第318話 彼女は別れの挨拶を告げる
彼女たちの想い。願い。
それは俺がどれだけ目を逸らそうと、どれだけ否定しようと――
たしかに存在する、彼女たちだけが抱く真実の感情だった。
会長さんが秘めるもの。
星那さんが抱えてきたもの。
月ノ瀬、蓮見、日向たちが向けるもの。
彼女たちを知り、そして……彼女たちもまた、俺を知った。知ってしまった。
それだけのはずなのに――
徐々に徐々に……『青葉昴』に関する人間模様に変化が生じたのだ。
「……ま、それだけっすよ。たったそれだけの……些細なことです」
いつもの調子でそう言った俺に、会長さんはふっと笑みをこぼした。
どこか安堵したような、それでいて達観したような……優しい目を俺に向ける。
「そうか。些細なこと、か」
「話はそれだけっすか?」
「ああ。ただ……最後に言わせてくれ」
「えぇ……こわ。次はなんすか?」
次はなにを言ってくるんだ?
身構える俺に、会長さんは――
「頑張れ」
そう、口にした。
その言葉のあまりの唐突さに、思わず呆けた声が漏れる。
「頑張れ? え、なにを?」
「私からは以上だ」
「いやいやいやいや。そこまで言っておいて? 説明なし?」
あまりにも無責任な幕引きに、唖然とするしかなかった。
頑張れってなんだ?
なにに対してそんなことを?
結局その意味は分かることはなく……。
それから会長さんは腕を組んだまま、隣に立つ星那さんへと視線を移した。
「椿。キミからはなにか言っておきたいことはあるか?」
「あります」
「いやあるんかい。なんかもう一層怖くなってきたわ」
悩む素振りを一切見せず、星那さんは頷いた。
さっき会長さんがあんなことを言ってきたばかりなのだ。
またよく分からないことを言われるのか……?
星那さんは一歩前に出て、静かに姿勢を正す。
そして――
俺に向かって、深々と頭を下げた。
……え?
「え、ちょ、星那さん? いきなりなにを――」
「昴様」
「あ、はい」
頭を下げたまま、星那さんは俺の名前を呼んだ。
お面を着けたままだから、絵面がちょっとシュールだが……。
――次の一言で、そんな思考はすべて吹き飛んだ。
「ありがとうございました」
その言葉は静かで、真っ直ぐで……あまりにも温かくて。
俺は思わず……一歩引いてしまった。
「今日、誘っていただいて……沙夜様とこんな素敵な時間を過ごさせていただいて……本当に、ありがとうございました」
言葉の一つひとつが、噛み締めるように紡がれていく。偽りのない、彼女自身の言葉が。
星那さんは頭を上げて、しっかりとこちらを見た。
光を宿さない金色の瞳には、かすかに俺が映っている。
「お二人と同じ制服を着て、同じ廊下を歩いて、同じ時間を過ごして……。知らぬまま過ぎ去ってしまった『あの時間』に……触れることが出来たのだと思います」
彼女が知らぬまま過ぎ去ってしまったもの。失ってしまったもの。
それは『青春』と呼ばれる、たった三年間のかけがえのない時間。
誰かにとっては、当たり前だったはずの日常。
だけど彼女にとっては、理解せずに無くしてしまった日常。
それを彼女は今日……ほんの一瞬だけでも、手にすることができた。
大切な家族であり、誰よりも慕う――会長さんとともに。
「たとえ短い間でも、そんな『もしも』に触れられただけで……私には有り余る幸せでした」
「……言い過ぎでは?」
「いいえ。ただの真実です」
一切の揺らぎもなく、星那さんは俺の言葉を否定した。
「あのとき、貴方様の誘いに応じて良かった……と思っています。私が提示した『条件』を含めて……きっと正解だったのでしょう」
結局、どうして星那さんがあの状態で俺を待っていたのかは……分からない。
それでもこの人にとっては、大きな出来事だったのかもしれない。
「その『良かった』って感情は、あなたが会長さんと向き合おうとした結果ですよ。その素敵な時間とやらを手繰り寄せたのは……あなた自身の力です」
俺はただ、小さなきっかけを与えただけに過ぎない。
前に進むこと、会話をすること。
相手の気持ちを理解して、受け入れることを選んだのは……ほかでもない二人自身だ。
ありがとう、と俺が感謝される筋合いなんてどこにもない。
感謝なんて……いらない。
「沙夜様のことだけではございません」
「え?」
「貴方様と過ごした時間も……素敵なものでございました」
「……そっすか」
居心地が悪くなり、俺は視線を逸らす。
言葉は淡々としているのに。
表情もずっと変わらないのに。
どうしてこんなにも……この人の言葉は真実味に溢れているのだろうか。
「昴様」
「……なんすか」
一拍の間。
その後に、彼女は言った。
「おそらく貴方様とは──ここでお別れでしょう」
その声は、どこまでも穏やかだった。
「『星那椿』の出番は……ひとまずここで終わりです」
「……それはどういう」
「貴方様なら分かるはずでは?」
「まぁ……そのままの意味か」
「はい。そのままの意味、でございます」
そりゃそうだよな。
それがどういう意味かは、もちろん理解している。
この物語は本日、終幕を迎える。
恐らく星那さんとこうして話すのは……これが最後だろう。
次にいつ顔を合わせるのか。
次にいつ話すことになるのか。
それは――俺にも分からない。
そういう意味で言えば。
星那椿の出番は……たしかにここで終わりだった。
「……なので最後に、もう一度だけ言わせてください。星那椿として……貴方様へ」
その瞬間、視界に映った光景に……俺は思わず息を呑んだ。
星那さんが――微笑んでいた。
『気がする』『多分』『恐らく』ではなく。
柔らかく、穏やかに、そして優しいそれは――
俺が見る、初めての顔だったのだ。
会長さんも「ほう……」と興味深そうに声を漏らしている。
「本当にありがとうございました、昴様」
星那さんは胸に手を当て、もう一度だけぺこりと小さく頭を下げた。
「そしてまた……どこかでお会いしましょう。私はまだ、貴方様の行く先を見たいと思っておりますから」
「星那さん……」
願いが込められたその言葉は――重く、それでいて確かな意思を宿した彼女自身の言葉だった。
「フフ。キミもずいぶん言うようになったな、椿」
「言うように……ですか?」
「おっと、まさかの無自覚か……」
余計にたちが悪い。
会長さんは星那さんの反応に対し、嬉しそうにしている。
「私以外にその顔を向けたのは初めて見たから、少しだけ嫉妬してしまったが……。それでも、自分の想いをよく昴に伝えてくれたな」
「ったく……急にそんなこと言われちゃあ困るんですけどね……」
「それは失礼いたしました。反省はいたしません」
「しないんかい」
星那さんらしさが全開だった。
この人とはここでお別れだ。
この場所でこうして話すことは……もうないだろう。
それでも――
最後まで、星那椿らしく俺に接してくれたことが……この人なりの優しさなのかもしれない。
湿っぽいのは、俺の性に合わないからな。
「……まぁ、そうすね」
俺はガシガシと頭を掻いたあと、もう一度星那さんを見る。
「俺もあなたと出会えたことで、いろいろ分かる……いや、分からされました。自分に対しての感情、会長さんに向ける想い、二人の関係性……まるでどこかの誰かさんたちを見てるようでした」
初めて星那さんと顔を合わせたときは、まさかこんなに接することになるなんて思いもしなかった。
いつだってこの人は、自分に正直で。
いつだってこの人は、自分の道を歩いていて。
たとえ周囲から理解を得られなくても、自分だけの想いを貫く姿を見せてくれた。
『エゴ』の行く先を――見せてくれた。
やるべきこと、やり遂げたいこと、自分が目指すべきゴール。
星那椿はある意味……俺が目指す『その先』を歩いていたような人だった。
感情は豊かなのに、表情には一切出なくて。
冗談を言うのに、淡々としているから判断が難しくて。
常に一歩引いた位置に立ち、俺のようなどうしようもない男を気にかけ、助言を与え……時には理解を示してくれた。
最初は『星那沙夜の従姉』に過ぎなかったはずなのに――
いつの間にかこの人は、俺が歩む道に大きな影響を与えた人になっていたんだ。
「あれも言って、これも言って……ってのは性に合わないんで、ひとつだけ」
俺も最後に、伝えておこう。
「……いろいろ、あざした」
伝えられるときに、伝えるべき言葉を。
――これだけで、いい。
星那さんは驚いたように僅かにハッとしたあと、ゆっくりと首を振った。
「いえ、お気になさらず。私も……貴方様のようなゆか……素敵な方と出会えて幸運でした」
「ちょっと? 今、愉快って言おうとしました?」
「気のせいです。浴衣が似合いそうな男性――と言おうしました」
「あー汐里祭ですからね! たしかに浴衣を着て――って、そんなわけないですよね? まったくマッチしませんけど???」
「…………」
「無言で目を逸らすのやめてください」
ったく……本当に最後までいつも通りだな。
「昴」
やれやれ、とため息をついていると会長さんが俺を呼んだ。
「はい?」
「これからどんなことが起きようと……キミは『キミ自身』を見失わないことだ。周りはいつだって、キミの幸せを望んでいるよ」
「……幸せ、ねぇ。頭の片隅にでも入れておきますよ」
「ああ。それでいい。……もっとも、彼らがそれを許すかどうかは別だがな」
なぜか得意げに言い放つ会長さんに首をかしげる。
いったいなんの話をしているんだ……?
「彼ら?」
「うむ。彼らは……キミが思っている以上に、キミと同じ場所に立つことを望んでいる。キミ自身もそれは分かっているはずだ」
「……それってアイツらのことを言ってます?」
「さぁ、どうだろうな。もしかしたら、それ以外にもいるかもしれないぞ?」
以外……?
「今は分からなくてもいい。今は、な」
「……相変わらずあんたの言うことはよく分からねぇな」
結論を言わず、遠回しに伝えてくる。
大事な部分を本人に考えさせ、あくまでも核心までは言わない。
だけど……会長さんが言う『彼ら』が司たちを指していることは分かる。
それ以外……ってのはよく分からないが……。
マジで『それ以外』ってなんだ……?
誰のことを言っている……?
あぁクソ……これ以上考えても仕方ない。
「じゃ、行きますわ」
俺は思考を振り払い、改めて二人に向き直る。
そろそろ切り上げないと遅れてしまう。
会長さん、そして星那さん。
二人は並んで立ち――俺に向かって最後に告げた。
「またな、昴」
「また……お会いしましょう、昴様」
毎日のように聞いているはずの――『また』。
誰もが当たり前のように使っている言葉なのに。
誰もが当たり前のように効いている言葉なのに。
今回だけは、いつもと違うように感じた。
それは俺だけではなく……二人も、それを理解したうえで言っているのだろう。
「……うっす」
俺は手を握りしめ――そして、バッと大きく手を振り上げた。
ニッと……明るさ満点の笑みを残して。
「ほんじゃ――また!」
× × ×
青年の背中を、二人は見送る。
「もっと話さなくてよかったのか、椿。ずいぶんとあっさりした別れになってしまったが……」
「構いません。必要なことはお伝えしました。……それに」
「それに?」
「あれ以上話していたら、寂しくなってしまうでしょう? それにここから先は……彼らの見せ場ですから」
「……そうか」
少女はいつものようにフッと笑い、空を見上げる。
「そうだな。……あとは頼んだぞ」
それは、先ほどまで話していた彼ではなく。
もう一人の青年へと託した言葉。
「誰よりも隣で支え合ってきたキミの手で……ここまで紡いできた舞台をひっくり返すといい。ここまで紡いできた多くの武器を……すべて使って」
『彼女』は笑う。
幼き頃から憧れ、追い求めてきた二人の青年。
彼らが纏う殻を壊すため、深い『夜闇』で在り続けてきた。
「私も最後まで……私にできることをやり遂げるだけだ。そうだろう?」
たとえ嫌われようとも、恐れられようとも、理解を得られずとも――
紛い物ではなく、真実の幸せを彼らが享受するために。
彼女は最後に――彼の名前を呼ぶ。
「司」
夜明けはきっと――すぐそこまで訪れている。
「……それにしても椿、ずいぶんそのお面を気に入ったようだな?」
「……かなり」
「フフ、それはなによりだ」