仰っていますが、あなたの名前はリストにはありませんでした。それに前回の件で、謹慎をしているはずです」
バークレー伯爵は実直だが気弱な方だ。
禁じられたにも関わらず、ここに彼を連れてくることはしないだろう。
そして、問題を起こしたエドワード様を嫡男として扱うはずもない。これ以上の醜聞は避けたいはずだ。
手入れのされていないような服装からも、エドワード様がフラフラとここに現れたことが分かる。周囲に誰かが導いたような怪しい気配もない。
「ぼ、僕はまだ落ちぶれてはいない! リリアナさえ、戻って来てくれたら──!」
掴んだ手首から、叫ぶ彼の脈が早く打っているのが伝わってくる。
それでも。鍛練を重ねた私の手には、揺るがない力がこもっていた。
「バークレー様。私はもうあなたの婚約者ではありませんので、名前で呼ぶのはお控えください。今後元に戻ることもありません」
「っ!」
彼は言葉を失ったまま、私の目を見つめ返している。
(もう、私は以前の私じゃない)
同じ場所には戻らない。
あの時どうしようもなく震えていた手足も、今はしっかりと地に根を張っている。
誰かの顔色をうかがって、自分を曲げるようなことはもうしない。
私は、私の意志で立っている。
捻りあげた手を離しても、しおしおと項垂れてすっかり放心するエドワード様の姿を前に、私はふと思い出したように口を開いた。
「……あ、そうだわ。バークレー様、少し失礼しますね」
「?」
彼が顔を上げた瞬間。私は、ためらいなく手を振り上げる。
パチン、と乾いた音が庭園に響いた。
目を見開いたまま頬を押さえるエドワード様に、私は凛とした声で告げる。
「前回と──これまでのお返しです、バークレー様。どうぞお元気で」
驚いたように瞬きを繰り返す彼を残し、私は踵を返してゆっくりと歩き出した。
背後から何も追ってこないことを確認しながら、胸の奥がようやくすうっと軽くなるのを感じる。
(エドワード様の侵入についてはしっかり警備にも報告しないと。それに、おじ様にも)
そう考えながら背筋を伸ばして歩くたび、靴音が白砂の小道に軽やかに響く。
(これでいい。これで、ようやく断ち切れた気がするわ)
胸の奥がふっと軽くなる。ようやく、過去に終止符を打てた気がした。
そんなときだった。
「——くくっ」
どこからともなく、低く笑う声が聞こえた。
私は足を止めて、周囲を見渡す。けれど、そこには誰の姿もない。
風もないのに、木の葉がわずかに揺れたような気がした。