32 仮説
「り、リリアナも聞きましたか? わたしとセドリック殿下のこと」
アイリスが、そっと視線を私に向けてきた。
その表情は明るいものの、どこか気まずそうな気配を含んでいる。
私は一瞬だけ目を伏せ、それからほんの少しだけ、口の端を引き上げた。
「はい。聞きました。王妃様から、お話があったので」
心の奥が、ちくりとした。
その感情が何なのか、まだ自分でもうまく言葉にできない。
「お父様とお母様は、心配性なのです。王妃様と仲がいいからって、すぐにそういうお話に……!」
アイリスはそう言って頬を膨らませた。
怒っているというより、呆れているといったほうが近いのだろう。
「公爵夫人と王妃様は、旧知の仲なのでしたね」
私がそう言うと、アイリスは「はい」とうなずいて微笑んだ。
「わたしの母と王妃様は、ご令嬢の頃からご交友があったそうです。学院の卒業も同じ年だったとか。母がよく昔話をしてくれたのです」
「そうなのですね」
アイリスの話に、私は相槌を打つ。
(確か、ブーモア伯爵夫人が楽しそうに話していたような気がする)
社交の場で、私は空気のような存在だった。目立たず、話しかけられず、笑顔でその場にいるだけ。
でもだからこそ、貴族たちの油断した本音を耳にすることがあった。
――その日も、夜会の席でひっそりと壁に佇んでいた私の前を、華やかな会話が通り過ぎていった。
『ねえねえ、ご存じ? エレオノーラ様とフェルナー公爵夫人とアデライド様は若い頃から大の仲良しだったのですって』
『まあまあ、そうだったの! 国王陛下も手当り次第にねぇ……』
『おかげでそれぞれに王子がいて、今後どうするのでしょうねぇ』
『でも陛下のご寵愛はその方にあったそうだわ。本当は最初からその方だけを妃にするつもりだったそうよ。これは婚約者選びも揉めるわねえ』
なんだかすごい話だ、と思っていたところで夜会を満喫していたエドワード様が令嬢を左腕にくっつけて戻ってきた。
『この子を送らなきゃいけなくてね。リリアナは、ひとりでも帰れるだろう?』と言い放ったのだった。そういえば。
あの時は呆気に取られて言い返せなかったけど、怒っても良かったはずだ。
おかげでその先の話を聞きそびれてしまったことを今更思い出す。
(いまさら後悔しても仕方ないけれど、一発殴っておけば良かったわ)
そんなことを考えていると、目の前のアイリスはプウと頬を膨らませている。
「わたしも先程エリオット殿下からお話を聞いてビックリしました。セドリック殿下と結婚するなんて天地がひっくり返ってもありえないのです!」
「そうだったんですね」
私は、胸の中のざわざわとした感情を押し込めるように、相槌を打つ。
「きっとこの前、母と王妃様がお茶会をしていたから、その時に話を勝手に決めたのです。だってセドリック殿下ですよ? あんな無骨で、すぐ黙ってしまうような人と……無理です! 会話がもたないのです!」
「あ、あの……アイリス」
気がつけば、私の口が自然と開いていた。
あまりにもきっぱり断言されてしまったので、なぜか私の方が焦ってしまう。
「セドリック殿下は、その……確かに無口なところもありますけど、すごく誠実な方だと思います。ちゃんと、相手のことを考えていて……」
「リリアナは、セドリック殿下のことをよく見ているのですね」
アイリスがふいに、真剣な顔でこちらを見つめてくる。
「い、いえ。護衛として近くにいる機会が多かっただけで……!」
「ふふっ。そういうことにしておくのです〜。でも本当に安心してください。絶対にセドリック殿下との縁談はぶち壊してやります」
アイリスが決意に燃えている。
冷静に考えてみると、今回の縁談はセドリック殿下が公爵家を味方につけるには絶好の一手だったと思う。
(そう、セドリック殿下のために必要な――)
「リリアナ?」
考え込む私を見て、アイリスがこてりと首を傾げる。
その真っ直ぐな瞳に策略の色はなく、先程の話しぶりからも本当に驚いていたことが分かる。
かつて私がエドワードと婚約していたように、家門のために結ばれる縁談は珍しくない。いわゆる政略結婚はどこにでもある。
第二王子と公爵令嬢。またとない縁談だと思う。ウィンフォード王国のなかでも、フェルナー公爵家は最も力のある家系のひとつ。
その娘が第二王子と結婚するとなれば、王位継承争いにおいても大きな意味を持つ。公爵家が後ろ盾になるのだから。
それが、どうにも腑に落ちない。
これまで、何度もセドリック殿下の命を狙うような動きがあったと聞いている。
私が護衛に就いてからも、毒や細工――どれも幼稚な手口だったけれど、確かに護衛である私も邪魔な存在として狙われた。
なのに突然、公爵令嬢との縁談。
(これまでと方向性が違いすぎるわ。セドリック殿下を貶めるためなら、フェルナー公爵家を味方につける理由がないもの)
セドリック殿下を支える動きと排除しようとする動きがそれぞれ別で、同時に存在しているような妙な違和感。
その矛盾に、私はふと気づいてしまった。
疑問が膨らんだ私は、意を決してアイリスに問いかける。
「アイリスは……王妃様とも親しいんですか?」
家族ぐるみで仲がいいのなら、アイリスは昔から王妃と交流しているはずだ。
こうして第三王子が管理する魔塔に所属し、第二王子のセドリック殿下が隠れるように暮らしていることも知っている。
その上で、エリオット殿下と色々と魔道具発明に勤しんでいるアイリスは、何か知っているのではないかと思ってしまう。
「そうですね。ここに来る前はよくお会いしていました」
アイリスは、少し声を落とす。
「お顔が少し怖いですが、王妃様はとても優しい方なのです。ちょっと……いえ、すごく厳しいところもあるのですが」
肩をすくめるように笑ったあと、ふと思い出したように続ける。
「そういえば、リリアナはご存じでしたか? セドのご母堂であるアデライド様って、もともとは王妃様の侍女だったのですよ」
「侍女……ですか?」
私は少し驚いて、言葉を繰り返す。
「はい。身分差はあったのですけど、わたしの母とエレオノーラ様とアデライド様は友人で。侍女としてエレオノーラ様のところで働いている時に、王様に見初められて側室に迎えられたのだとか」
「そんな……それは、王妃様としては複雑だったでしょうね」
「……どうなのでしょう。でも、王妃様はセドリック殿下のことを疎かにされたことはないのです。むしろ、そのぶん余計に『強くありなさい』と厳しく接していたような気がして」
その言葉を聞いて、私は改めてセドリック殿下の歩んできた道を思う。
王妃様にとって、自分の侍女が側室となり、王子を産むこと。それは決して受け入れやすいことではないはずだ。
それでもなお、セドリック殿下を王子として立たせ、導こうとしていた――?
(そう考えると……やっぱり、王妃様は──)
思考がそこまで及んだところで、私は小さく首を振る。
確証があるわけではない。今はまだ、決めつけるには早い。
だけど、私の中でひとつの仮説が形になりつつあるのを感じていた。