社畜に忌々しき契約を
「何のつもり?」
黒いモヤを訝しむように本心を語る。
いきなり誘拐されたと思ったら娘になれだなんて、冗談じゃない。
百歩、いや一万歩くらい譲って誘拐までは許してあげよう。
だが、誰かもわからぬ相手の娘になんてなるわけがないではないか。
逆になると思っているのだろうか?
ここまで突飛な契約内容は初めてだ。
「まあまあ、話しくらい聞いておくれよ。まずは自己紹介と行こうか?僕は魔王、君を娘にしたい。」
「…そういう冗談は求めていない。馬鹿にしているのか」
そんな冗談が罷り通ると思っているのなら舐められたものだ。
「冗談なんかじゃないさ。
正真正銘、僕は魔王で、此処は魔界だよ」
くるりと一周回って両手を広げ、余裕たっぷりの笑みを浮かべたその人の様子は、“ここは自分の世界だ”と言っているようで信じてしまいそうになる。
ああ、忌々しいにもほどがある。そんな相手に口論で勝てと?
考えているうちに、自称魔王は、執事もしくは従者の人に呼び出され「ちょっと待っててね」と言って部屋を出て行った。
あの従者らしき人も「魔王様」と呼んでいたから、嘘ではないのかもしれない。
嘘であってほしいけれど。
さてどうしたものか、断るのが得策だし、合理的なはずだ。できるのかは別として。
平穏に暮らすと決めたそばから面倒ごとな巻き込まないでほしい。
「にしてもあの魔王様とかいう人、見たことあったような……?」
「ノワール様をですか?」
「わぁ!?!?」
ぼそりと呟いた独り言に返事が返ってくるなど思っていなかったから、大袈裟なほど驚いてしまった。
「あ、も、申し訳ございません!」
(可愛い、とても愛らしい!)
目の前にいる、メイド服を身につけているこの女性。
ふわふわくるくるなクリーム色の長い髪。
羊のようにくるりと巻かれている角。
綺麗なエメラルドの瞳。
どこを切り取っても美少女でしかない風貌。羨ましい限り。
「あ、あなたは、?」
「ノワール様より、貴女様のお世話を命じられました、メイドのラレーヌと申します。
よろしくお願いします。」
にこにこと微笑んで人当たりが良さそうな雰囲気を纏うメイドの女性は腰を折ってお辞儀をした。
(ラレーヌ、か。)
見た目通りの名前、可愛らしい名前。
名は体を表すとはまさにこのことではないだろうか。
「ノ、ノワールってさっきの魔王のこと?」
「ええ。ノワール・エトワール様でございます。」
語呂がいいのか悪いのか。
そういえばだが、名乗られていなかった。
まったく、父になりたいというのなら名ぐらい名乗ってもいいのではないか?
「そういえば、あなたのその角、羊みたいね」
「えぇ、だって私は羊の獣人ですもの」
「獣人……」
『此処は魔界だよ』
確かにノワールはそう言っていた。
魔界。私が想像しているファンタジーによくある魔界と、此処が同じなのであれば、魔界に獣人や、魔王などがいても確かにおかしくはない。
「私を連れてきたのは、娘が欲しい以外の思惑はあるのか、教えてくれないか」
「……それは私からお話しすることはできかねます。ノワール様に直接、お聞きになってください」
あくまで教えてはくれない……と。
何と徹底した教育だろう。きっとホワイト企業に違いない。いや、むしろブラック企業なのか?
「じゃあ、早く戻ってきてほしいものだね」
「ふふ、そうですね」
「呼んだ?」
「わぁぁぁぁ!?!?!!」
………
「ごめんって」
目の前にいるのは正座している魔王様。
急に出てきたことへの罰だと思ってもらおう。
「なんで急に出てくる!?」
「だって呼ばれたから……」
「呼んでいない!」
目の前に急に出てきたことに驚いて柄になく叫んでしまった……
もっと普通に出てくることはできないんだろうか。
「それで?僕に聞きたいことって?」
「そもそもどうして私だったのか、教えて?」
「何でって言われてもなぁ。
不思議な感じがした、から?なんでか君は見たことのないような気を纏っているんだよね。」
「“気”?」
「そう、ただの、魔力も持っていない人間のようなのに、その核には確かに魔力がある。
森で見つけた時に不思議な子だなって思ったんだ」
森、とはお父様が私を抱えて馬を走らせていた森のことだろうか。
にしても、私に魔力があるとは。
お父様もお母様も、お兄様だってそんなこと言っていなかったのに……?
いや、ここは異世界。私の常識は到底通じない。
もしかしたらあの家は魔力を持つ子が生まれる家なのかもしれない。
どっちにしろ今はそれは関係ないし。
「で、どうする?」
「え?」
「僕の娘になってくれるかい?」
ピラリと1枚、紙を差し出して言ってくる。
甲は乙に対して────
と何やら文章が羅列されている紙。
(契約書かよ)
こんな契約書なんてもう見なくて済むと思っていたのに。
あぁ、見るだけで吐き気がする。
「これ、断ったらどうなるの?」
「え?……今日のディナーのメニューが変わるだけだよ?」
……私食べられない?それ。
なんてこった、こんなの脅しだよ。
断るなんて選択肢がないじゃないか。
やや脅しにも聞こえる言葉に、断る選択肢も勇気もない私には、頷く以外の選択肢などない。
(なんて暴君なんだ)
契約書に随分と小さくなってしまった、ペンすら持てない手で触れる。
すると、指紋がついて契約書が消えた。
「よーし!これで君は今日から僕の娘だ!
名前は、確か…」
「シエル。この名前を変えるつもりはない。」
「シエル、そうだね。じゃあ、僕の姓、エトワールを名乗って、シエル・エトワール。
いい名でしょう?」
「まぁ、いいかそれで」
シエル・エトワール
どこかで聞いたことがあるような名前だ。
《『わたくしの名前はシエル。シエル・エトワールですわ!!』
『貴女ごときがわたくしに勝てると思わないでくださいまし!!』
『なっ、なぜわたくしが追放なのですの!?』》
頭に流れ込んでくる何かの記憶。
映像のようになだれ込む。
それが前世での記憶だと気づくのに時間はたいして必要なかった。
ということは、
私は、乙女ゲームの悪役………?