閑話45 冷え冷えの妹、もう一人の兄【後編】
「……え?」
俺の言葉が予想と違ったのか、志乃ちゃんは驚いたように顔を上げた。
綺麗な桃色の瞳が揺れていた。
「おっ、今日初めてまともに目が合ったな」
「っ……」
目が合ったのもつかの間、すぐに俯いてしまった。
言葉は冷たいし、雰囲気は怖いし……。
仲良くなれる気なんて全然しないけど……。
この子、綺麗な目してるよなぁ……。
「……仲良くしろ、とか……」
「……ん?」
俺がニヤニヤしていると、志乃ちゃんは呟く。
ギリギリ聞こえるくらいの声だった。
「仲良くしろとか、そういうのを……言われると思ってました……」
「あー、なるほど。そりゃ家族だし? 仲良く出来るに越したことはねぇけど……すぐには無理だろ?」
「それは……」
他人の俺が言って出来るなら、今頃とっくに仲良し兄妹になってるに決まってる。
朝陽家はこの兄妹も、両親さえも……簡単には乗り越えられない傷を抱えている。
偽りの平穏を信じ、息子の痛みに気付けなかった父親。
娘に怖い思いをさせて、父親の愛というものを与えられなかった母親。
大人でさえ日々悩み、日々考え、そのたびに躓いているんだ。
まだ子供の司たちに……特に志乃ちゃんにも同じものを求めるのは無理って話だろう。
でも、彼らなりに家族の仲を深めようとしていることは見ていてすごく理解できる。
家族との時間を増やし、交流を図り、少しずつ……少しずつ、自分たちだけの家族の形を作ろうとしている。
たとえ……まだぎこちなくても。
たとえ……まだ手探り状態でも。
彼らの行いが無駄とは――俺には決して思えない。
「だから、君なりにアイツを見てみろってことだ。話さなくていい、仲良くなろうとしなくていい。普通の日常のなかで……ちょっとだけでもいいから、アイツを見てやってくれ」
「…………」
「アイツさ、お人好しだし真面目だし……変なところで頑固になるヤツだけど……。案外、面白いところもたくさんあるんだぜ?」
明るく笑って言うも……志乃ちゃんに反応はない。
「見ていればきっと……アイツがどういう人間か分かるはずだ。そのうえで……君が今後、アイツとどう過ごしていくかを決めればいい」
俺がどんなに司のことを話したところで意味はない。
この子が自分で見て、自分で接して、自分で答えを出すしかないのだ。
俺に出来ることは……相応の舞台を整えること。それだけだ。
「君たちは兄妹だ。これからもずっと、この家で一緒に過ごすことになる。一緒に生きていくことになる。だからこそ……アイツを見て、アイツを知ってくれ」
「見て……知って……」
「ああ、そうだ。そして断言する。司は君を傷つけることはない……絶対にな。それは君にも……分かってるだろ?」
「私は……」
声が震えていた。
多分この子は……優しい子なんだと思う。
司の抱える想いを理解しているからこそ、距離感に戸惑っているんだ。
新しい家族。新しい兄。
自分はどうするべきなのか。
自分はどのように接するべきなのか。
日頃の態度は、この子の苦悩の現れ。
もう少し、踏み込めれば。
もう少し、きっかけがあれば。
この子はもっと――揺れる。
頼んだぜ、妹ちゃん。
アイツが幸せを手に入れるためには、君という『家族』の存在が必要不可欠なんだ。
さっさとアイツを理解して、さっさと仲良くなってくれ。
はぁ……。
強く言っても、この子の傷を掘り返すだけ。
優しく言っても、上辺だけで届かない。
ったく……とことん面倒くさいヤツだな、この小学生は。
つらつらと並べた言葉に対し、志乃ちゃんは――
「……変な人ですね」
俯いたまま……そう、短く答えた。
「はぇ? かっこよくてイケメンでハンサムで変な人って言った?」
「言ってません。耳鼻科行ってきてください」
「はて。おかしいな」
腕を組み、とぼけた表情で首をかしげる。
「自分の話じゃないのに……どうしてそんなに嬉しそうに話すんですか。どうしてそんなに……誇らしそうに話すんですか」
「え、そう見えた?」
「私にはそう見えましたけど。それに……自分とは仲良くしてくれとは言わないんですね。あの人の話だけ……」
「俺? 俺は別についででいいよ、ついでで。それともなに? 志乃ちゃんは昴お兄ちゃんと仲良くなりたいのかな?」
「……」
「ここに来ての無視ッ!」
仲良くなる必要はない。この子は司の妹だ。
本来、俺程度の人間が……仲良くしていいような相手じゃねぇんだ。
俺は俺の目的のために、妹である君を『利用』するだけだ。
「……ま、俺の話は以上! 頭の片隅にでも入れておいてくれると助かるぜ」
そろそろ司が戻って来てもおかしくはない。
適当に会話を切って、いつも通りふざけておこう。
「ちなみに志乃ちゃん、その問題の答え間違えてるよーん」
「えっ……」
「それ、引っ掛かりやすいよな。これだから算数って好きじゃないんだよなぁ……」
「……うそ」
俺が示した問題を見て、志乃ちゃんは慌ててプリントと教科書を交互に見る。
「もう一回、問題文をちゃんと読んでみ。そしたら多分気付くと思う」
「あ……間違えてる……」
「ぬふふ。問題がちょっと見えたからな。年上の凄さってやつを見せつけてやったぜ。どう? 見直した? 惚れた? かっこいい~! ってなった?」
「うるさいです」
「うーんバッサリ! でも否定しないってことは……やっぱりそういう――」
「口を開かないでください。というか帰ってください。そのニヤニヤ顔を向けないでください。気分が悪くなります」
「怒涛の帰宅命令ッ!!」
やれやれ……気難しい子だよ、マジで。
朝陽志乃。
君は間違いなく幸運だ。
なぜならば……アイツの妹になることが出来たから。
この家ならきっと。
この家族ならきっと。
君の傷を癒してくれると思う。
君が『司の妹』でいる限り。
俺も……君のことを見ていよう。
君の傷が癒えるように……出来ることをやろう。
兄の親友として。
もう一人の兄のような存在として。
何度もうざがられても、何度邪険に扱われても、君の名前を呼び続けよう。
志乃ちゃん――と。
「本当に……変な人」
ため息交じりに言い残された、その言葉。
「え? かっこよくてイケメンでハンサムで天才で変な人って言った?」
「…………」
「無視され過ぎて慣れてきたよねもう」
――この会話で、志乃ちゃんのなかに『揺らぎ』を生み出せたからだろうか。
今日以降、志乃ちゃんの司や父親に対する様子が……少しだけ変わった気がした。
そして約一か月後――
二人がようやく『兄妹』になったあの日が……やって来る。
× × ×
――時は戻って。
「――るさん! 昴さん!」
「おぉうビックリした! なんだ敵襲か!?」
「違います。変なこと言わないでください」
志乃ちゃんに呼ばれたことで、表情をハッとさせる。
「急にぼーっとして……どうかしたんですか?」
過去のことを思い出していたせいで、ついぼーっとしていたようだ。
志乃ちゃんは覗き込むように俺の顔を見る。
眉をひそめ、心配そうな表情だった。
俺は首を振り、ニヤリと笑う。
「や、ちょっと昔の志乃ちゃんを思い出してた」
「えっ、私ですか?」
「うむ。うるさいとか、帰れとか、土に還れとか、そういうことをたくさん言われたなぁって」
「やっ、やめてください……! あの頃は色々あって……私だって……その、反省してますし……というか、土に還れなんて言ったことないですよね!?」
羞恥で顔を赤くし、志乃ちゃんは慌てて言った。
本当に……雰囲気が柔らかくなった。
表情も変わったし、口調も優しくなった。
現在のこの子こそ、朝陽志乃の本当の姿なんだ。
「あれぇ? そうだっけ?」
「そ、そうです……!」
「……ま、アレだな。こうして志乃ちゃんが伸び伸びと振る舞えるようになれて、俺は嬉しいって話よ」
君は俺にとって、司の妹。
アイツをハッピーエンドに導くための一登場人物に過ぎない。
そう……思ってたんだけどな。
いつしか『俺』にとっても、この子の存在は特別なものになっていた。
「良かったよ、君が心から笑えるようになれて」
「っ……。ず、ずるいです……いきなりそんなことを言うなんて……」
志乃ちゃんは口元をキュっと結び、照れくさそうに前髪を弄る。
この仕草さえも、四年の姿からは想像出来ない。
志乃ちゃんは気持ちを落ち着けるように息をついたあと、コホンと咳払いをした。
しかし、顔はまだ……赤い。
「本当にもう、昴さんは……」
ため息交じりに言葉を続け、志乃ちゃんは仕方なさそうに――
「変な人なんですから」
そう、口にした。
――『本当に……変な人』
「くくっ」
「ど、どうして笑うんですか……?」
「いや別に? というか今、かっこよくてイケメンでハンサムで天才でイケてる変な人って言った?」
「言ってませんよ……!? ……あれ? この会話……」
あの頃から変わったものはたくさんある。
兄妹の距離感も、そして俺たちの距離感も……たしかに変わった。
しかし、四年前から共に残してきた思い出。共に紡いできた日々の記憶。
それらはきっと……変わることなく、この先も残っていくのだろう。
「よーし! 改めて汐里祭、楽しむぞ~! 志乃ちゃん、昴お兄ちゃんについて来い!」
「……ふふ。はい、昴兄さんっ」
「……!!! もっかい。志乃ちゃんもっかい言って! 録音して、目覚まし用とおやすみ用と励まし用と三時のおやつ用に使うから!」
「絶対言いません」
なぁ、志乃ちゃん。
これからも家族として……司のことを支えてやってくれ。
これは君にしか頼めない。
君だからこそ、信じて託すことができる。
だって俺は……君のもう一人の『兄さん』だからな。
だから――頼んだぜ。




