閑話49 朝陽司は序幕を見届ける【前編】
「わたくしは――あなたが好きよ」
舞台の上で交わされる、彼女にしかできない告白。
その衝撃が、観客席に静かな波紋を広げていた。
あれは劇中のセリフなんかじゃない。
台本には存在しない――渚留衣の、青葉昴に向けた本当の言葉だ。
あの舞台は、数時間前まで俺と月ノ瀬さんが立っていた場所で……。
少し変な感じはするけど……もちろん、それ以上に嬉しかった。
ようやく見られたんだ。
俺がずっと、願ってやまなかった景色を。
「台本にないセリフ……か」
体育館の扉近く。
最前列とは程遠いけど、全体が見渡せる位置。
俺はそこに立って、彼らの織りなす物語を観ていた。
体育館に着いたときには、開演して少し経ったあとだったけど……。
こうして、無事に大事なシーンを観られた。
ここまでずっと、台本通りにセリフを口にしていた渚さんが――
初めて、俺たちが知らないセリフを昴に向かって告げていた。
彼女が言う『嫌い』の中には、きっと様々な感情が含まれていることだろう。
「フフッ」
ぽつりと漏れた独り言に、隣から低く笑う声が返ってくる。
「キミも悪い男だな。まさか、ほかでもないキミが『今回』のようなことを考えていたとは」
そう言って肩をすくめたのは、隣に立って同じように劇を観ていた星那先輩だった。
実行委員のトラブルが落ち着いたあと、俺たちはこうして一緒に体育館までやって来た。
月ノ瀬さんは舞台袖に向かっていて、今頃は蓮見さんたちと一緒に劇をすぐ近くで見守っていることだろう。
「俺は、自分のことを良い男だと思ったことはありませんよ」
「彼と同じようなことを……。実際、私も素直に驚いたよ。『昴を舞台に上げるために協力してほしい』なんて連絡が、先日急に来たのだからな」
「本当に急ですみません。でも、頼れるものは全部頼ろうって決めたんです。そうでもしないと、あいつを引っ張り上げることなんてできませんから」
「フフ、そうだな。私の目的にも繋がる以上、いくらでも協力しよう」
先輩の言う通り、俺は事前に今日のことを星那先輩に話していた。
ほかにも月ノ瀬さんたちや、有木さんたち、そしてクラスみんな……。
――たくさんの人に協力してもらったおかげで、こうして昴をあの場所に立たせることができた。
「司、どうやらキミはいろいろと吹っ切れたようだな。表情が以前までと全然違う」
「そうですか?」
「うむ」
そう話す先輩の顔は、どこか嬉しそうに見えた。
吹っ切れた――
抽象的な言葉ではあるけど、妙にしっくりくる。
先輩の問いかけに、俺はこくりと頷いた。
「……そうかもしれません。これまでたくさんの人に関わって、たくさんの感情に触れて……。いつしか、自分の中にあった『恐れ』のようなものが無くなった気がしたんです」
「ほう?」
「これまで、俺は自分の『弱さ』を許すことができませんでした。『俺がやらないと、俺がなんとかしないと』って勝手に思い込んで……。本当の意味で、誰かを信じるってことができなかったんです」
特になにかを意識していたわけじゃない。
自分を過信していたわけじゃない。
だけど俺は、無意識のうちに誰かに対して一歩を踏み出すことを恐れていた。
距離を縮めることに対して、言葉にできない恐怖心を覚えていた。
そもそも、それすら明確に『自覚』したことは最近の話で……。
「昴のこともそうです。あいつがああなってしまったのが俺のせいなら……。俺にはなにもできない、俺にはあいつを変えられないって……諦めのようなものをどこかで抱いていました」
誰よりも近くにいたのに、誰よりも近くで見ていたのに……。
「でも、あいつに寄り添おうとしてくれる志乃や渚さん。それに月ノ瀬さんたちと話して、接して、関わっていくうちに……少しずつ、俺の中のなにかが変わっていったんです」
「なるほど。キミは繋がりを得ることで、改めて自分の弱さと向き合うことができたのだな」
「はい。月ノ瀬さんたちは俺の弱さを受け入れてくれた。誰よりも、俺自身が受け入れないといけなかったものを……彼女たちは受け入れてくれた」
それが俺にとって、どれだけ救いになったことか。
「だから俺も朝陽司として、青葉昴の親友として……立ち止まってなんかいられない。前に進まないとって、強く思うようになったんです。だって俺は、一人じゃないんですから」
弱くてもいい、強く在る必要なんてない。
誰かが躓けば、誰かが支えてくれる。
誰かが迷えば、誰かが寄り添ってくれる。
それはなにも、おかしくなんてない。
俺には、俺たちには……頼りになる友達がたくさんいるんだから。
「そうか、キミは弱さを経て強くなったのだな」
「俺……強くなれましたかね」
「ああ。『弱さ』を抱えながらも、必死に藻掻いて前に進もうとする……今の『キミ』のほうが私は好きだよ。それでこそ……私が知っている朝陽司だ」
そう言って、先輩は優しく微笑む。
言葉以上の特別な想いを感じて、胸が温かくなった。
――星那先輩。
他人事のように言ってるけど……。
俺を支えてくれた『みんな』の中には、もちろんあなただって入ってるんですよ。
「ありがとうございます。でも……先輩も変わりましたよね?」
「む? 私か?」
「はい。執事喫茶のイケメンポニーテール執事の話、俺も聞きましたよ?」
「おっと……聞いてしまったか。しかし、それがどうしたのだ?」
校内で話題になっていた、三年三組の執事喫茶。
話を聞いて、俺が関心を持ったのは執事そのものではなく――星那先輩のスタイル。
どうやら先輩は『髪を結っていた』という話だ。
多分、昴も同じことを思っているはず。
俺たちは、先輩の事情を知っているから……。
だからこそ、余計に驚いているのも事実で――
「あの先輩が髪を結っているなんて……それはきっと、過去を乗り越えられている証拠なんじゃないですか?」
先輩は言うまでもなく美人で、スタイルもいい。
優れた容姿の中で特徴的に映るのは……やはり髪の長さだと思う。
床に付きそうなほど長い、圧倒的なロングヘアー。
こんなにも髪を長く伸ばしている女性は、先輩以外に知らない。
それに、学校で髪を結っているところも一度も見たことがないのだ。
――なぜ、そんなに髪を伸ばしているのか。
私生活に影響が出るだろうし、それこそケアもかなり大変だろう。
しかし、そういったものを度外視してまで、先輩が髪を伸ばしているのには明確な理由がある。
それは――
彼女が幼い頃に経験した『誘拐未遂』だ。
その経験が深く頭に残ってしまっていることで、先輩は後方の気配に異常なまでに敏感なのだ。
髪を伸ばしたのは、少しでも後ろからの情報を遮断したかったから――らしい。