第63.5話 渚留衣は――【前編】
『え、入ってるわけないだろ?』
『おう。まず司だろ? 月ノ瀬に蓮見、んでお前。ほら、みんな』
『そのみんなで一緒に過ごせたんだから――』
怖かった、あの顔が。
怖かった、あの目が。
怖かった、あの声が。
怖かった――アイツが。
なにを言っているのか分からなかった。
なにが言いたいのか分からなかった。
なんで……あんなに平然としているのか分からなかった。
分からなかった――アイツが。
怖くて。分からなくて。
だから――逃げ出した。
これ以上あの場所にいたら頭がどうにかなりそうだったから。
これ以上アイツと話していたら、頭がおかしくなりそうだったから。
アイツはいったい誰だったんだろう。
彼はいったい、誰なのだろう。
わたしが知っている青葉昴は。
いったい、誰?
× × ×
「あっつ……」
インドアの天敵、それは言わずもがな……アウトドア。
外で遊ぶ時間があったら、部屋でゲームをしていたい。
外で運動するくらいだったら、部屋でスポーツゲームをやっていたい。
可能な限り家から出たくない。
それがわたし、渚留衣という典型的なインドア陰キャ女だ。
とはいえ、学生という立場である以上学校イベントには逆らえない。
学習強化合宿で最も気乗りしなかったイベント――
そう。
現在進行形で行われている、ハイキングである。
「あっつ……」
汗で前髪が額に張り付く。
ただでさえクセがある髪の毛たちが、汗によりそのクセレベルがさらに上がっていた。
帰りたい……。純粋に、そう思う。
「……」
げんなりとするわたしとは対照的に、前を歩く朝陽君をはじめとする班員たちは楽しそうに歩いていた。
やれ自然を感じるなぁとか、やれ空気がおいしいねぇとか。
そんな……何気ない話でワイワイ盛り上がっていた。
わたしはただ、そんな彼らに付いていくので必死だった。
体力に自信がないわたしにとって、このハイキングは文字通り『地獄』である。
炎天下。
運動。
集団行動。
苦手のオンパレードだ。苦手の役満だ。
別にクラスメイトたちのことが嫌いというわけではない。
けれど、コミュニケーションというものは今でも苦手だ。
なにを話せばいいのか……分からなくなるし。
どこぞの男がわたしを『陰キャ代表』なんてバカにしてきたけれど。
実際その通りなのだ。
「――渚さんもそう思わない?」
「ぇ……あ、うん。そうだね」
朝陽君がこちらを向いて話しかけてきたけど、適当に返事をしてしまう。
歩くことで精一杯で、肝心の話を全然聞いてなかった。
今日は……特にしんどい。
正直、今すぐにでも座って休みたい。
でも、わたしのわがままでみんなに迷惑をかけるわけにはいかない。
わたしは歩くこと以外のスイッチを極力オフにして、超省エネモードでハイキングを乗り切ることにした。
なにがツラいのか問われれば……やはりこの『暑さ』だろう。
太陽の光が……眩しい。暑い。
まるでわたしの身体を焼き尽くすかのように、その熱が全身に纏わりつく。
現在絶賛『寝不足』のわたしには、太陽による熱ダメージが二倍だった。
ゲームで徹夜をしたことは何回もある。
そういうときは大抵、極力外に出ないようにしていた。
なぜならば、寝不足の人間には日光が効果抜群だから。
一度軽い気持ちで外に出て、本気で倒れそうになったことがある。
――そんなわけで。
今のわたしは、一歩進むごとにダメージを受ける結構ヤバめな状態異常中なのだ。
もしリアルに『万能薬』があるのなら持ってきてほしい。
多分、気を抜いたら……倒れる。
「……ふぅ」
みんなに聞こえないように、小さく息を吐く。
首に巻いたタオルで汗を拭う。
――言いたいことは分かってる。
ハイキングというイベントの存在を理解していながらも、どうして『寝不足』なのかって。
どうしてちゃんと寝なかったんだ……って。
文字通り『徹夜』をしてしまったわけだけど……本当に自分でもバカだと思う。
だけど。
わたしだって、徹夜したくてしたわけじゃない。
寝られるものなら、ちゃんと寝ている。
分かってても……寝られなかった。
目を瞑ったら――アイツの顔が思い浮かぶから。
アイツの言葉が思い浮かんでしまうから。
青葉昴のあの平然とした顔が――思い浮かんでしまうから。
だから怖くて……寝られなくて。
ゲームをして気を紛らわせるしかなかった。
そしてそのまま……時間は朝になっていた。
あぁ……今日、終わったなって。
本気でそう思った。
それもこれも……全部、アイツのせいだ。
アイツ……青葉は最初からそうだったのだろうか。
最初からわたしたちを友達だと思っていなかったのだろうか。
アイツの行動はすべて『打算』のうえに成り立っていたのだろうか。
わたしたちはただ、アイツの掌の上で弄ばれていただけなのだろうか。
グルグルグル――
考えても、考えても、答えは出なくて。
少なくとも、わたしは……わたしたちは青葉を友達だと思っていた。
けれど青葉は……そうじゃなかった。
アイツの目に……わたしたちは映っていなかった。
朝陽君の目に映るわたしたちを……ずっと見ていた。
たしかに、青葉はもともと自分を顧みないような言動をすることがあった。
犠牲……と言うには誤りがあるかもしれないけど、自分を『利用』して周囲が上手くいくように動く節があった。
例えば学校案内。
例えばスポパ。
例えば月ノ瀬さんが髪を切って来たあの日。
考えれば多分……キリがない。
あの様子だともっと前から……それこそわたしたちと出会う前からそうなんだろうね。
そんな青葉にわたしは疑問を抱いていた。
もしかしたらコイツも、わたしと『同じ』なんじゃないか……って。
親友が幸せになってほしいって思ってるだけなんじゃないか……って。
結果としてそれは違っていた。
青葉の『アレ』は……わたしと同じなんかじゃない。
もっと別の……なにか。
尋常じゃないほど『歪んだ』……なにか。
あの歪みをどう表せばいいのかは、わたしには分からない。
あんな歪みを抱えて、アイツはずっと生きてきたの……?
初めてだった。
初めて人間という存在に……本気で恐怖心を抱いた。
あの目は。
あたしを見ていながらも……なにも映っていないあの目は……『空っぽ』だった。
見ていられなかった。
見ていたくなかった。
わたしは……これからどうすればいいのだろう。
青葉のことを晴香に話すわけにはいかない。
晴香に余計な負担をかけさせるわけにはいかない。
やっぱりこれは……。
せめてわたしだけでも『いつも通り』に振る舞うしか――
それが一番、波風を立てない方法――
「……ぁ」
視界が、歪む。
マズい。
歩くこと以外にリソースを使いすぎた。
思考に体力を持っていきすぎた。
気付いたときにはわたしの足はもつれ、そのまま地面に――
「……っと」
瞬間。
グイッと、誰かに腕を掴まれる。
がっしりとした……男子の腕だ。
「大丈夫……じゃなさそうだな。渚さん」
わたしの腕を掴み、心配そうに顔を覗き込んでくる一人の男子。
倒れそうだったわたしを……朝陽君が支えてくれていた。
× × ×
「俺たちはゆっくり行くからみんな先に行ってて。あとから追いつくよ」
朝陽君がそう言うと、ほかの三人は先に向かう。
わたしたちはそのあとをゆっくりと……疲れない程度に歩いていた。
「ごめん、朝陽君……迷惑かけちゃって」
隣を歩く朝陽君に謝罪をする。
なにやってるんだろうわたし……。
みんなに迷惑はかけないって決めてたのに……。
さっそくやらかしてるし……。
罪悪感に苛まれるわたしに、朝陽君は「大丈夫」と優しく微笑んだ。
「むしろこっちがごめんだよ。もっと気にかけておくべきだった」
「朝陽君が謝るようなことじゃ……」
「今は体調どう? 少し休憩する?」
「う、ううん。ちょっと落ち着いたから」
「そっか。それじゃあ、のんびり行こうか」
相変わらず、この朝陽司という男子は優しい。
穏やかで、優しくて、それでいて頼りになる。
ラブコメ主人公って言われるのも納得だ。
晴香が好きになったのがこの人で良かったって本気で思える。
「朝陽君、周りをよく見てるよね。今だってそうだし」
これでもう少し女子からの好意に敏感になってくれればな……とは思う。
それで晴香たちがどれだけ大変な思いをしていることか……。
ま、でも……それこそラブコメ主人公ってやつなのかな。
見ている側はヤキモキするけどね。
朝陽君は照れくさそうにしながら首を左右に振った。
「そんなことないって。だって渚さん、身体を動かすようなことが苦手でしょ? 寝てないって言ってたし尚更ね」
あぁ……ホントによく見てる。
もっと自信をもっていいのに。
朝陽君にとっては当たり前の気遣いでも、全員がその『当たり前』を持ち合わせているのかと聞かれれば……答えはノーだろう。
彼の優しさは下心のない純粋な優しさ。
だからこそこの人は……周囲を惹き付ける。
わたしたちを……惹き付けるんだ。
「それに――」
それに?
わたしは続く言葉を待つ。
朝陽君はなにかを思い浮かべて……どこか嬉しそうに微笑みながら、言った。
「昴にも頼まれてたしな」
「……え?」
思わず声が漏れる。
「どうしてそこで青葉の名前が……?」
予想外の名前に、頭の中が再びグルグルと回り始める。
「渚さんのことを見ておいてやれってね。寝不足だからしんどいだろうって……昴から頼まれてたんだよ」
なに、それ。
わたしの知らないところでなに勝手なこと言ってるの。
見ておいてやれ……って、いったいなんなの。
「な、なんで青葉がわたしのことを……」
「心配だったんだと思うよ、君のことがね。アイツってそういうヤツだろ?」
わたしは俯き、考える。
心配なんてしてるわけない。
あの青葉昴がそんなことを思うわけない。
きっとその行動にはなにか理由がある。
間違いなく、善意ではないことはたしかだ。
……そうだ。
仮にわたしになにかあれば、班長である朝陽君に迷惑がかかる。
それを回避するための行動に違いない。だとすれば納得がいく。
「……なぁ、渚さん」
俯くわたしに朝陽君は話す。
「アイツ……」
わたしは見上げるように朝陽君へと顔を向けた。
朝陽君はまだ……言葉の続きを話さない。
なにかを考えているその表情は、話すかどうかを迷っているように感じた。
なにを話そうとしているのだろう。
今の話に……青葉に関連することだろうか?
そして。
朝陽君は……小さく頷いて口を開いた。
「昴って──おかしいだろ」
その言葉に。
わたしは、耳を疑った。