公爵令嬢ピオネの初恋5
バルコニーに出ると風に髪が煽られた。突然、緊張した糸が切れたみたいに目眩が起こる――
眼の前が暗くなり……、歩きずらいヒールが地面に噛み合わない――
足元がふらつく。
私は床に倒れそうになってしまった。その時、何故か昔の事を思い出した。私の知らない記憶、消えてしまったはずの『誰か』との思い出――
『君は本が好きなんだ。……『カーメル英雄戦記』? 俺も嫌いじゃないけどそれは子供が見るものじゃないと思う……。それよりもこっちの冒険活劇小説を見てみないか? 異国から召喚された女の子が聖女として――』
『ピオネさんは見た目よりもはっきりモノを言う子だね。……剣術を習ってみたい? そうだな、機会があればね。あ、そのぬいぐるみ持っててくれたんだ。――ピピンちゃんか……ああ、とてもいい名前だ』
『同年代よりも魔法が出来ない? 俺達はまだ初等部だ。別にそんな事はどうでもいいだろ。俺もピオネさんと同じくらいの魔力しかないさ。どんなことも真剣に努力したらいずれ結果が付いてくる。大丈夫、ピオネさんならいつかきっと……』
『――本当に辛いと思ったらいつでも俺に助けを求めてくれ。どんなところにいようと君を守りに飛んでいく』
――それは一瞬の事。泡みたいに霧散していく思い出と記憶。
「ピオネさん、大丈夫か?」
心地よい低音の声。魂が揺さぶられるような響き。記憶が混乱する。
私の肩を支えているたくましい腕。
「セイヤ……様?」
見上げるとそこには隣国の皇子セイヤ・マシマ様が私を支えていた。
バルコニーには誰もいないと思っていたから驚いてしまった。
意識が急速に覚醒する。状況を理解する。
「ご、ごめんなさい、夜風に当たろうと思ったら……」
「……座れ」
セイヤ様が私を椅子に座らせてくれた。
隣国自由都市皇国の第五皇子セイヤ・マシマ様。帝都貴族学園高等部一年生であり、留学生であり、ジゼルの婚約者。
面識はある。それでもパーティーで数回話したことがある仲というだけ。その時は隣国自由都市皇国の書物の話で盛り上がってすごく楽しかった覚えがある。
セイヤ様は貴族学園の有名人でもある。
少ない魔力を効率的に使用し、唯一使える火魔法と組み合わせた天才的な剣技は魔法をも切り裂くとも言われている。
同じ高等部とは思えないほど大人っぽくて端正な容姿は学園の令嬢からは絶大な人気を誇る。
本人はどうでもいいと思っているのか、話しかけてくる令嬢を短い言葉で断ち切る。
学園ではいつも一人でいる印象が強い。
令嬢からは人気がある一方で、その冷たい態度や人を寄せ付けない雰囲気のせいで学園の『氷の皇子』とも言われている。
……私にとっては身近な人物。滅多に話さないけど、私と立場が似ている。
セイヤ様は屋内にいるディット様とジゼルを見つめていた。精悍な顔つきが少しだけ歪んだような気がした。
「あの二人は相変わらずか……」
「え、ええ、セイヤ様もお一人で夜会へ?」
「ああ、いつもの事だ」
「わたしと一緒ですね……」
私がそう言った時、セイヤ様の空気が変わったような気がした。何かを我慢しているような……、苦しそうな……、うん、表情は全然変わっていないから分かりづらいけど身体に力が入っているみたいに。
私達は無言になり、楽しそうにお喋りをしている二人を見つめる。
セイヤ様がポツリと呟いた。
「……こんなに苦しいなら恋なんて感情……失くしてもいいんだろうな」
その言葉が私の心の中にすぅっと入ってきた――
セイヤ様は私と一緒なんだ……。
愛する婚約者であるジゼルはディット様と恋人のように振る舞う。それは……とても苦しくて悲しくて寂しい気持ちになってしまうんだ。
恋なんて感情があるから苦しくなる。
(なら恋なんて感情なくしてもいい……。そうなの、この感情がなくなれば苦しくないの)
私はその言葉が頭に残って消えなかった。
思えば私は恋心に囚われすぎていた。自分を磨こうとせず、本と詩の世界に逃げていた。
ディット様の好みのお淑やかな令嬢を目指していた。自分の意思はそこに無かった。
もしも私にそんな感情がなかったら? もしも私がちゃんと努力したら?
色んな想いが頭の中で交差して、自然と口に出ていた――
「そうですね……、こんなに苦しいなら無くしてしまいたいですね……」
「ピオネさん……?」
「セイヤ様と私って似てますね」
「……ああ、そうだな」
セイヤ様は少しはにかんだ笑顔を向けました。なんだろう? すごく珍しいというか、初めて見たような笑顔だった。
そして言葉を続ける。
「……俺はジゼルを信じたかった。愛したかったし愛されたかった。……アレを見る限り俺たちはただの仮面夫婦にでもなるんだろうな」
「その気持ち、よく、わかります……。うちの姉が本当に申し訳ございません……」
セイヤ様が首を軽く振って私の言葉に答える。
「君が悪いわけじゃない。だが、こうしてピオネさんと話すことが出来て決心がついた」
「セイヤさん?」
私は首を傾げる。決心? なんの決心なんだろう?
「スキル『感情消去』――。実は俺は自分の特定の感情を消せるスキルを持っているんだ。こんなに苦しいならもう消しても構わないだろ?」
セイヤ様は私を見つめていた。なんだろう? その表情は懐かしい友人と会っている時のような顔。
……それにしても感情を消すスキル? 聞いた事がない?
スキルはその人が持っている生まれ持っての『特殊な技能』を表す力。
『魔力強化』や『身体能力強化』など色んなスキルがある。
二個三個持っている稀有な人もいる。
私も一つだけ持っているけど、令嬢には必要もないスキル。
そんな事を考えていると、何故かセイヤ様は私を見つめていた。
「……今までありがとう、ピオネさん――」
突然のセイヤ様からのお礼に私は驚いてしまった。
さっきまでのはにかんだ笑顔とは違う。
思わず見惚れてしまいそうな笑顔。なんて表現していいかわからないけど……、本当に感謝を込めて感情を込めて私に伝えようとしている。
少しだけ寂しさを感じるのは何故だろう?
――その時、頭の奥の奥で『誰か』が私に向けた笑顔が浮かび上がった。それも一瞬、でも心に残る何か。凍てついた私の心が溶けていくような感覚に陥った。
と、同時に記憶の奥にある何かを思い出した。
『誰か』と屋敷の書庫を冒険した時――
書庫の奥底に眠っていた古めかしい本。家族にその本の事を聞いてもみんな白紙にしか視えなかった不思議な本。私にしか文字が『視えない』古書。
『――成長させて――無駄な感情を消して――スキルを習得する――本』
確かにそれは存在する。
なら、今度こそ、私はちゃんと行動しなきゃ! 今、ここでセイヤ様と一緒にいて『古書』の事を思い出せたのも何か運命。
「セイヤ様っ!」
「ピオネさん?」
「……もしかしたら、私も『それ』できるかもしれません。うん、やってみます。こんなに苦しいのはもう嫌ですっ」
「ふっ、随分と久しぶりにそんな顔を見たな」
「え? 私達ってパーティーでたまにしか話していないと思っていました?」
「気にするな。そういう気分だ」
「そ、そうですか……? あの、私、パーティー抜け出して屋敷を探索しますね」
なんだか心がウキウキしてきた。
気がついたら私は笑っているみたいだった。
だってセイヤ様が笑っていたからそう思った。