31 魔塔の友人
エリオット殿下とセドリック殿下は奥の調査室へと向かい、私は目を丸くしたアイリスに手を引かれて、着替えるために部屋へと戻ってきていた。
(やっぱり……思ったよりも傷がない)
湯浴みの湯気が肌を優しく包む中、私はそっと湯船の中で頬に手を当てた。
あの時、地面に強く押し付けられたと思っていた。もっとひどい痣や擦り傷が残っていてもおかしくないはずだ。
けれど、思ったよりも赤みすら残っていない。
(お仕着せはところどころ破れていたのに)
襟元や袖口がほつれ、泥にまみれていた服の状態を思い出しながら、私はもう一度、腕や脚をそっと撫でて確認する。
痛みは確かにあった。でも今は、ほとんど感じない。
(あの結界のせいで感覚が鈍っただけだったのかな……それとも)
胸の奥に小さな疑問の灯がともる。それはまだはっきりとした答えにはならないけれど、何かおかしいという予感だけが静かに広がっていく。
湯浴みを終え、濡れた髪を軽くまとめてから浴室の扉を開ける。
「リリアナ、大丈夫ですか? 治療と着替えを手伝うのです!」
まるで待ち構えていたかのように、アイリスが手を差し伸べていた。
「わっ、アイリス……!」
思わず声が漏れた。まさか脱衣所の前で待たれているとは思っていなかったからだ。慌ててタオルをきゅっと胸元に抱えながら、私はアイリスの前に立った。
「ちょ、ちょっと……恥ずかしいです……」
「だめです、リリアナ。我慢するのです。ほら、手を上げてください。動かすと痛むところはありませんか?」
「だ、だいじょうぶです、たぶん……あの……うわ、くすぐったいです……!」
アイリスは真剣な表情で、私の腕や背中、脚のあたりまで手早く目を走らせながら、ところどころそっと指先で触れていく。
彼女の動きには一切の迷いがなく、恥ずかしさで顔が火照る私とは対照的だった。
その時、右の肩のすぐ下あたりで彼女の手がぴたりと止まる。
「ここ、少し赤くなっているのです」
そう言って、アイリスはそっと指先をかざした。
彼女の指先に淡い緑色の光が灯り、温かな波のようにじわりと私の肌に広がっていく。
ひやりとするかと思いきや、不思議なぬくもりに包まれたその感覚は、まるで春の日差しのようにやさしかった。
「……治癒魔法……?」
アイリスの使った魔法に、私は目を丸くする。
人の傷や病をよくする特別な力。
国にも使い手は数人しかおらず、稀有な力だと言われていたはずだ。
(確か……治癒能力のある娘を巡って争いが起きたこともあったとか……?)
古い文献にそう書いてあった気がする。
それでも、家門からそうした能力の娘が出れば、王家に嫁がせる絶好の機会になるのにと会話をしていた夫人たちもいた気がする。
アイリスは大きな目をぱちぱちと瞬いて、それからニッコリと笑った。頭の上で、大きなリボンが揺れている。
「はい。わたし、治癒系の魔法が少しだけ得意なのです」
誇らしげでも照れくさそうでもなく、アイリスは淡々と語る。
「……貴重な力をありがとうございます。もう、全然痛くありません」
「よかったのです。リリアナの役に立てて、嬉しい」
魔力の光がふわりと消え、アイリスが手を引く。私はふと、その横顔を見つめ直した。
(そうだわ。アイリスは……アナスタシア・フェルナー公爵令嬢なのよね)
セドリック殿下と王妃の会話の中で聞いた、彼の婚約者候補の名前。
今さらのように胸の奥がざわめいた。目の前の友人は名門フェルナー公爵家の令嬢。
そして、王子の婚約者候補。私とはまったく釣り合わない、まるで雲の上のような存在だったのだ。
思わず姿勢を正してしまう。
「……あの、アイリス様」
アイリスがぴたりと動きを止めた。驚いたように私を見つめ、ほんの少しだけ、眉を下げる。
「その呼び方は、やめてほしいです。本当は、リリアナには知られたくなかったのですが……」
「私、これまでご無礼を……」
「やめてください! 急によそよそしくされるほうが寂しいのです。わたしは令嬢としてお茶会をするよりも、ここで面白い魔法の研究をする方が楽しいのですから!」
言いながら、アイリスは頬をほんのり染める。けれど、視線はまっすぐに私を見据えていて、その思いが伝わってくる。
「だから、これまで通り『アイリス』って呼んでほしいのです」
私は、その姿に胸がじんわりとあたたかくなるのを感じた。
「わかりました、アイリス」
そう言って微笑むと、アイリスも安堵したように笑みを返す。肩の力が抜けたような、心からの笑顔だった。
「それにしても、ちゃんと治癒魔法が発動してくれて良かったです。全ての怪我は治せなかったけど、及第点です!」
「発動……ですか? もしかして、あのペンダントは」
アイリスは誇らしげに胸を張る。
「それ、わたしが魔力を込めたのです! 外からの魔力干渉があった場合に反応するよう、少しだけ調整を入れました」
「そうだったんですね」
「はい。エリオット殿下と一緒に仕上げたものです。あの方、ああ見えて道具の設計もとても繊細なのですよ?」
そう言って、アイリスはくすくすと笑う。その笑みにはどこか親しみと信頼がにじんでいる。
(そうか。だから私の傷はほとんど治っていたんだわ)
ペンダントには、そんな効果もあったなんて。エリオット殿下はそこまで考えてくれていたのだ。
それにしても、エリオット殿下とアイリスの発明はいつもすごい。
「おふたり、いつも仲がよさそうですよね」
「ええ。幼い頃から、一緒に研究や実験ばかりしてきましたから。周りからは変わり者同士だって言われていたくらいで」
アイリスは、懐かしむように目を細める。
「でも、だからこそ分かり合えることも多いのです」
「なるほど。とっても素敵ですね」
アイリスの瞳から笑顔が消える。そして、姿勢を正すと私を真っ直ぐに見据える。
「リリアナ。わたしからも謝ります。今回のこと……きっと、エリオット殿下はすごく後悔していると思います。リリアナに危ない思いをさせたこと」
アイリスは心配そうに眉を寄せていた。
その目には、優しいけれど、確かな責任の色が宿っている。
きっと彼女も、ペンダントや他の魔道具に携わったことで、何かしら自分に非があると感じているのだろう。
でも――。
「アイリス。ありがとうございます。私は大丈夫です」
私は静かに、でもはっきりとそう返した。
胸に手を当てて、今の自分の気持ちを確かめる。
「これは、私自身が選んだことです。誰かに強いられたわけじゃない。自分で、守りたいと思ったから、ここにいるんです」
言葉にしてみて、気づいた。
本当にそう思っている。空気のように過ごしていた過去の自分とは、きっともう違うのだ。
「だから、誰のせいにもしません。それに――私、まだまだ頑張りたいんです。皆さんの力になれるように」
前を向いて笑うと、アイリスがぱちぱちと瞬きをしてから、ふわっと嬉しそうに微笑んだ。
そのとき、ふと思い出す。
(そういえば――)
セドリック殿下とアイリスの婚約の話を聞いたエリオット殿下が、魔塔に走っていったこと。
そのあと、私もあの結界事件に巻き込まれて訳が分からなくなってしまったけれど、結局エリオット殿下とアイリスは話をしたのかしら。
「ねえ、アイリス。あの……ちょっと聞いてもいいですか?」
「なんでしょう?」
「エリオット殿下がここに来たとき、ふたりで何か話をしましたか?」
アイリスのまつげが、ぴくりと揺れる。
その続きを聞こうとして、私は息を呑む。
彼女の頬は、ふわりと赤く染まっていた。