第248.5話 渚留衣は図ったように遭遇してしまう【後編】
「し、志乃さん……」
あまりにも予想外の人物が登場したことにより、これまで考えていたことが一気に消え去ってしまった。
青葉でもなく。
朝陽君でもなく。
下手すれば、この状況においては二人より来てはいけない人物――
「ま、まだ残ってたんだね」
わたしたちの間に漂う険悪な雰囲気を感じ取ったのか、志乃さんは僅かに困惑した様子だった。
どこまで会話を聞かれていたのだろうか……。
微妙な空気が流れるなか、志乃さんはゆっくりと歩き出してこちらへ近付いてくる。
「えっと……クラスの女の子の勉強を見てあげていまして……」
「あ、そうなんだ……」
それなら残っていたのも納得かも。
一年生は汐里祭で出し物はできないから、わたしたちのように放課後遅くまで残る必要はない。
それに、志乃さんは部活動にも所属していないわけで……。
そうだとしても、こんな時間までクラスメイトの勉強を見てあげるなんて……相変わらず志乃さんは優しい。
わたしなら途中で帰る自信しかない。
ゲームしたいから。
……あ、そもそも人に勉強を教えられるほど頭良くなかった。うん。
「でも……勉強自体は結構前に終わってたんです。そのまま帰ろうって思っていたんですけど……」
「……?」
「三年生の先輩? が廊下で困ってたので、少しお手伝いしていました」
「え、すご……」
勉強を教えて……。
困ってた先輩を助けて……。
それで結果的にこんな時間になってしまった、ということなのだろう。
いや、もう……優しいの極み過ぎる。
どうしよう。志乃さんが天使に見えてきた。
RPGにいたら絶対プリーストタイプだよね。
上級回復魔法とかバンバン使ってくれそう。
「あまり校内で見かけたことない方だったんですけど、とても綺麗な先輩でした」
「え?」
「あっ、その困ってた先輩のことです。すごく美人で、髪も綺麗な黒色で……思わずお手入れの方法とか聞いちゃいましたもん」
志乃さんも同じように綺麗な黒髪だから、その人に親近感のようなものが湧いたの……か……も……。
――あれ。待って。
別に志乃さんはおかしなことはなにも言っていない。
言っていない……んだけど。
志乃さんの言う『先輩』について引っかかってしまった。
あまり校内で見かけたことない先輩。
美人。綺麗な黒髪。
――『たまたま通りがかったのだけど……姿が見えたから、つい話しかけちゃった。ごめんなさいね』
頭に浮かぶのは……あの先輩。
「な、なるほど。わたしもその先輩、気になるかも……」
「あっ、お名前聞くの忘れちゃいました……。今度お話する機会があったら聞いてみますね」
「……うん」
黒髪で美人な先輩なんて、校内を探せばたくさんいるはず。
それなのに……どうしてこんなに落ち着かない気持ちになるのだろう。
きっとわたしの考え過ぎだ。
わたしを助けてくれたタイミングといい。
今この場に志乃さんが現れたことといい。
もしかしたら、図ったのかも――なんて。
まさか……ね。
第一、そんなことをする理由も分からない。
わたしたちは、あの先輩の名前すら分かっていないのだ。
でも、向こうはわたしを知っていた……。
……。
考え過ぎて頭痛くなってきた。
「それで渚先輩は……すみません、お話中でしたか……?」
「あ、あー……」
志乃さんはわたしのほかに立っている一人の先輩を見て、首をかしげた。
わたしも振り向き、再び……小西さんへと向き直る。
「は? 誰よあなた」
突然現れて、わたしと親しそうに話していた志乃さんを見て、小西さんは顔をしかめる。
いきなりけんか腰じゃん……。
「あっ、ご、ごめんなさい……! 私は一年の朝陽志乃と申します。お話し中に割り込んでしまって本当にごめんなさい……」
「朝陽……?」
志乃さんの名字に対して、小西さんは反応を見せる。
この子のことは知らなくても、その名字は知っているはずだ。
特にわたしたち二年生であれば……尚更耳にすることが多いと思う。
「あ、朝陽司の妹です……! 兄がお世話になっております」
ぺこりと礼儀正しく頭を下げる志乃さん。
あまりにも良い子過ぎて、こんな状況に鉢合わせさせちゃって心底申し訳ない気持ちになってくる。
この様子だと、どうやらわたしと小西さんの会話は全然聞いてなさそうだ。
でなければ、志乃さんが我慢できるわけがない。
青葉のことを……あんな風に言われて穏やかでいられると思えない。
……どうしよう。ホントにどうしようこれ。
「あ、あの……」
恐る恐る声を上げて、志乃さんはとある場所へと目を向けた。
それは、小西さんが立っている場所。
つまり――
「そこ、昴さんの下駄箱……ですよね?」
そう問いかけて、小さく首をかしげる。
まぁ……そこに気付くよね……。
「志乃さん、これは――」
「昴さん? なに? あなた、あの馬鹿男の知り合いなの?」
わたしの言葉を遮るように言い、小西さんはうすら笑いを浮かべる。
その瞬間、先ほどまで申し訳無さそうにしていた志乃さんの表情が――変わった。
「馬鹿……?」
他でもない志乃さんが、今の言葉を聞き逃すはずがない。
あぁ……せっかくわたしなりに上手い感じにまとめようと思ったのに……。出来たかどうかは分からないけど。
圧倒的コミュ力不足。
「……それって、どういう意味ですか?」
僅かに微笑み、志乃さんはゆっくりと尋ねる。
微笑んではいるけど……。
間違いなく、友好的なソレではなかった。
「言葉通りの意味よ。馬鹿で最低で愚かな男。ふふっ、あなたも渚さんみたいにあいつはお友達です~とか言うつもり?」
馬鹿で。
最低で。
……。
どうしよう、この二つに関しては否定できないかも。
――って、ダメダメ。今はこんなことを考えてる場合じゃない。
一つ、確かなことは……。
小西さんは火をつけてしまった。
絶対につけてはいけないところに。
絶対に刺激してはいけないところに。
土足で踏み込み、あろうことか着火してしまった。
「渚先輩」
「な、なに……?」
「今、どういう状況なのか……説明してもらっていいですか? 私にも分かるように、ちゃんと。説明してもらっても、いいですか?」
にこりと微笑んだ顔を、こちらに向けて。
こ、こわ……。
笑ってない。目が笑ってない。
「え、えっとね志乃さん……」
「いいわ。あたしが説明してあげる」
「あの、だから小西さん――」
「あいつはね、あたしの大切な後輩を傷つけたのよ。許せるわけがない、許すつもりもない……絶対に」
ダメだ、小西さんが止まらない。
頭に血が上っているせいで、正常な判断が出来ていない。
青葉を貶める――
今はそれしか頭にないのだろう。
「あんなヤツ――いなくなればいいのよ」
…………。
今の言葉は――
なんとか場を収めよう。
なるべく穏やかに済ませよう。
そんな考えをすべて放棄させるほど、聞き捨てならないものだった。
「……今、なんて言いました?」
震えた声で志乃さんは言う。
一歩……そして二歩踏み出して、わたしの隣に並んだ。
その横顔からは、微笑みが消えていた。
「何回でも言ってやるわ。あんなヤツ、いなくなればいいって言ったのよ。聞こえなかった?」
「取り消してください」
「はぁ?」
「今の言葉、取り消してください!」
強い意志を感じる志乃さんの叫び。
胸の前でギュッと手を握り、志乃さんは目の前に立つ小西さんを睨み付けていた。
あの誰にでも優しい志乃さんが……。
他人に対して、明確な敵意を向けているのは……初めて見た気がする。
それほどまでに、小西さんの発言は度を超えてしまっていた。
「あなたと昴さんの間に、なにがあったか分かりません。昴さんとその後輩さんとの間に、なにがあったのかなんて分かりませんけど……」
「分からないなら黙ってなさいよ」
「黙りません。たしかに、昴さんは本当にどうしようもない人です。頭はいいのに、大事なことは分かってくれない。いつも自分勝手で、強情で、私にも本心を全然見せてくれない……どうしようもなく面倒くさい人です」
こと青葉昴という人間については、わたしより志乃さんのほうがずっと理解している。
わたしはたかだか一年ちょっとの付き合いしかない。
でも、志乃さんは違う。
小学生の頃にあいつと出会い、ずっとあいつのそばで成長してきたんだと思う。
時には朝陽君に。
時には青葉に。
大切な二人の『兄』に見守られて、本当に大事にされてきたんだと思う。
そんな二人のことを、志乃さんは心の底から想っている。
向ける感情の意味は違っても、『大好き』だということはなにも変わらない。
あいつの本心に触れて。
あいつの裏に触れて。
突き放されても――志乃さんはあの背中を追いかけることをやめなかった。
そんな志乃さんが……わたしは。
本当に、眩しく見えた。
「それでも、あの人は私にとってすごく大切な人です。自分がどうにかなっちゃうくらい、大切で大切で……大好きな人なんです!」
例え先輩相手だとしても、一歩も引かない。
夏休みに生徒会長さんの別荘に行ったとき、志乃さんは言っていた。
『この先もずっと一緒にいたいです。一番……近くで』――と。
あいつと出会って。
あいつに恋をして。
志乃さんは本気で青葉昴を好きになり、本気で青葉昴の隣に立つために走り続けている。
これまでも。
そして、今も。
恋……。
わたしには分からない――その感情。
「説明してください。昴さんはどのように後輩さんを傷つけたんですか? もしも後輩さんから聞いたのでしたら、具体的になんと言っていました? 昴さんが、いつ、どのようにして、後輩さんを傷つけたんですか?」
自分の大切なもののためなら、志乃さんは怖気づかない。
真実を知るために、真っ向から立ち向かっていく。
……うん。
これは間違いなく朝陽君の妹で、あいつの妹分だ。
二人と同じ『強さ』を……しっかり持っている。
やっぱり……わたしなんかよりずっと強い。
わたしなんかより、あいつを変えるのに相応しい。
心から……そう思った。
「……あの子が言ったのよ。青葉って名前を出したのよ! それで十分でしょ! あいつがなにかしたってことには変わらない!」
志乃さんの気迫に気圧されて、小西さんが唇を噛む。
「十分ではありません。具体的な話を教えてください。本当に意味もなく昴さんが後輩さんを傷つけたのなら、私は全力であの人を怒ります」
志乃さんだって怒っているはずなのに、あくまで冷静に努めていた。
「ですが……。傷つけた事実はなく、あなたがただそう思い込んでいるだけなら……私はあなたを許しません。先ほどの発言を撤回するまで、私はあなたに説明を求め続けます。あるいはその後輩さんのところに行きます。今すぐにでも」
……まったく、なにしてるのあんたは。
今どこで、なにをしているのか知らないけど。
志乃さん、あんたのために全力で怒ってるよ。全力であんたを守ろうとしてるよ。
こんなに素敵な子が、あんたのために先輩相手に正面から言葉を伝えている。
この姿を見て……まだ思うの?
自分は無価値だって。
自分は道具だって。
そう、思えるの――?
「さっきから一年のくせに生意気なのよ……!」
苛立った様子の小西さんは、志乃さんに向かって言った。
「……。あぁ、そういえばあなた一年だったっけ。なら……青葉のやつに教えてあげようかしら。あたしと同じ気持ちを」
「同じ気持ち……?」
「えぇそうよ! さっきから生意気なことばかり言って――!」
小西さんは一歩踏み出し、志乃さんに詰め寄ろうとする。
あたしと同じ気持ちを教えてあげるって――そういうこと?
わたしは志乃さんのように強くない。
わたしは志乃さんのような素敵な感情を持っているわけじゃない。
わたしは志乃さんのように、あいつに向ける感情を完全に理解しているわけじゃない。
それでも――
「やめて」
青葉昴という男を大切に思っている気持ちは……きっと一緒だから。
「っ……! なんなのよ……!」
「渚先輩……!」
わたしは志乃さんを庇うように、二人の間に割って入った。
これでもわたしは先輩だから。
後輩を守るくらいは、出来る。
「わたしからもお願いしようかな。いなくなればいいって言葉、取り消してくれる?」
「は……?」
「あいつはうざいよ。あいつは馬鹿だよ。あいつは最低だよ。小西さんの気持ちを否定するつもりはない」
誰かに対する評価なんて人それぞれだ。
万人から好かれる人なんて、きっといない。
誰かが好きな人が、誰かが嫌いで……その逆もまた然り。
だから例え小西さんがあいつを嫌っていようが、どうでもいい。否定しないし、むしろ嫌いだって思う人のほうが多いと思う。
「わたしだって、あいつのことは嫌い。いつもいつもふざけてばかりのあいつが、嫌い」
「だったら――!」
「でも、消えて欲しいって……いなくなれって思ったことは一度もない。むしろ……」
むしろ……。
わたしはあいつと過ごす何気無い日々が好きだ。
あいつや晴香たちと過ごす毎日が好きだ。
ゲームして。
馬鹿みたいなことを言い合って。
月ノ瀬さんからじゃれ合ってるとかなんとか、いろいろ言われて。
なんだかんだで、そんな時間が――大好きだから。
なくなってほしくない。
いなくなってほしくない。
まだまだこんな日常が――続いてほしい。
こみ上げてくる不思議な感情をグッと堪えて、わたしは小西さんを見つめる。
「あいつが本当に間違ったことをしていたら、友達としてわたしも一緒に謝る。だから一度、ちゃんと話そう? なにがあったのか、どうしてこうなったのか、ちゃんと理解するところから始めよう?」
「私も同じ気持ちです。いろいろお手伝いさせてください。勝手に入って来て、事情もあまり理解できていない私がこんなことを言うのは……申し訳ないですけど」
まだ間に合う。
後輩の身になにかあって、不安な気持ちになっているのは分かる。怒りを抱くのも分かる。
なにかにぶつけないと気が済まない気持ちも――分かる。
分かるからこそ、このまま放っておくことはできない。
「あぁもう……! 二人揃ってうるさいのよ! どいつもこいつもあんなヤツを庇って……!」
ビニール袋を持っていない左手で、小西さんは頭を掻き毟る。
恐ろしいほど怒りの感情が込められた瞳を、わたしたちに向けていた。
退かない。
絶対に引かない。
後ろには大事な友達の……大事な存在がいるのだ。
わたしに手を出されるのならいい。
けど、志乃さんには手を出させない。
この件の始まりはわたしだ。
わたしが小西さんを刺激してしまった。
志乃さんはただ、巻き込まれただけ。
この子になにかあったら、わたしは青葉と朝陽君に顔向けできない。
怒りを向けられるのは――わたしだけでいい。
「あんたたちねぇ……!」
小西さんがわたしに手を伸ばした――
そのとき。
「いっけな~い遅刻遅刻~! スーパーの特別セールに遅れちゃうわ~!」
わたしたちの後ろから聞こえてきた、気の抜けたふざけた声。
おちゃらけた……すごくムカつく声。
今度は志乃さんではない。
小西さんは驚いて手を止め、わたしと志乃さんは同時に振り向く。
そいつは――
その男は……。
まるでご機嫌なことがあったかのように、軽やかな足取りでこちらに向かって歩いて来ていた。
わたしたち三人を視界に捉えて……足を止める。
「……え、なにこの状況。なんで女子が三人揃って俺の下駄箱の前にいるの? はっ! まさか誰がラブレターを入れるのか競争してた……!? はわわわ……!」
途端に、場の空気が変わる。
「あ、あんた……なんで……」
先に帰ったんじゃ……?
口元に手を当てて、わざとらしくあわあわしているその男――青葉を見て、わたしはただ動揺することしかできなかった。
なんでいるの?
どうしてここに来たの?
疑問が、止まらない。
青葉はそのままわたしの隣に並び立ち――
そして。
「お疲れちゃん、るいるい」
わたしにだけ聞こえるくらいの小さな声で、労いの一言を言ってきた。
次々に思い浮かんでくる――これまでの出来事。
小西さんとの図ったような遭遇。
志乃さんとの図ったような遭遇。
青葉の、図ったような登場。
そして――
お疲れちゃん、の意味。
――『もう少しだけ頑張れ』
わたしはギリッと歯を噛み締めて、青葉を見上げる。
まさか。
まさか。
こいつ。
やった?
 




