26 殿下の婚約者
格式ある謁見の間に、朝の光が淡く差し込んでいた。
今日は王族と一部側近のみが集う、内々の評議の場。
護衛として同行していた私は、侍女の随行が控えられているこの場で、空気魔法を使って気配を消していた。
……セドリック殿下の後方、いつもの距離に控えながら、耳だけを澄ませている。
セドリック殿下、エリオット殿下が並び――その隣には王太子殿下もいる。
それぞれの護衛騎士がずらりと壁際に並ぶ中、私もちんまりと場所を確保していた。
レオン兄様の陰から、息を潜めて殿下の様子を見守る。
諸々の話が終わり、そろそろ終わりかと思われた時。
「わたくしからお話があります」
王妃エレオノーラが微笑を浮かべて扇を閉じた。
「セドリック殿下も、そろそろ将来をお考えになるお年頃かと。……陛下とご相談の上で、良き方を見繕いましたの」
「……将来、ですか」
「そう。婚約の話よ。時期を見て、正式に進める必要があるでしょう?」
セドリック殿下が眉をわずかにひそめたのが見えた。王妃は扇を軽く揺らしながら、用意していた文書を差し出す。
「アナスタシア・フェルナー嬢をご存じかしら? フェルナー公爵家の次女よ。長く療養のために表には出ていなかったけれど、ようやく快復の兆しが見えてきたの。品位、血筋、魔力量、どれをとっても申し分ない娘ですわ」
私はその名を聞いた瞬間、息を呑んだ。
(アナスタシア・フェルナー……)
どこかで聞いたことのある名。
そうだ、社交界で“妖精姫”と噂されていた存在。病弱ゆえに人前にはほとんど出てこないが、その儚い美しさと魔力の高さで知られているご令嬢だ。
直接お会いしたことはないけれど、その名前は知っている。
(……まさか、殿下の婚約者候補として、その方の名前があがるなんて)
胸がざわつく。この場に同席する資格すらない私は、ただただ静かに、押し寄せる動揺を押し殺すしかなかった。
「……そのような重要なお話を、いま急いで決めるわけには参りません」
セドリック殿下は、王妃から差し出された文書を受け取らぬまま、静かにそう告げた。
その声音は穏やかでありながら、いつものような迷いのない断定口調ではなかった。
「そう……ええ、構いませんわ。焦らずに返事をいただければ。それに、アナスタシア嬢も無理はできない身。時が満ちれば、然るべき形で紹介しましょう」
王妃は扇を畳み、やや興を削がれたような表情で立ち上がった。
彼女の背には、控えていた侍女たちがぴたりと続いている。
「それでは、またの機会に」
優雅な一礼を残して、王妃は部屋をあとにした。
扉が静かに閉まると、室内に再び静寂が戻る。
控えていた私の手が、いつの間にか震えているのに気がついた。
(良かった……けれど……)
アナスタシア・フェルナー。妖精姫。公爵令嬢。そして殿下の婚約候補の方。
そのとき——セドリック殿下がふと振り返り、まっすぐにこちらを見た。
まるで、私がどこにいるか分かっていたかのように。
「では、私は執務に戻ります。失礼します」
「……あ! ボクも~!」
セドリック殿下が立ち上がると、エリオット殿下もそれに倣った。
必然的にレオン兄様も退出することになり、私も急いで後を追う。
「……」
「……」
部屋に戻るための廊下で、殿下たちは珍しく無言で歩いている。なにより珍しいのは、エリオット殿下がおしゃべりをしていないことだ。
こんなに静かなエリオット殿下は見たことがない。
「……嵐が来るのか……?」
隣でレオン兄様がポツリと呟き、見えていないだろうけれど、私もコクコクと頷いた。
**
執務室に戻ったセドリック殿下とエリオット殿下、そして護衛のレオン兄様と私は、どこか重苦しい沈黙に包まれていた。
先ほどの王妃エレオノーラ様の突然の婚約話に、皆が動揺しているのは明らかだった。
エリオット殿下がソファに深く腰を沈め、ため息交じりに口を開く。
「エレオノーラ様は、一体何を考えているんだろうね。急にセド兄の婚約話を持ち出すなんて」
セドリック殿下は窓の外を見つめながら、静かに答えた。
「わからない。だが、何か意図があるのは間違いないだろう」
レオン兄様が腕を組み、慎重な口調で言った。
「フェルナー公爵家の次女、アナスタシア嬢を推薦されたのも、何か理由があるのでしょうか」
私はその名を聞いて、再び胸がざわつくのを感じた。“妖精姫”と称される彼女が、殿下の婚約者候補として挙がるとは。
エリオット殿下が少し考え込むようにしてから、顔を上げる。
「……フェルナー公爵家は、王家とも古くからの繋がりがある。その関係を強化しようとしているのかもしれないね」
いつもとは違う、落ち着いた声色だ。
セドリック殿下は目を閉じ、一呼吸置いてから言った。
「いずれにせよ、慎重に対応する必要がある。王妃の真意を探るべきだろう」
私はその言葉に、深くうなずいた。
護衛として、殿下をお守りするためにも、王妃の動向には注意を払わなければならない。
(……でもなんだか、王妃様の瞳には仄暗さを感じないのよね……?)
前回と今回、空気になって彼女をじっと見ていたけれど。
王妃様がセドリック殿下に向ける眼差しに、嫉妬や憎しみなどは感じられなかった。
(どちらかといえば、むしろ――)
パッと顔を上げると、セドリック殿下がこちらを見ていた。どうしたのだろう。
殿下がたとえどんな方と婚約されようとも、私は私のすべきことをするだけだ。
おそばにいる限りは、殿下の安全を守らなければならない。
「……あの、セドリック殿下」
「ん?」
私はきゅっと両手を握りしめる。
「これからもし、ご婚約されるとしても、私は護衛としての責務を全ういたします! 今まで以上に目を光らせてまいりますので、どうか安心してご決断ください!」
「…………」
一瞬、沈黙が落ちた。
殿下がまばたきをして、じっと私を見つめている。
(何か変なことを言ったかしら……?)