17 王妃のお茶会
お茶会の日がやってきた。
午後の陽光が柔らかく差し込む宮殿のティーサロン。
繊細な刺繍の施されたテーブルクロスの上に並ぶのは、王妃エレオノーラ様とセドリック殿下のために用意された上品なティーセット。
金色の髪を優雅にまとめた王妃様は、透き通るような碧い瞳を細めながら、ゆったりと椅子に腰掛けていた。
その姿は、まるで湖畔に咲く白百合のように気高く、美しい。
「セドリック殿下。今日は元気になったあなたと二人でお茶をいただけるのが嬉しいわ」
王妃様の穏やかな声が部屋に響く。
「はい、エレオノーラ様。私もこうしてゆっくりお茶を楽しめることを嬉しく思います」
セドリック殿下も落ち着いた口調で応え、柔らかな笑みを浮かべた。
背後で控えている私たち侍女は、静かにその様子を見守りながら、紅茶の準備を進めている。
『ねえリリアナ、容赦なく空気になっていいからね』
ふと、エリオット殿下の軽い口調が脳裏に蘇る。
……どういうことなのかしら? まるで、いつもより遠慮なく消えろと言われているような。
白い湯気がふわりと立ちのぼり、芳しい茶葉の香りが広がった。
貴族のお茶会に出る機会はほとんどなかったけれど、王妃陛下にお仕えする侍女たちの動きは、これからの私の参考になるかもしれない。
そんなことを思いながら、私は気配を消してさりげなく給仕の様子を観察することにした。
姿を消すほどの魔力は使わない。ただ、空気のように目立たなくなる。それだけで十分。
(まずはポットを温めて……茶葉の香りを引き立たせるのが大事なのね)
銀のトレイの上に並べられた陶器のティーカップをそっと眺める。すべて王家御用達の品で、飾りとしても申し分のない美しさだった。
(次にお湯の温度……高すぎても低すぎてもダメなのね)
なるほど、繊細な作業だ。王宮の侍女ともなれば、紅茶の淹れ方一つにまで洗練された技術が求められるのだろう。
「……?」
視線の端に、不自然な動きをする侍女が映った。
まだ若い。年の頃は私と同じくらいだろうか。顔色は蒼白で、手元が震えている。そして、何かをこっそりとポットに入れようとしているように見えた。
足が無意識に動きかける。けれど、今の私はただの侍女。目立って騒ぎを起こすわけにはいかない。
エリオット殿下の言葉が、再び頭をよぎった。
(容赦なく、空気になっていいって……そういうことなの?)
私は深く息を吸い、そっと自身の存在感を希薄にしていく。
少しずつ、気配が薄まっていく。誰も私の存在に気づいていない。
侍女の手元を見極めるため、そっと歩み寄る。彼女の肩越しに、ポットの中を覗き込んだ。
何か、粉のようなものが沈んでいる……?
心臓が跳ね上がった。その正体を確かめる前に、何とかしなければ。
でも、どうやって?
誰かに伝えようにも、私は侍女の一人という立場。下手に騒ぎ立てたら、証拠もないのに疑われるかもしれないし、何よりこの場で騒ぎを起こせば、毒を入れた侍女が逃げる可能性もある。
この紅茶を使えなくするには、どうしたらいい?
──私にしか、できないこと。
ポットの中身を確かめる暇はなかった。
でも、怪しい侍女の手元にある紅茶をそのまま王妃様やセドリック殿下に出すわけにはいかない。ならば、私ができることは──
(似た茶器はないかしら……あ、あった!)
私は静かに視線を巡らせ、幸いにも準備されたポットと似たデザインのものを見つけた。私は手早く紅茶の葉を入れ、お湯を注ぎ始める。
誰にも見られないように空気魔法を使っているから、全てが透明化しているはずだ。
(落ち着いて……大丈夫、私だって紅茶くらい淹れられるはず)
怪しい侍女は、トレイに載せた紅茶の入ったポットをワゴンに載せ、ゆっくりと運び始めた。彼女の手はわずかに震えている。私は足音を殺し、背後にそっと忍び寄る。
──パンッ!!
突然、鋭い破裂音が響き渡った。
「えっ……?」
侍女たちが一斉に動きを止め、騎士たちは剣を構えて驚いたように顔を上げる。
次の瞬間、ティーサロンの大きな窓の外に、色とりどりの光が舞い上がった。
鮮やかなリボンのような光が空に広がり、きらめく星屑が弾けるように宙を舞う。その幻想的な光景に、場にいた者たちは思わず見惚れてしまった。
「まあ……これは……?」
王妃エレオノーラ様が、優雅に微笑みながら目を細める。
「まるで祝賀のようですわね」
誰もが息を呑むほどの美しさ。しかし、それはただの偶然なのか、それとも——。
(……もしかして、エリオット殿下なのかしら?)
リリアナは思わず脳裏で名前を呼んだ。こんな突拍子もないことを仕掛けるのは、彼しかいない。
もしくはアイリス……いえ、ふたりの可能性が高すぎるわ。
花火に気を取られた侍女たちは、手を止めてしまっている。
その一瞬の隙に、私は素早く行動を起こした。
自分のポットと侍女のポットをすり替えたのだ。
怪しいポットを回収し、誰にも見つからないように戸棚の奥にそのポットを隠すと私はそのまま何食わぬ顔で控えの場所へ戻った。元の姿に戻っても、誰にも気付かれていない。
侍女は気づかず、そのまま紅茶を運んでいく。
王妃陛下とセドリック殿下の前に置かれたティーカップに、静かに紅茶が注がれた。
私は息を潜めながら、それを見守る。
「ありがとう。では、いただきましょう」
王妃様は優雅にカップを持ち上げ、セドリック殿下もそれにならう。
セドリック殿下が、まず一口含む。
私はじっと見守る。
……その瞬間。
彼の眉間にぐっとしわが寄った。
それから、セドリック殿下は肩を震わせている。
(もしかして……すり替えに失敗したのかしら……!?)
私の心臓が跳ね上がる。息を詰めて様子をうかがっていると──
「……ふっ……く、苦い……っ」
セドリック殿下が、堪えきれずに口元を覆い、笑い出した。
「セドリック殿下、紅茶がどうかされましたか?」
王妃様が怪訝な顔をしながら、彼のカップを見つめる。
セドリック殿下は笑いを飲み込みながら、ゆっくりとカップを置いた。
「申し訳ありません、エレオノーラ様。いや……何か変なものが入っているわけではありません。ただ……とにかく、ひどく、苦い」
「苦いですって?」
王妃様は眉をひそめ、静かにご自身のカップを持ち上げた。
そして、一口。
「…………」
次の瞬間、王妃様もまた、沈黙。
「……淹れ直しなさい」
王妃陛下が、静かに侍女たちへと命じる。
その言葉に、すり替えられた侍女がぎょっとし、青ざめるのが分かった。
すると、セドリック殿下がカップを持ったまま、ゆっくりと口を開いた。
「いいえ。私はこのお茶の方が好きですので、このままで」
……えっ?
私は思わず、目を丸くする。
王妃陛下も、驚いたようにセドリック殿下を見つめた。
「……まあ、セドリック殿下。わたくしに気を遣わなくてもよろしいのよ」
「いえ。本当に、落ち着く味ですので。私好みの紅茶をありがとうございます、エレオノーラ様」
「まあ……あなたがそう言うなら、この一杯はこれでいいわ」
よっぽど苦いのか、王妃はそれ以降その紅茶に口をつけない。
ほ、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだわ。
「そうだわ! 次は趣向を変えて別の茶器にいたしましょう。わたくし、お友達から素敵な銀のティーセットをいただいたのよ」
「そうですか。それは楽しみです」
「アマンダ、用意してくれるわね?」
「はい、ただいま!」
王妃はさっきとは違う侍女に茶器の準備を命じ、その侍女は急いでこの場から立ち去った。
茶器を替えるという名目で紅茶を淹れ直すのだろう。
それはそれで胸をなで下ろしたら、それでもセドリック殿下は苦い紅茶を優雅に飲み干してくれていたのだった。