03 誰
サロンに響いたのは、控えめながらも鋭い音だった。
お父様が手にしていたティーカップの持ち手が、跡形もなく折れたのだ。
割れた陶磁器のかけらが白いクロスの上にパラパラと転がり、皿の上の紅茶がわずかに揺れる。
「……」
お父様がゆっくりと手元を見る。まるで今の出来事が現実ではないかのように。
侍女たちの間に、かすかな緊張が走る。
握力が強すぎるのもあるが……ただ、それほどまでに、沸き上がる怒りが抑えきれなかったのだろうと推測する。
「お父様……」
私が小さく声をかけると、お父様は静かにカップから手を離した。
「すまない。力が入ってしまった。替えを頼めるか?」
そう言いながらも、その声音は明らかに冷え切っている。
侍女が急いで割れたカップを片付けようと近づくが、お母様がそっと手を挙げて制した。
「そのままで構いません。……夫が、もう少し冷静になるまで。我が家のティーセットを全て壊されては困ってしまいますもの」
お母様は、ティーカップが折れるほどの怒りを滲ませた夫を見据えながら、そう言った。
お父様は静かに深呼吸し、再び私の方へと視線を向ける。
「……つまり、エドワードは我が娘を侮辱した、ということだな」
静かながらも重みのある言葉だった。
「……はい」
私は小さく頷く。
「あいつ……!」
それを聞いた瞬間、レオン兄様がひん曲がったフォークを左手でもさらに力を加え、ぐにゃりと曲げきってしまった。
ころりとした金属の塊になってしまったフォークは、解せないとでも言いたげにテーブルに転がされている。
「よし、決闘だな」
——レオン兄様はキッパリとそう言った。
「お兄様、落ち着いてくださいませ」
「これが落ち着いていられるか!」
私がそう言ったらレオン兄様は拳を握りしめ、椅子を乱暴に引いて立ち上がる。
その勢いに、侍女が小さく身を引いたのが見えた。
怒ったお兄様はこわいのだ。
普段は温厚で優しい分、それが怒りに変わると……あのフォークのような目に遭ってしまう。
「アイツ、そんなことを言っておきながら、今まで婚約者としてお前を利用していたんだぞ!? うちとのつながりがあるから信用してもらっている取引もあるはずで——」
「レオン、落ち着きなさいな」
お母様の静かな声が、その言葉を遮った。
その声は決して大きくはなかったが、それだけで食堂の空気が変わるほどの威厳がある。
「お前が怒る気持ちは分かるわ。でも、感情に任せて行動するのは得策ではありません」
「しかし、母上……!」
「あの家門にこれ以上関わるだけ時間の無駄ということでしょう」
お母様は優雅にティーカップを傾け、静かに微笑んだ。
「むしろ、リリアナにとって良いことだったと考えるべきです」
「……良いことですか?」
レオン兄様が不満げに眉をひそめる。
「ええ。だって、こんなにも早く『リリアナにはふさわしくない男』だったと分かったのですもの。もちろん我が家としても報復はいたしますけれど。ふふふ」
不敵にほほえむお母様の言葉に、レオン兄様は何かを言いかけたが、結局押し黙った。
代わりに、お父様が重く頷く。
「正式な婚約解消の申し入れは、私がする。リリアナ、よいな?」
真っ直ぐに私を見ている。
お父様とエドワードの父は親友だったと記憶している。
だからこそ自分の境遇を家族には相談できなかった。おそらくは皆知っていたのかもしれないけれど、私が自ら申し出るまでは口を出さないでいてくれたのだ。
もしかしたら、これから良くなるかもしれないと……私だって信じていたから。
「はい。お父様。エドワード様のご希望通りに、婚約の解消を進めてくださいませ」
背筋をしっかりとのばして、私はお父様を見た。
私の決意を聞いたお母様も静かに頷き、レオン兄様にいたっては腕を組んだままぶんぶんと首を振っている。
「慰謝料も請求いたしましょう、旦那様。わたくしたちの前では猫をかぶっていたのですわね、あの子」
「では早速、あちらの家に申し入れを……」
お父様がそう言った瞬間、サロンの扉が控えめにノックされた。
「旦那様、奥様方。ご歓談中失礼いたします」
執事の落ち着いた声が響く。
「火急の案件とのことで、旦那様にご来訪があっておりますが……」
一瞬、場の空気が変わった。
「……こんな時間にか? 今はこちらも手が離せん」
お父様が怪訝そうに顔を上げる。
前触れもなしに来訪があることはとても珍しい。
ただ、そんなことはあのベテランの執事も分かっているはずだもの。それでもこうしてお伺いを立てるということは……我が家よりも身分が高い家門だということかしら。
「それが……王宮からでして。現在、応接室にてお待ちいただいております」
冷や汗をかいているように額の汗をぬぐった執事は、おずおずとそう答えた。
「「——王宮?」」
お父様とお兄様が呆気にとられたように声を漏らすと同時に、私もお母様も眉をひそめた。
私の予想が嫌な方向に当たってしまった。
高位貴族だと思っていたら、それを飛び越えて王家から……?
「分かった、私が急ぎ対応しよう。レオン、くれぐれも決闘など申し込みに行ってはならぬぞ」
お父様が立ち上がり、お客様の対応に向かおうとしたところで、扉の向こうが騒がしくなった。
お待ちください、という侍女の声が聞こえたような。
「こんにちは~!」
突然、サロンに明るく無邪気な声が響いた。
困惑する執事の後ろから、無邪気な少年のような笑顔を浮かべた青年がひょっこりと顔を出している。
視界に飛び込んできたのは、陽の光を反射する白金の髪と、きらきらと輝く赤い瞳。
一見すると少年のようにも見えるその人が、楽しげに微笑んでいた。
「やあ、初めまして! 君がリリアナ嬢だね? 会いたかったよ~!」
まるで旧知の仲のように気軽に話しかけてくるけれど、私はこの方のことを知らない。
ただ、張り詰めた空気から、只者ではないことは一目瞭然だった。