醜い蝙蝠から
物心がついた時にはもう、スラムにいた。
まだ母親がいたときに、
「貴方の名前はルーセット、ルーセット・スヴィですよ。私の、私たちの愛しい子……」
そう何度も何度も繰り返して言われ、かろうじて自分の名前を覚えた。
そのころ母様は病気で、長くはないとも何度も言っていた。
盗んで、奪って、残飯でも雑草でも、1日でも長く生きていたくて、なんでもやった。
母様が言っていた「生きていれば、幸せになれる時が来る。貴方をわかって愛してくれる人がいる。」という言葉を幼いながらに信じ続けていた。いつか、その時が来ると、信じていた。
父親はいなかった。
いれば少しでも暮らしが良くなったのだろうか。
母様は、俺が見たこともない父を想って想って、想いながら死んでいった。俺からしたら顔も、名前も、何もわからない人。助けても、会いに来てもくれない人。どうしてそんな奴を想えるのかわからなかった。
母様が死んでからは、世界がもっと地獄と化した。
母も獣人で、俺と同じ蝙蝠だった。
でも俺は母様と違って羽を身体に隠すことができなかった。
それは「自分は希少です」と「売れます」と周りに宣言しているようなものだった。
そこから毎日、盗んで奪って、人買いや誘拐、奴隷商から逃げ回って過ごした。
あの日もそうだった。
あの日は残飯なんてなくて、悪い意味ですっかり名が広まってしまったから、食べるものなんてなく、空腹の状態だった。
だから、奴隷商から逃げる体力がなかった。
抵抗しようとも子供と大人では力が違いすぎた。
押し問答をしていると逆行した奴隷商は
「醜い蝙蝠のくせに抵抗してんじゃねえよ!!
大人しく売れやがれッッ!!」
そう言ってきた。
確かにそうだと思った。
母は綺麗だった。
黒褐色と灰褐色の髪と、美しい羽と翠の瞳を持つ。
服も髪も身体も、いい状態とは言えなかっただろう。
けれど、美しいというのが一目でわかるほど、綺麗な人だった。
だけど、今の自分はどうだろう。
母と同じだというのに綺麗とは全く言えない髪。
羽だって身体に入れることができないからボロボロになっていて、母の美しいところをひとつだって継いでいないのではとさえ思う。
改めて絶望しても、なお抵抗はしなくてはもっとひどいことになるのは目に見えていた。
抵抗していると、綺麗な身なりをしている女が近づいてきた。
道を聞きたい、と。
奴隷商はいいカモとでも思ったのか急に優しく対応してた。
なんでこんな身なりのいいやつがこんなところにいるのか、そしてどうしてこの男はそれを不思議に思わないで対応ができるのだろう。
やっている事が下劣なやつは、頭も常人より劣っているのか。
驚いて、咄嗟に声が出てしまった。
このまま気づかれる前に逃げてしまおうと思っていたのに。
だって彼女は言ったのだ。
「その獣人の家に行きたい」
彼女は自分がつけていたイヤリングを代金にするから俺を買いたいと言った。
それはそれは美しい宝石が付いているイヤリングだった。
そんなもののことなんてよく知らない俺にだってわかるくらい、高価そうなものだった。
そこからはもう、あまり覚えていない。
気づいた時にはとても大きな城、魔王城の前にいた。
彼女は確か自分の家に連れて行く、と言ったはずだ。
ならここが彼女の家だろうか。
まさかスラムにきているような女が、魔王の娘だなんて、
「いや、いくらなんでも想像してないって!?」
本当に魔王城が彼女の家だった。
城に入れば、見たこともないような数の人がずらりと並び、礼をしていた。
彼女の望みで、俺は客室に通された。
湯浴みをされられ、問答無用とばかりに服を着せられ、髪を切られた。
視界が晴れたからか、それとも心が晴れたのか。
世界がキラキラと輝いて見えた。
本当に、これがずっと見ていた世界と同じ世界なのかと疑問に思うほど、それほどまでに綺麗に見えた。
翌日もまたメイドらしい人に着替えさせられたら、
彼女がきた。
「お父様に会わせる」
魔王に会ってここにいてもいいと言われた時、俺よりもシエルの方が安堵しているように見えた。
でも、続けて言われた
「本当に彼でないといけないのか、彼である理由はあるのか。」
と言う言葉に、自分で納得した。
シエルという不思議な、不思議すぎる子に出会い、自分が特別だと思ってしまっていたんだろうか。
魔王は高貴だ。
この魔界とそこに存在しうる生物を統べる人。
魔界のものたちは皆、魔王に恐れをなし崇拝する。
その娘だってその限りではない。
当たり前だろう、魔王に次ぐこの魔界で強いヒト。
美しく麗しく、強欲で傲慢なその姿が魔族達を魅了する。
魔王にそう言われたのだから、出ていかないという選択肢は存在しない。
それにどうせ、
「どうせ誰かに必要とされる能力と持ってない。」
気づいたら言葉が漏れていた。
言うつもりなどなかった。心の中で転がしていた言葉が口の中にに滑り込んで声に出ていた。
その途端にふわりと頬を包まれる感触がして気づけば目の前に彼女の整った顔があった。
「私は、少なくとも私は君にここにいて欲しいよ。理由なんてなくても能力なんてなくても、君がいいから。」
そう言って彼女は自信に満ち溢れたような顔で微笑んだ。
魔界の全てが彼女に魅せられる何も頷けるほど、その微笑みは美しかった。
庭園について、花を見せてもらった。
俺が綺麗だと言ったハーデンベルギア、かには毒があるらしい。
花に見惚れていると、部屋に飾るといいとその花を摘んで送ってくれた。
部屋に持って帰ると、メイドが花言葉を教えてくれた。
『貴方に出会えてよかった』
花言葉の意味を理解した途端、顔が熱くなる感じがした。
自分と会えたことが、彼女は嬉しく思ってくれてるのだろうか。
思っていなくとも、別に構わない。
俺がこれからそう思わせるから。
「貴方に会えて良かった」と。
花瓶に飾られた花を見ながら思う。
これからも、彼女のそばに居よう。
いつか彼女を護れるようになりたい。ならなきゃいけない。
じゃないと俺は恩を返せない。
俺を醜い蝙蝠から変えてくれた恩を────