第346話 朝陽志乃は再び彼と出会う
「志乃ちゃん!」
廊下を走る、小さな背中を追いかける。
普段なら絶対に廊下なんて走らないようなあの子が、今は人目も憚らず走っている。
周囲からの視線を感じるが……そんなことはどうでもよかった。
今のオレにとって重要なのは、あの小さな背中に追いつくことだけだ。
階段を駆け上がり――
辿り着いたのは、朝にも一度訪れた『屋上』だった。
× × ×
風が頬を撫でていく。
この場所に来るのは、今日で二度目だった。
兄に続いて……妹まで。
さすがは兄妹、と言うべきだろうか。
視線の先には、フェンスの前に立って……こちらに背を向けたままの黒髪の少女。
その肩は、小さく震えているように見えた。
オレは小さく深呼吸をしてから、拳を握る。
自分にできることはただ、ただひとつ。
志乃ちゃんと、本音で向き合うことだけだ。
「……久しぶり、志乃ちゃん。こんな形での再会になって……ごめん」
返事はない。
「正直、オレ自身も驚いてる。まさか、こんなに早く戻ってくることになるなんて……ってさ」
それでも、志乃ちゃんは黙ったまま。
「でも、戻らないって選択肢は最初からなかった。司や――君と、もう一度ちゃんと話したかったから」
重ねた言葉も、まだ届かない。
「あんなに勝手に消えて、今度は勝手に帰ってきて……本当にふざけんなって話だよな。許されるとは思っていないし、許されるために戻ってきたわけでもない」
屋上にオレの声だけが響き渡る。
一歩、志乃ちゃんの背中に向かって踏み出した。
「それでも、オレは――」
「……どうし、て……ですか」
「え?」
かすかに聞こえた、震えた声。
小さく、だけど確かに届いたそれは……。
間違いなく、志乃ちゃんの声だった。
「どうして……帰ってきちゃったんですか……っ!?」
その言葉とともに、志乃ちゃんがようやく振り返った。
その顔には、今にもこぼれ落ちそうな涙――
そして揺れる瞳には、押し殺した感情があふれ出していた。
志乃ちゃんは胸元に手を当て、グッと握る。
「半年かけてやっと……やっと少しずつ前を向いて……『あの日』のことを受け入れて……前に進んでいたのにっ……!」
「ああ……」
「なのにっ……どうして……どうして平気な顔でそこに立ってるんですか……! なんで、なんで帰ってきちゃったんですか……!?」
嗚咽混じりの叫びが、オレの胸を貫く。
「……ごめんな」
「謝らないでください……! いつもみたいに……へらへら笑っててくださいよ……どうしてそんな……っ……!」
「オレはもう、逃げないで本音で向き合うって決めたんだ。アイツらと……もちろん、君とも」
「新しい学校で、楽しく過ごしていればよかったじゃないですか……! 私たちのこ……私のことなんてっ……」
「たしかに、あっちの環境も悪くなかった。それなりに楽しくやってたよ。でもさ――」
目を逸らさずに向き合う。
逸らすわけにはいかない。
「君を……君たちを忘れたことなんて――オレは一度もない」
「っ……!」
「今どうしてるんだろうって、何度も思った。泣いてないかな、笑えてるかな……って。オレにとって君は、それだけ特別な存在だから。そしてそれは、今でも変わらない」
「い、今更そんなこと……」
「……そうだな。でも、嘘じゃない」
志乃ちゃんが唇をかみしめ……一歩、後ろに下がる。
転校先では、もちろん新しい出会いがあった。
面白いヤツ、不思議なヤツ、厄介なヤツ……いろんな人間と出会った。
だけど、誰と接していても、オレはみんなのことを忘れたことはなかった。
志乃ちゃんのことを……忘れたことなんて一度もなかった。
そんなことは、絶対にありえないから。
「この半年で、君のオレに対する感情は変わっているかもしれない。こんな馬鹿野郎のことなんて、もうどうでもいいって思ってるかもしれない」
むしろ、そう思われて当然だ。
こんなに散々振り回しておいて、今でも好かれているかも……なんてのは自惚れ以外の何物でもない。
好かれているとか、嫌われているとか。
そんなこと……今は関係ない。
たとえ、志乃ちゃんに見限られたとしても……オレのやるべきことは変わらない。
「志乃ちゃ――」
「そんなわけ……ないじゃないですか……!」
オレの言葉を遮るように、志乃ちゃんが叫ぶ。
そして、次の瞬間。
志乃ちゃんはその目に涙をためたまま、駆け出し――
オレに向かって、飛び込んできた。
「うぉっ……と」
小さな身体を受け止める。
腕の中にすっぽりと収まるその温もりが、オレの胸を締めつけた。
ギュッと、志乃ちゃんの華奢な腕がオレの背中に回される。
「……あんな人知らないって、もうどうでもいいって、何回も思おうとした……! 何回も、何回もっ……!」
「……うん」
「でも、できなかった……! 昴さんのこと、嫌いになんて……なれなかった……!」
「うん」
「私に向けてくれた笑顔も、かけてくれた言葉も……全部全部、忘れられなくて……! 嫌おうとすればするほど、昴さんの優しい顔を……思い出しちゃって……!」
ただ、志乃ちゃんの言葉に耳を傾ける。
すべて……受け止めるんだ。
「やっぱり私は――!」
きっと志乃ちゃんだって、上手く言葉が纏っていないはずだ。
それでも、オレに精一杯伝えようとしてくれている。
届けようとしてくれている。
声が詰まりながらも、志乃ちゃんは一度……大きく息を吸う。
そして――
「昴さんが……大好きだからっ……! ずっとずっと、大好きだから……!」
振り絞るような、真っ直ぐな叫びだった。
この子は、どれだけ複雑な想いを抱えて過ごしてきたのだろう。
たった一人のどうしようもない男を想い続けて。
嫌いになれず、想いを捨てきれず……。
さまざまな葛藤を乗り越えて、前を向けたはずなのに……。
またその男が、目の前にやって来てしまった。
「……ありがとう、志乃ちゃん」
オレは志乃ちゃんの頭にそっと手を置いた。
細くて柔らかな髪が、指の間をすり抜けていく。
「昴さんは……どうしようもない人。最低で、無責任で……どうしようもない人だよ……」
「そうだな。自分が一番そう思ってるよ」
「だから……もう少しだけ、このままでいさせて。これは……昴さんへの罰だから」
「罰なら仕方ないな。志乃ちゃん様の命令には逆らえないからね」
「うん……うんっ……」
ぎゅうっと胸に頭を押しつけてくる志乃ちゃんは、まるで小動物みたいだった。
「そういえば……髪、切ったんだな」
出会った頃から、志乃ちゃんは黒髪のロングヘアーだった。
しかし現在は肩口で揃えられ、以前よりずっと短くなっている。
まるで、去年の月ノ瀬みたいに――気持ちの節目を示すように。
「……悲しさを引きずらないように、切ったの」
「……そっか」
「似合ってる?」
「ああ、すげぇ似合ってるよ」
志乃ちゃんは、まだ顔をオレの胸に埋めたままだった。
どんな表情をしているのかは分からない。
「……前の私と、どっちがいい?」
「そりゃ難しい質問だな」
「どっち?」
「うーん……どっちの志乃ちゃんも可愛いってことで。前の志乃ちゃんも、今の志乃ちゃんもな」
「ずるい」
「おうよ。オレはずるい男だからな」
志乃ちゃんの口から、小さな笑い声が漏れた。
その声には、ようやく涙の影が薄れていた。
「あとね、私……生徒会役員になったんだよ?」
「生徒会室に来たから、薄々そんな気はしてたよ。月ノ瀬や蓮見のことを支えてるんだな」
「むしろ、支えてもらってばっかりだけどね。……私、頑張ってるんだよ?」
「志乃ちゃんは昔からずっと頑張り屋さんだからな。偉いよ。本当に……偉い」
「……昴さん」
「ん?」
最後にぼそっと、志乃ちゃんはオレを呼んだ。
視線を下に向けても……やっぱり体勢は変わらない。
少し間をあけて――
「おかえりなさい」
あぁ……くそ。
この兄妹は本当に……。
「――ただいま、志乃ちゃん」
そのあともしばらく、志乃ちゃんはオレの胸に顔を埋めたまま動かなかった。
オレはただ黙って。
なにも言わずに……ずっと彼女の頭を撫で続けていた。
家族のように大切だった存在。
ずっとそばで見てきた、たった一人の妹分。
オレはようやく……再び彼女の名前を呼ぶことができた。
× × ×
「ねぇ、昴さん」
「どうした?」
少し時間が経ち、オレたちは屋上のフェンスに並んで立っていた。
「留衣さんとは話した?」
その名前に、一瞬だけ耳を疑う。
今――『留衣さん』って言ったよな?
半年前は『渚先輩』と呼んでいたはず……。
呼び方の変化が、彼女たちの関係性の変化を如実に物語っていた。
「ああ、話したよ」
「……そっか」
「それがどうかしたのか?」
「――留衣さん、『いつも通り』だったでしょ?」
そう言うと、志乃ちゃんは真っ直ぐにオレを見た。
その目は真剣で、どこか切なげだった。
「たしかに……いつも通りだったな。話しかけたら普通に答えてくれたし……態度もそうだった。まるで昨日も会っていたみたいで――」
「昴さん。後夜祭の『あの日』……私たちに最後なんて言ったか覚えてる?」
「後夜祭……最後……?」
不意に投げかけられたその質問に、記憶の底を探る。
どうして後夜祭の話が?
渚となにか関係があるのか?
オレが最後に言ったこと。
言ったこと……。
――頭を過ぎったのは、教室から出て行こうとする二人に投げかけた……『最後』の言葉。
「分かった?」
オレの表情の変化で察したのか、志乃ちゃんが小さく首をかしげる。
「昴さん、あの日私たちに言ったよね? 『明日からもいつも通り……よろしくな』――って」
「……まさか」
「うん、そのまさかだよ」
こくりと頷く志乃ちゃんに、オレは息を呑む。
「昴さんが転校した日からずっと……留衣さんは『いつも通り』なんだ。落ち込んだ姿や泣いた姿は……一度も見せなかった」
「そう……なのか」
「何事もなかったかのように……留衣さんはこの半年間、過ごしてたんだよ? 昴さんの話題が出ても、留衣さんだけは平然としてた。平然でいようと……努めてた」
そんな馬鹿な――と言いたいのに、言葉が出ない。
今日の渚を思い出す。
司たちとは違って、渚はオレになにも言ってこなかった。
本当に……オレが知っている『いつも通りの渚』だったのだ。
「私は……無理だった。昴さんがいない毎日なんて……つらかったもん。兄さんたちがいなければ、ぽっきり心が折れちゃってた」
「……」
「でも留衣さんはね……昴さんの『いつも通り』を守ってた。いや……正確には、その言葉に囚われてるんだと思う。きっと……今も」
オレと決して目を合わそうとしなかったのは――そういうことなのか?
少しでも『いつも通り』を装うためってことなのか?
「留衣さんは、自分を守るために『いつも通り』を選んだんだと思う。そうしないと、それに縋らないと……乗り越えられなかったから」
『いつも通り』。
それは渚留衣にとっての『救い』でもあり――
同時に『呪い』でもあったのだ。
「お願い、昴さん」
ふと、志乃ちゃんがオレの手を両手で包み込んだ。
彼女の温かさが、じんわりと伝わってくる。
「留衣さんを――あの『檻』から救い出してあげて」
オレが発した無責任な一言。
その言葉が、渚を縛ってしまった。
先の見えない『檻』に、オレ自身が閉じ込めてしまった。
友達という存在を特別視していた。
自分の居場所をとても大切にしていた。
そんな渚だから――アイツは『それ』を選んだのだろう。
選んで……しまったんだろう。
「それはきっと、昴さんにしかできない。……ううん、昴さんだからこそ――果たさないといけない責任なんだよ」
選ばせてしまったのは、オレだ。
縛ってしまったのは、オレだ。
ならば。
志乃ちゃんの言う通り、責任を果たすのは……オレ以外に誰もいない。
――『志乃さんを追いかけて。あんたには……その責任がある。もう逃げないんでしょ』
あのときお前は……どんな気持ちでオレの背中を押したんだ?
「分かった。オレはオレの言葉を伝えるだけだ。誰が相手であってもな」
「うん。よろしくね、昴さん。それが終わったら、またゆっくり話そ? 昴さんに話したいこと……いっぱいあるんだよ?」
「もちろん。いくらでも付き合うよ」
「うんっ。楽しみに待ってる。約束を破ったら――分かってるよね?」
「お、おぉう……目元に陰が差してらっしゃる……」
「――ん? 分かってるよね?」
「はい! 分かってます!」
そんなやりとりに、オレたちはふっと笑みをこぼした。
……まだ、向き合わなきゃいけない人がいる。
志乃ちゃんにも……渚にも。
これからも、たくさん話して向き合っていかなければならない。
それにな――渚。
オレは……お前に伝えたいことがあるんだ。
どうしても、伝えたいことが。