閑話45 冷え冷えの妹、もう一人の兄【中編】
せっかくだから、ちょっくらお話でもするか。
この子とこうして顔を合わせられるのは、意外と貴重だからな。
そう思って、お勉強中の志乃ちゃんに気さくに声をかけたものの――
「嫌です」
「即答ッ! 一刀両断!」
――この有様である。
俺に一切の興味関心を向けることなく、志乃ちゃんは淡々と宿題に取り組んでいた。
やれやれ……真面目なのはいいことだネ。うん。
どう足掻いても、仲良くお喋りすることが出来ないのであれば……。
こっちから一方的に話すしかない、か。
少なくとも俺は今、宿題だの勉強だのをやるつもりはないし……。
「よっ……と。ちょっくら失礼~」
テーブルに近付き、志乃ちゃんの対角線上に座る。
そんな俺のことを志乃ちゃんはチラッと見るが、すぐプリントに目を落とした。
一方の俺はボーっと天井を見上げ……黙る。
こちらが喋らないことで、リビング内には静寂が訪れる。
聞こえてくるのは秒針の音と、鉛筆が紙を擦る音だけだった。
少し時間をあけて――
「どうよ、司お兄ちゃんとの生活は」
俺は口を開いた。
「……」
当然、返事はない。
しかし、そんなことはもちろん想定済みだ。
俺はこの子と会話をしようとしているわけではない。
そもそも会話が成立するとは思えない。
俺はただ、自分の話を『聞かせよう』としているだけだ。
この子の気持ちはどうだっていい。
「アイツが君と出会う前の事情……実の母親のことについては、すでに聞いてると思う」
そのあたりは再婚をするにあたって、自分の母親か司の父さんから、ある程度は聞かされていることだろう。
司の実母。
息子を傷つけ、それを隠させ……。
子供も己のストレス発散のためのはけ口にしていた……ろくでもない女。
外面の良さだけは本当に一級品で、俺自身もあの女に違和感を抱いたことなど一度もなかった。
俺は忘れない。
絶対に忘れない。
あの日見た光景を。
――『お、おい朝陽……お前……』
――『……なんでもない。お前は気にするな』
――『気にすんなって……そんなの無理に決まって……』
――『頼む。気にしないでくれ。なにも見ていないことにしてくれ』
アイツの服の下に広がっていた――無数の傷痕を。
打撲や火傷、痣。
見ているこっちも痛くなるほど……おぞましい光景を。
思い出すたびに、腹が立ってくる。
アイツの母親に。
そしてなにより――オレ自身に。
「アイツさ、今まで家族の話を自分からしたことはなかったんだ。誰かから聞かれたら答える……それだけだったんだよ」
その答えすらも、今思えばあまりにも『出来過ぎている』答えだった。
毎日働いて、家族を支えてくれる父親。
毎日家事を頑張って、面倒を見てくれる母親。
そんな最高の両親だよ。
そんな……まるで用意された台本を読んでいるかのような、綺麗過ぎる答えだった。
そりゃあまぁ……当然だよな。
暴力を振るわれている……なんて、言えるわけがないもんな。
「でも……今は違う」
膝の上に置いた手に力が入る。
「司のヤツ、毎日のように家族の話をするんだよ。家族っていうか……主に君の話がメインだけど」
ふっと笑みをこぼし、視線を志乃ちゃんに向ける。
未だにこちらを見ようとしない志乃ちゃんに、俺は話を続けた。
返事は求めていない。
会話も求めていない。
――聞け。
「昨日志乃が~とか、家でこんなことがあって~……とか。本当に楽しそうに話すんだよ。笑顔でさ……何回も何回も話して……。アイツ、すっげぇ楽しそうなんだ」
『なぁ昴、聞いてくれよ! 昨日志乃とちょっとだけ話せてさ――!』
『志乃さ、ああ見えて結構怖がりなんだよ。昨日なんて――』
『今度、家族で買い物に行くことになったんだ。もちろん、志乃も一緒に。楽しみだなぁ』
――なんて。
偽りじゃなく……心の底からの笑顔で、幸せそうに話すんだ。
誰かから聞かれたからじゃない。
誰かから求められたからじゃない。
ただ自分が話したいから。
自分の『嬉しいもの』や『楽しみなこと』を誰かに共有したいから。
そんな当たり前のことすら……以前の司には出来なかったんだ。
俺はそれに対して笑って流したり、からかったりすることが多いけど……。
本当は――めちゃくちゃ嬉しい。
初めて司が自分から家族の話をしてきたときは……正直、込み上げてくるものがあった。
司のあんなに楽しそうな顔を見るのは初めてだったんだ。
「それだけ『家族』の存在は……君の存在は、司にとって大きな支えになってるんだよ」
「……っ」
志乃ちゃんの手が止まる。
僅かに呼吸が詰まっているように見えた。
それは……俺の言葉が届いている証拠だった。
「君にも事情があることは分かってる。司や今の父親に対して……思うことはたくさんあると思う」
司が特別な事情を抱えているように……それはこの子も同じことで。
向き合えない理由がある。
家族と呼べない理由がある。
さまざまな傷を抱えて、この兄妹は出会った。
「別にアイツのことを慕ってくれって言ってるわけじゃない。兄妹で仲良く楽しい日常を過ごしてくれ……って言ってるわけでもない」
現状だけで言えば、この子が司を『兄』と呼んで慕う姿が想像できない。
仲良し兄妹として、笑顔溢れる毎日を過ごす光景が想像できない。
でも――司は違う。
アイツは家族というものに特別な想いを抱いている。
己と傷と向き合い、理解し、必死に乗り越えようとしている。
たとえ自分の傷が癒えていなくても……。
妹に寄り添い、助ける道を選んだ。
力になりたい。
助けになりたい。
そう願ったんだ。
「アイツの親友として、君にお願いしたいことは……たった一つだけだ」
俺自身は、君がどうなろうと知ったことではない。
つらい過去があります。怖いもの、苦手なものがあります。
――だからどうした。
そんなもの俺にはどうでもいい。関係のない話だ。
大事なのはいつだって……。
朝陽司が幸せになること。
それだけだ。
俺はニッと笑みを浮かべ、明るい声音で志乃ちゃんに言う。
「君なりでいい。少しずつでいい。司のこと……見てやってくれると助かる」
ほら、簡単な話だろ。
君には笑顔を取り戻してもらわないと困る。
幸せになってもらわないと困る。
じゃないと……アイツも幸せになれねぇんだ。




