18 殿下の侍女
緊張しっぱなしだった時間がようやく終わった。
王妃陛下が用意した部屋から退出し、控えめに息を吐きながら、私はそっと手元に視線を落とす。
——そこには、私がすり替えた透明なポットがある。
この透明な茶器は証拠として大事なものだ。
慎重に運ばなくてはならないわ。
「ふっ……」
不意に聞こえた笑い声に、私はビクリと肩を震わせる。
隣を歩いていたセドリック殿下が、口元を隠すようにしながら、私を見ていた。
「……セドリック殿下?」
「いや、すまない。君がお茶をすり替えてくれたことには気が付いたが……クク、本当に、いつものリリアナの味だったから」
「そ、それは……」
セドリック殿下はいつになく楽しそうだ。
「もっと上手になります」
「俺は別に今のままでもいいが?」
「今度は絶対に美味しいお茶にいたしますから……!」
私はもう一度、ふうっと息を吐き、気を取り直して歩き始める。
セドリック殿下はまだくすくすと笑っていたけれど、何も言わずに私と並んで歩いてくれた。
——すると、その時だった。
「……っ!」
廊下の向こう側、こちらへ向かってくる令嬢の集団がいた。
その中央にいる令嬢に見覚えがある。
すらりとした金髪をゆるく巻き、繊細なレースのついた淡いピンクのドレスを纏ったその女性——カミラが、鋭い視線をこちらに向けていた。
その目が私を捉えた瞬間、ぎりっと奥歯を噛みしめる音が聞こえたような気がした。
(……嫌な予感しかしない。)
「まあ……セドリック殿下ですか?」
カミラは、しおらしく声を上げながら、優雅に歩み寄る。
まるで偶然出会ったかのようなふりをしているけれど、その視線は明らかに私を睨みつけていた。
「はじめまして、殿下。こんなところでお会いできるなんて、運命ですわね……」
甘く蕩けるような声音に、セドリック殿下は微かに眉をひそめた。
カミラの視線がちらりと私の方へ向けられる。
「まあ、リリアナ様ではありませんか! すぐに気が付かなくて申し訳ないですわ、うふふ」
「……お久しぶりです、カミラ様」
私が静かに答えると、カミラの目がさらに険しくなる。
「お茶会などでお見かけしないと思ったらこんなところにいらしたの? 結婚出来ないから下働きをすることにしたのかしら……ああこれはわたしの独り言ですのでお気になさらず」
「……」
嫌味ったらしく言い放つ彼女に、私は何も言わずに軽く頭を下げる。
何を言われても、今の私は王宮の侍女。余計なことを言うわけにはいかない。
というか、エドワード様と結婚すると言っていた件はどうなったのかしら……?
エドワード様が私を探しているというのも謎だ。
カミラを選ぶことにしたのは彼なのに。
「……セドリック殿下、こうしてお会いできたのもなにかのご縁だと思いますの。殿下にはもっと華やかな侍女がふさわしいですわ。私たちのような」
「そうですわ、他にも侍女をお雇い下さいませ!」
「そんな地味な侍女ひとりだなんて、殿下の資質が問われましてよ?」
他の侍女たちも騒ぎ立て、きゃいきゃいと賑やかだ。
ああ、苦手だ。
見えないポットをぎゅうと握りしめ、私は一歩後ろに下がる。
「殿下、私は貴方様のお役に立てますわ……」
そう言うなり、カミラは優雅な仕草でセドリック殿下の腕にそっと触れ、胸を押し付けるように身を寄せる——
……はずだった。
「……っ!?」
次の瞬間、カミラの体がふわりと宙に浮いた。
いや、違う。
セドリック殿下が、するりと彼女を避けたのだ。
カミラの手が空を切り、支えを失った彼女は、バランスを崩した。
——そして、
「……ひゃっ!?」
カミラは、そのまま廊下の大理石の床に ベシャッ と音を立てて転んだ。
一瞬の静寂。
「…………」
「…………」
私は、視線を泳がせながら、何か言うべきか迷う。手が塞がっていて何も出来ないんだもの。
「すまない、ご令嬢がた。急に寄られると、私はとっさに避けてしまう癖があるようで」
その言葉に、カミラの顔が見る見る赤くなっていく。
「君たちのような無礼な物言いをする侍女なんて不要だ。俺の資質を問うだと? ……アルトマン家、それからヴェルナード家とローベルク家の者だな。覚えておこう」
殿下の威厳のある声に、令嬢たちは息を呑む。
顔が一気に青くなり、じりじりと後退しだした。カミラさんを置いて。
「ちょ、ちょっと待ってよ……っ!」
バタバタと立ち上がったカミラは、怒りに震えながら、悔しそうにこちらを睨みつけてきた。
そして、彼女たちと一緒に走り去ってゆく。
彼女たちが去った後、セドリック殿下は涼しい顔で私の方を向きやんわりと微笑む。
「行こうか、リリアナ。それ、重くはないか?」
「は、はい。大丈夫です!」
私はそっと茶器を持ち直し、セドリック殿下の後ろについて歩き出したのだった。