閑話 ~薄絹の向こう~
***
静かな部屋だった。
庭の音も、召使の気配も遠く、ただ淡く香る茶葉の香りだけが満ちている。
真珠を浮かべた器に湯が注がれる音は、まるで誰かの囁きのように心地よかった。
だが、指先にわずかな力がこもるのを見れば、その思考がただ穏やかでないことは明らかだった。
──騒がしい。
新しい護衛がどうしただの、第二王子の変化だのと、城中の者たちが浮ついた声を上げている。
ほんのひとつの噂が、あっという間に火種になる。
その護衛の令嬢は、たしかに少し変わっている。空気のように物を消すことができるらしい。
なんとも珍しく、使いようによってはいい駒になりそうだ。
だが、そうした小娘に王宮の力関係が変えられると考えるほど、幼稚ではない。
(問題は……その娘ではない)
第二王子。セドリック・ウィンフォード。
冷静で忠実で、王にとってなにかと都合のいいスペアの王子。
だが、それだけだ。
貴族社会において、都合がいいだけでは上には立てない。
(後ろ盾のない王子など、王族である価値すら怪しい)
もし、彼がいなくなれば――。
その空白を埋めるように、誰が王族内で頭角を現すか。有利になれるか。
血筋も、才も、人心も備えた者が、自然と浮かび上がる。
ふわり、と扇が開かれる。
柄に刻まれた金の蝶が、まるで舞い上がるようにきらめいた。
(我が子ならば、できる)
微笑が浮かぶ。柔らかく、優雅で、何も知らぬ者なら魅了されるほどに。
だが、そこに込められた感情は、酷く冷たい野心だった。
――コンコン。
扉が静かにノックされた。
「……お入りなさい」
声に応じて現れたのは、一人の侍女だった。
地味な身なりに、伏せた目元。だがその動きには、王宮の侍女らしからぬ影がある。
「ライナが捕まりました。詰め所に拘束され、取り調べを受けているようです」
女は、膝をつきながら低く報告した。
その声には、焦りでも驚きでもなく、淡々とした緊張だけがあった。
椅子に座る女は――つまり、この部屋の主は、ほんの少しだけ目を伏せた。
そして、淡い微笑を浮かべる。
「そう……なら、もう不要ね」
「……では、口封じを?」
「それはそちらで判断なさい。わたくしの名前が漏れなければ、何をしても構わないわ」
まるで、今日の献立でも告げるような口調だった。
恐怖も、罪悪感も、そこにはなかった。
侍女は深く頭を垂れると、すっと立ち上がり、影のように部屋を出ていく。
再び、室内に静寂が訪れる。
女は立ち上がり、カーテンの隙間から外を眺める。
見えるのは整えられた庭、その向こうに広がる、今はまだ平穏な王都の空。
けれど――
(この空が、誰のものか。遅かれ早かれ、皆わかること)
唇に浮かんだ笑みは、扇よりもよほど冷たく、美しい。
女は香を焚きしめた寝室に戻ると、うっとりと寝台に横になった。
目を閉じれば、浮かぶのは我が子の愛らしい笑顔だ。
――生まれたときから、分かっていたの。
あの子は、特別だった。
他のどの子とも違う。誰よりも美しくて、誰よりも輝いていた。
目を開いた瞬間、その瞳がわたしを見上げたとき――この国の未来が、そこにあると確信したのよ。
ええ、誰も信じなかった。
他の妃たちは気づかないふりをしていたし、あの方は公平を装っていた。
でもわたしは、あの子の力を知っている。
魔力、知性、感性。
すべてにおいて、あの子は“持って生まれた”。
(なのに、なぜまだ……)
王宮には、醜く古びたしきたりと、無能な古株たちがはびこっている。
どこかの王子が王妃の影で育ったからといって、それが何?
伝統も血筋も、能力の前には無意味よ。
だって――
(あの子には、選ばれる理由がある)
だから邪魔なの。
凡庸な第二王子。
そして、最近になって王子の足元にしがみつくようになった、出自も平凡な少女。
(あの程度で、王族に並ぶつもり? おかしいと思わないの?)
無力な子羊が、牙もないまま檻を破る真似をして。
守られるべき王子が、それにほだされるなんて。
滑稽で、見るに堪えない。
――王族とは、見上げられる存在でなくてはならないの。
そしてその頂点に立つのは、わたくしの息子。
生まれたときから、それが定められていたのよ。
「……フフ、もうすぐだわ」
我が子もきっと、わたくしの気持ちに気がつくだろう。そして感謝するのだ。