第338話 陽だまりの道
「わたくしは――あなたが好きよ」
好き。
その言葉が渚の口から俺に向けられたのは、初めてのことかもしれない。
嫌いになれたから、向き合えた。
嫌いになれたから、好きになれた。
なんとも渚らしい『告白』に、俺は思わず笑み漏らした。
「『こんな俺のことを好き、か。君も物好きだな』」
渚に限らず――うざいだの、うるさいだの、呆れただの……そんな言葉は何度も言われてきた。
でも、ハッキリと『嫌い』だと言ってくるのは渚だけだったのだ。
嫌いだからこそ『青葉昴』を理解しようと前に進み続けていた。
俺は、コイツとのそんな関係を楽しんでいたのかもしれない。
「『でしょう? わたくしも自分でそう思うわ。物好きだなぁって』」
「『でも……』」
「『でも?』」
腰に手を当て、俺はニッと笑う。
「『そんな物好きな君のことは嫌いじゃない』」
「『ふふっ、それは嬉しいわね。相変わらず素直じゃないんだから。わたくしにとって嫌いは、最高の褒め言葉よ?』」
「『そりゃなによりだ』」
舞台の上で、俺たちは笑い合う。
余計な言葉なんていらない。
大げさなセリフなんて、もっといらない。
俺と渚にとっては、このやり取りこそが一番相応しい。
それが分かっているからこそ……。
渚は、こんなにも楽しそうに笑っているのだろう。
お前の本音、たしかに聞き届けた。
× × ×
そして、劇はラストシーンへと進む。
「『サン、あなたはこれからどこに行くの?』」
「『それは……俺にも分からない。ま、気の向くままに行ってみるよ。俺が見たことない外の世界ってやつを見にな』」
「『……ねぇ、わたくしも付いて行っていい? あなたと一緒なら……どこまでも行けると思うから』」
「『貴族のお嬢様には大変かもしれないぞ? ……ただ、それでもいいっていうなら――行くか?』」
「『……うん!』」
二人は、ゆっくりと並んで歩き出す。
旅の行く末は、誰にも分からない。
どこに向かって、どこに辿り着くのかも分からない。
それでもきっと――
彼らの歩むその道は、『陽だまり』のように優しくて……温かいのだろう。
× × ×
パチパチパチパチ――!!
鳴り響く拍手が、体育館を包む。
今日……いや、これまでで一番の音だった。
無事に公演を終えた俺たちは、舞台の上に一列に並び、観客からの拍手に応えていた。
そう、いわゆる――カーテンコールというものだ。
一応主役である俺を中心に、役者たちが出揃い、観客へと頭を下げていく。
――頭を下げながら、俺はふと思う。
……ここまで、俺は観客席を一度も見ていなかった。見ようともしていなかった。
顔を上げたら……見てしまう。見えてしまう。
昨日、後方から見ていた……『彼ら』だけが許されていたあの景色が。
――見ていいのか? 俺が? あの景色を自分のものにしていいのか?
「……大丈夫、青葉。あんたは堂々と頭を上げて」
隣に立って頭を下げていた渚が、ぽつりと呟いた。
拍手にかき消されそうなほど小さい声だったが、俺にはしっかりと届いていた。
ったく……俺としたことが、またコミュ障るいるいに励まされるとはな。
ここまで来て怖気づいてんじゃねぇよ。
自分の意思で、ここに立つって決めたんだろうが。
深呼吸して、俺はゆっくりと顔を上げた。
――そして、俺の目に飛び込んできたのは。
「よかったよ二組!」
「最高だった!」
「青葉! お前のこと見直したぞー!」
「いい劇だったよ~!」
「隣の美少女ちゃん紹介しろよな~!!」
体育館を埋め尽くすほどの観客たち。
鳴り止まない拍手は、むしろ一段と大きくなっていく。
見渡す限りの、笑顔、笑顔、笑顔。
俺が知らなかった『世界』が――そこにはあった。
どくん、と心臓が跳ねる。
観客の『顔』が、見える。
俺はゆっくりと視線を巡らせる。
すると、その中に見知った顔がいくつも視界に映った。
「青葉君! かっこよかったよ~! 留衣ちゃんもナイスヒロイン!」
「自分もすごく感動しました! ありがとうございました!」
――井口、伊藤君。
仲良く二人で観に来てくれたんだな。
「おおおおおお青葉先輩! やっぱり青葉先輩はすげー! さすがはオレが憧れた人です!!」
「和樹、あまり騒がないの。でも……本当に良かったわね。あたし、感動しちゃったわ」
――森君、小西。
……っておい。森君、なんか超号泣してないか? 君、そんなキャラだったっけ?
「ふふふふ……! 最高のカップリングでしたよー! よっちゃん的にはもう満点です! 花丸です!」
「おかしい! あんなかっこいい人は昴先輩じゃない……けど! 超面白かったので今回だけは許してあげます! 留衣先輩も超可愛かったですよー!」
「昴さん、渚先輩……最高の劇をありがとうございました」
――よっちゃん、日向。
そして……志乃ちゃん。
見ててくれたか? 俺も、たまにはかっこいところを見せるんだぜ。
「青葉くん、るいるい……! ぐすっ……ど、どうしよう……! 私、涙止まらないよ玲ちゃぁぁぁん!」
「はいはい、思う存分泣きなさい。……最高だったわよ、アンタたち」
――舞台袖のほうから薄っすらと聞こえてきた声。
泣きながら笑っているであろう蓮見と、それを宥める月ノ瀬だ。
「……おめでとうございます。無事にやり遂げましたね」
――後方に見えたのは、星那さん。
あなたの目に『俺』は……どう映りましたか?
「ありがとう、昴。ありがとう、渚さん。二人とも最高だったよ」
「ああ。私は今、温かい気持ちで満ちているよ」
――扉付近には、司と会長さん。
……そんな場所で観やがって。
お望み通り、見せてやったぞ司。
お前の『親友』の全力ってやつをな。
そして、次に目に飛び込んできたのは。
「昴っ!」
――笑顔で手を振ってくる母さんの姿だった。
はっきりとは見えないが、その目には涙が光っていた。
その手にはスマホが握られていて、画面には一枚の写真が表示されている。
そこに映る男性は、優しく微笑みながらこちらを見ていた。
「……ははっ、マジかよ」
俺はぐっと唇をかみしめ……そして、こらえた。
なんだよ……二人で観に来るなら、最初からそう言ってくれよ。
なぁ……どうだった?
オレ、かっこいいところを見せられたか?
父さん。
「……ん?」
もう一度、観客席に視線を戻した俺の目に飛び込んできたのは……。
きたのは……。
――は?
ある『一点』を見た瞬間、俺は思わず息を呑んだ。
「おー青葉ー! オマエ最高にかっけーぞ!」
「昴くん……! 渚さん…素敵だったよ……!」
手を振って笑顔で声援を送ってくる――二人の女子。
明石と有木。
さらに。
「おーい青葉ー! お前いつの間にそんなかっこよくなりやがって!」
「昴くーん!」
「昴! 観にきたかいがあったぞー!」
「あの青葉さんがあんなイケメンに……!」
次々に声をかけてくる彼らの姿を見た瞬間、俺の身体が一歩退いた。
なんで……なんでアイツらがここに──?
その顔を見た瞬間、これまでの記憶が一気に頭を駆け巡る。
有木と明石に加え、他校の制服を着た男女の集団。
間違いない。
アイツらは、小学校、中学校のクラスメイトたちだった。
……中学の連中だけなら、まだ理解できる。まだそこまで抵抗感はない。
でも──なんで小学校時代のヤツらが……。
忘られなかった顔。
忘れてはいけなかった顔。
俺の過ちの『象徴』が、そこに座っていた。
「……お、おいおい」
予想だにしなかった『観客』たちの姿に、俺の思考が一瞬止まる。
そして、視線は自然と……『アイツ』のほうへ向いていた。
……司。
まさか、これもお前が──
「……」
俺の目線に気付いたのか、舞台から離れた場所に立つ司は、静かに……でもはっきりと頷いてみせた。
言葉は交わせない。
けれど、その頷きとアイツが浮かべている表情が答えを物語っていた。
――『今日』という一日に、お前はいったいどれだけのことを考えて、どれだけの覚悟を持って臨んだんだよ……。
本当に、お前ってやつは……。
「……わたしには断言できないけど。これが……朝陽君が、あんたに見せたかった景色なのかもね」
舞台上の静かなざわめきの中で、渚がぽつりと呟いた。
視線は観客のほうに向けたままで……。
それでもその言葉は、しっかりと俺に届いていた。
「は……? この景色を……?」
「あんたがこれまで紡いできた縁。あんたがこれまで関わってきた人たち、繋いできた想い。それを、あんた自身の目で見て欲しかったんだと思う」
「……縁」
「うん。ほら、見てよ青葉。みんな、すっごく楽しそうにしてる。喜んでる。この景色を作ったのは――あんたなんだよ」
そう話す渚の声は、いつもよりずっと柔らかくて……温かかった。
「ありがとう、青葉」
渚はハッキリとそう言って、隣に立つ俺を見上げる。
「この最高の景色を、わたしにも見せてくれて」
それは、劇中のあのシーンを思い出させるほど、穏やかで魅力的な笑顔だった。
「やっぱりあんたでよかった。あんたと一緒にここに立てて……わたし、嬉しかったよ。わたしの選択は……間違ってなかった」
「渚……」
――『わたくしは、あなたが好きよ』
あのとき、初めて渚が口にした台本にないセリフ。
あれが、どこまで『ルナ』のセリフで、どこまで『渚留衣』としての本心だったのか――
あの声も、表情も、空気も鮮明に焼き付いている。
ただの劇としてのセリフだったのか……?
いや、あのときの渚はそれ以上の――
『彼らは今日、トラブルに見舞われながらもこうして舞台に立ってくれました』
――その瞬間、場内スピーカーから澄んだ女性の声が響いた。
聞き慣れた、凛とした女性の声だ。
そして俺は……いや、俺たちはこの声をよく知っている。
「……会長さん?」
俺は思わず呟きながら、先ほどまで彼女が立っていた司の隣に目を向けた。
だけど、そこに彼女の姿はなかった。
いつの間に……。
『主役を変え、ヒロインを変え、それでも堂々とした演技を見せてくれました』
やっぱり……会長さんの声だ。
突然のスピーチに、場内は『なんだなんだ?』とざわつき始める。
ここまでの公演で、こんな『演出』が入ったことなんて一度もなかった。
けれど会長さんの声は、何の迷いもなく……確かな芯を持って流れていく。
まるで、最初からこうすることを決めていたかのように。
『二年二組の諸君、最高の劇を届けてくれてありがとう。観客の皆様――』
ほんの一瞬、間が空いて――
『もう一度、彼らに。この物語の主人公たちに、盛大な拍手をお願いします!』
わぁぁぁぁぁ――!
場内が、一気に沸騰した。
拍手、歓声、賞賛――そのすべてが、俺たちに向けられている。
……圧倒されそうになるほどの光景を前に、俺はただ唖然としていた。
「ほら、なにぼーっとしてんの」
渚の声に、俺はハッとする。
「みんな、主人公を待ってるんだよ」
「主人公ってお前……」
「あんたは立派な主人公だよ。わたしだけじゃなくて、みんなもそう思ってる。あとはあんたが……自分を認めるだけ。だから――最後はあんたが決めて」
「うぉっ……」
そう言うと、渚はぽんと俺の背中を押した。
その勢いのまま、俺は三歩、舞台の前へと進む。
「へへっ、ビシッと頼むぜ! 主人公!」
「頼んだぞ、青葉」
「ほらほら、青葉君!」
「ここは主人公が決めないと!」
後ろから聞こえてくる、クラスメイトたちの声援。
「あぁくそ……。どいつもこいつも、たくましい連中だぜ……」
俺はコイツらの想いを背負って、ここに立っている。
重すぎる期待も願いも……。
すべてを背負って、主役という役目を持ってここまでやりきった。
でもそれは……俺一人では決して成し遂げられなかったことで。
こんなにも、背中を押してくれるヤツらがいる。
こんなにも、信じてくれるヤツらがいる。
――この感覚は、なんだろう。
言葉にならない充実感。
破れていく、殻の音。
無くしたはずの『俺自身』に、再会したような感覚。
「……しゃあねぇな」
一歩、前へ。
そして、俺は――
「ありがとうございました」
その言葉とともに、深く頭を下げた。
『ありがとうございましたー!』
それに続いて渚も、クラスメイトたちも一斉に頭を下げる。
その瞬間、ライトが観客席まで一筋の光を走らせた。
それはまるで、俺たちと彼らを繋ぐ――
『陽だまりの道』のようだった。
ったく……最後の最後に、とんでもねぇ『贈り物』をしてきやがって。
でも……まぁ、たまには悪くないな。
誰かと一緒に同じ景色を見て、同じ場所を目指して歩くってのも……な。
今日、この日を。
この目で見た光景を。
この耳で聞いた歓声を。
この肌で感じた温もりを。
俺はずっと――忘れないだろう。