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 泣き崩れたかけた梨花を連れて、彼は陸に戻ってくれた。スカートを軽く絞っている間に、人魚の足から人間の足へと彼の下半身は姿を変え、鱗は脆い皮膚へと変わった。姿を変える前の彼の尾は、至る所で鱗が剥がれ落ちていて、透き通るような銀色の肌が覗いていた。それは彼のそれまでの苦労を物語っていたようであるけれど、それを認めてしまったら梨花の気持ちのやり場がなくなってしまいそうだった。

「風邪引くだろ。帰ってシャワー浴びろよ」

「帰りたくない」

「制服だって」

「帰れないの」

 投げやりに他人と肌を重ねて、それが原因で傷付いたのを隠せるほど、自分は大人になっていない。今帰れば母に見つかって、ひどく怒鳴りつけられるのが分かっている。それに相手は仮にも友人の彼氏だ。この罪悪感は、一人では耐えきれない。

「あんたの家どこよ」

「桟橋の近くだけど、来る気か」

「他にどこに行けって言うの」

 制服から塩水が滴り落ちている。ぽたぽたと乾いた砂に痕をつけていくそれを見て、彼は大きくため息をついた。「仕方ないな」

 着いてこいとばかりに彼は歩き出し、梨花はそれに続いた。彼がこちらの歩く速さに合わせてくれていることも、時折後ろを振り返ってきちんと着いてきているか確かめてくれるところに安心して、同時に彼ともっと早く会えなかったことを恨めしく思った。

「玄関で制服脱いで。見ないから」

 彼の家は古いアパートの一階だった。壁の塗装はところどころ剥げていて、隣の家の住人が植えたであろう観葉植物の蔦がドアの近くまで這っている。中に入ると彼は梨花にビニール袋を押し付けて、奥の部屋へとさっさ逃げてしまった。廊下と部屋を繋ぐドアが閉められる。

「すぐ右の扉を開けたらシャワーがある。ユニットバスだけど我慢して」

 海水の匂いがする制服を、ビニール袋にぐちゃぐちゃに押し込む。下着も脱ごうとして、替えがないことに気が付いた。シャツやズボンは貸してもらえるにしろ、さすがに下着は借りられない。諦めて同じものを着るかと下着に手をかけて、先ほど好きでも何でもない人に脱がされたばかりなのだと気がつく。乾きかけていた涙が再び溢れ出した。

 涙が枯れるまで、なんて言葉はあるけれど、涙は止まることを知らない。苦しいことを思い出せば涙は滲み、痛みや悲しみを思い出せば、堰を切ったように溢れ出す。身体の水分が全て涙に変わるか、感情を全て吐き出して空っぽになるまで止まることはない。

 嗚咽を堪えるべく蹲り、口を塞ぐようにして泣いていると、梨花の声は気持ち悪さを我慢しているように聞こえたらしい。彼は部屋の向こう側から「吐くならトイレで吐けよ」と叫んでから、「病院連れて行ったほうがいいか?」と声色を変えた。その声が妙に優しくて、また泣けた。

「気持ち悪くて立てない」

「あんた今服着てる?」

「着てる」

 彼が扉の向こうに立つ気配がした。恐る恐る扉が開けられて、彼が半分目を瞑りながらこちらを覗き込んで、意味の分からない悲鳴を上げた。

「着てないじゃん」

 ドタバタと彼が奥の部屋に逃げ帰っていく。梨花は立ち上がって、薄く開いたままの扉を開けた。すると彼はしばらく呆然として梨花を見つめて、それからはっとしたように自分の目を隠した。

「俺すでに誘拐犯にされそうで怖いんだよ。性犯罪は嫌だ」

 腰が抜けたらしく、彼はへなへなとベッドり座り込んでしまう。チャンスだと思って彼の肩を押すと、思ったより簡単に倒せた。

「私が良いんだから良いんだよ」

「良くねえよ、馬鹿」

 ベッドの上に投げ捨ててあったスウェットを彼が手探りで掴む。それが乱暴にこちらに投げつけられた。

「それでも着てろ」

 咄嗟に受け取ったスウェットは、彼の匂いがした。

「何で? 普通こんなんになったらするでしょ?」

「知らねえよ。自分を大事にしろ」

「さっきはもっと簡単にされたよ」

 彼が薄目を開け、半分を手で隠すようにしながらこちらの顔を見た。その目に驚きと悲しみと痛みが溢れて、再び隠された。

「あー、そういうことか」

「合意ではあったよ。無理やりされたんじゃない」

「泣くくらいならするなよ」

「うるさい。元はあんたのせいなんだから」

「俺なにかした?」

「うるさい」

「それじゃ分かんねえよ。あと俺の上からどいてくれ」

 もうどうやってもしてくれそうにないな。そう察して大人しくスウェットを着て、ベッドの足元に座った。

「あんたまだ高校生?」

「高三。行ってないけど」

「高校生なのに一人暮らしなの?」

 部屋を見渡すと、持ち物は全て一人分しかない。それに家族で暮らすには狭すぎる。そう思って尋ねると、彼はベッドに寝ころんだまま、気だるそうに返事を寄こした。

「俺の親、海にいるから。人魚だよ人魚」

「ご両親はあんたみたいに人間になれないの?」

「なれない。俺だけ」

「そっか」

 トクベツなんだね。そう言うと、彼は「ちげーよ」と小声で返した。

 何となく、人魚姫の物語を思い出した。王子に恋をした人魚姫は人間になりたいと願って、それから――。

「あんたが思ってるようなことは何もないから」

「私まだ何も言ってない」

「どうやって人間になったんだろう、って考えてたんだろ」

「その通りですけど」

 梨花が不貞腐れると、彼はようやく笑った。

「夕飯は食わせてやるから。一人で帰れそうか」

「帰れない。送って」

「はいはい」

 冷蔵庫の中を漁っている彼を見ているうちに、不思議と涙は止まっていた。

 帰り際、彼は「海斗」という名前なのだと教えてくれた。


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