第306.5話 『私』という存在【前編】
「ねぇママ! あたし、高校生になったらここに入りたい!」
「ふふ、だったら勉強を頑張らないとね? 汐里高校って頭いいのよ?」
「うっ……が、がんばるもん! がんばって勉強するもん!」
「偉いわね。それなら、今日は帰ってママと一緒に宿題をがんばろっか?」
「うん!」
目の前で行われる、微笑ましい親子の会話。
曇りのない、純粋な会話。
手を繋ぎ、笑い合い、楽しげな雰囲気で。
私が……経験したことのないもの。
私が……ずっと分からなかったもの。
祭りの喧騒に包まれる廊下に立ち、私は窓から外を見上げました。
頭に過ぎるのは――過去。
× × ×
姉は、よく私に言いました。
『椿……貴方、いつまでそれを続けるつもり? 他人の真似ばかりして楽しいの? 本当の貴方は、どこにいるのかしら?』
兄は、よく私に言いました。
『椿、お前はなにを考えてる? お前はなにがしたい? お前は……誰なんだ?』
父は、よく私に言いました。
『いいか、お前は星那椿なのだ。他の誰でもない、自分自身を作り上げろ。このままずっと、誰かの背中を追いかけるつもりか?』
自身を磨き、確固たる自己を得よ。
それは、幼い頃から父から何度も叩き込まれてきた教え。
星那家に生まれた者として。
他者を率い、導く者として。
自らを見失わず、常に問い続けろ。
今、自分がこの場所に立っている意味を日々考え続けろ。
流される道に意味はない。
思考を止めた者に成長はない。
一分一秒、存在の意味を問い続けろ。
私たちきょうだいは、そう厳しく育てられてきました。
自分。
自己。
意味。
他者。
重要な言葉の数々。
しかし。
姉のような優れた統率力も、兄のような優れた判断力も、私にはありませんでした。
なにも……なかったのです。
笑い方も知らない。
泣き方も知らない。
怒り方も知らない。
表情ひとつ変えず、言われたことだけをただ淡々とこなすお人形。機械のような少女。
なにかを強制されたわけではありません。
公に言えないような教育を受けたわけでもありません。
それでも……私はなにも分からなかったのです。
不気味で、不可解で、異質な……星那家の二女。
それが私、星那椿でした。
なにをしても姉や兄と比べられ、叱咤される日々。
もっと頑張らないと。
――頑張るってなに?
もっと努力しないと。
――努力ってなに?
皆に認められるために、必死で付いていかないと。
――付いていって、どうする?
――認められて、なにになる?
考えて、考えて。
考えて、考えて、考えて。
考えて――
私はいつしか……『私』を失っていました。
なぜ私は生きているのだろう。
なぜ私はここにいるのだろう。
私の存在する意味は?
『私』の意味は?
そもそも今の私は……生きていると言えるの?
足掻いても足掻いても、決して見えないゴールを目指し……彷徨い。
そして。
辿り着いた場所が……他者の模倣でした。
自分が分からないのなら、 『他者』になればいい。
価値のない自分にこだわるより、価値のある『他者』になればいい。
実に簡単な話でした。
最初に模倣したのは――姉。
生まれてからずっとそばにいた姉という存在は、模倣するには最適の相手だったのです。
穏やかな立ち居振る舞い。
大人びた言葉遣い。
静かな微笑み。
好きなもの。嫌いなもの。
それに趣味など……私は姉のことはよく知っていましたから。
だから、姉に『成る』ことは……容易なことでした。
「こんにちは、お姉様。あら、そんなに驚いた顔をして……どうしたの? ふふ、珍しい顔ね」
あのとき、姉が見せた表情を――私は今でも忘れていません。
困惑。
畏怖。
不安。
様々な感情が入り混じった……初めて見た表情。
物心ついた頃から、感情の変化すら見せなかった妹が。
なにも出来ない、なにも知らない、ただ流されていたばかりの妹が。
出来損ないの妹が――
ある日突然、『こう』なっていたのですから……。
それはきっと――実に恐ろしいことなのでしょうね。
× × ×
高校時代のある日。
私は、親族が集うパーティーに出席しました。
会社を立ち上げ、大企業にまで成長させた祖父を筆頭に……。
叔父や叔母、いとこたち。
『星那』の姓を持つ人間たちが、一堂に会していました。
各々が経営する会社の近況報告が主な目的でしたが、後継者候補である私たち子世代にも、きちんと話を聞くよう指示が出ていました。
――もっとも、私自身はそんなこと一言も言われていませんでしたが。
それは私には誰も、なにも期待していない証拠でした。
星那椿という『異物』は、親族の間でも広く共有されていました。
そのせいで腫物のように扱われ、誰も私に近付こうとしなかったのです。
目的もなく、意思もなく、意味もなく……ただ会場の隅で、お行儀よく座っているだけの私に――
「ねぇ」
たった一人の少女だけが、話しかけてきました。
いとこの中で最も年下で、まだ小学生だった彼女。
年下とは思えない、堂々たる立ち居振る舞い。
凛とした表情。
興味深そうに私を見つめる、鮮やかな赤い瞳。
私はなぜか、彼女から目を離せませんでした。
「私は沙夜。あなたは?」
沙夜。
それが彼女の名前でした。
私は彼女の問いかけに、ニコッと笑顔を作り上げました。当然、これは私の笑顔ではありません。
「椿です。こんにちは、沙夜さん」
「あ、やっぱり! あなたが椿なんだね!」
やっぱり。
──私について、すでに誰かから聞かされていたのでしょう。
それなのに、なぜ私を怖がらないのでしょうか?
不気味な私を、なぜ拒絶しないのでしょうか?
沙夜は、まるで測るかのように私をじっと見つめました。
「うんうん」
沙夜は私の頭からつま先までじっくり見たあと、なにかに納得したように頷きます。
そして、ニッと明るく笑いました。
「あのさ、椿! ちょっと私と話さない?」
これが私と彼女の出会い。
私の人生を変える――
文字通り『運命の出会い』でした。