第166話 それでも朝陽志乃は
人間にはそれぞれ大切なものがある。
それは物。
それは誰か。
形あるもの。ないもの。
きっと一人一人の『大切』は異なり、正解もまた存在しないのだろう。
ただ、どうしてソレが大切なのか。
自分にとってソレがどれほど大切なものなのか。
失ったらどうなるのか。
その意味すら理解できない者は――きっと。
その大切なものすら、守ることはできない。
× × ×
「ど、道具……?」
志乃ちゃんは驚いたように立ち上がり、俺から一歩距離を取った。
いろいろ考えて過ぎて頭がごちゃごちゃになっていたが…今はもうなんだかスッキリした気分だ。
「そうそう、道具だよ」
明るくそう言い返し、続くように立ち上がって伸びをする。
「自分の目的を果たすために必要な道具なんだよ、その自分自身がね」
「な、なにを言ってるんですか……?」
「うーん……どう説明したものか……」
別にすべて話す理由もないし……まぁ軽くでいいか。
俺は人差し指を立て、困惑している志乃ちゃんに説明してやることにする。
理解されるとは思っていない。
理解してほしいとも思っていない。
ただ、事実を並べるだけだ。
「俺はさ、君のお兄さんに救われてるんだよ。救う理由なんて一ミリもなかったのに、むしろ見捨てるべき存在だったのに……アイツは、迷うことなく俺に手を差し伸べた」
もしかしたら、司の立場が志乃ちゃんでも同じことをしたかもしれない。
血の繋がりはないとはいえ、二人は本当によく似ているから。
一緒にいる俺だからこそ、そう強く感じる。
「けどね、一番救われるべきだったのは……アイツだったんだよ。物理的にも、精神的にも身体中に傷を負っているのに、かすり傷程度の人間ですら決して見捨てない。そんなアイツが……もっとも救われるべきなんだ」
その意味は、わざわざ言わなくても分かるだろう。
志乃ちゃんは司の事情を……司がどんな境遇で生きてきたのかを知っている。
それこそが、俺がここに立っている理由。
それこそが、俺が俺でいる理由。
「俺はそのための道具に過ぎない。アイツがハッピーエンドになる『舞台』のいち装置に過ぎない」
明るさを取り戻していた自分の声が、徐々に冷たさを帯びていくの感じた。
志乃ちゃんはただ胸元でギュッと手を握りしめ、必死に俺の話を聞いている。
目を逸らさないように。逃げないように。
不安に揺れる感情をグッと堪えるように、唇を噛みしめていた。
「君はさっき言ったよね。俺に何回も助けてもらった……って。形だけ見れば事実かもしれないけど、厳密には全然違うんだ」
「違う……って?」
「俺は『朝陽志乃』を助けたんじゃない。『朝陽司の妹』を助けたんだ。決して……君という一人の人間じゃない」
「っ……」
視線を外し、身体ごとを海へ向ける。
俺たちの雰囲気とは対照的に、海はずっと穏やかだった。
志乃ちゃんの言葉を待つことなく、さらに畳みかける。
「そして、君はこうも言っていた。昴さんにとって、私は『朝陽司の妹』だ……って」
「……はい」
「こっちは大正解だ。よく分かってるじゃねぇの」
向けられるべきではない想いを、向けられてしまった。
これは俺の責任だ。
俺がこの事態を招いてしまった。
君は良い子だ。本当に良い子だ。
君以上に優しい女の子を。
君以上に他者の痛みに寄り添える女の子を。
俺は……知らない。
だからこそ……『その道』を歩ませるわけにはいかない。
これ以上、そこに留まらせるわけにはいかない。
そのために俺は……ハッキリと言わせてもらう。
「その『好き』は、君のなかにだけ存在する青葉昴に対する感情だ。今目の前に立っている男に向けるべき感情じゃない」
「じゃ……じゃあ――」
詰まりながらも、ようやく志乃ちゃんが口を開いた。
「なに?」
俺は海へと顔を向けたまま、言葉を待つ。
「昴さんにとっては『私』はどうでもいいってことですか? 大事なのは『朝陽司の妹』っていうことなんですか? わ、私が『ただの朝陽志乃』だったら昴さんは――」
「そうだよ」
淡々とした即答に、志乃ちゃんが怯んだ。
「俺は『君』という存在に興味はない。好きとか嫌いとか、そんな感情を抱いたことはない」
抱く資格すらない。
「司に関係なければ……ここまで気に掛けることもない。全部――君の言う通りだ」
酷い男だろう。
最低な男だろう。
それでいい。それが正しい。
青葉昴は――そういう存在なんだ。
「ただの装置。ただの道具。物が登場人物に特別な感情を抱くことはない」
志乃ちゃんがどんな表情をしているのかは分からない。
だけどこれで……。
余計な空想を抱かずに済む。
正しい道を歩める。
なにも問題ない。
俺は正しい選択を――
「あはは……」
それは、困ったような笑い声だった。
俺ではないということは……志乃ちゃんの声。
「……なんとなく、分かってました。昴さんが、私たちとはどこか違う場所に立っているんだって……」
力のない、声。
「聞けて……良かったです。昴さんから、その言葉を聞くのに……五年もかかっちゃいました……っ!」
ここまで来ても『良かった』なんて言えるのか。
どうして君はそこまで……。
どうして俺なんかにそこまで……。
「分かってた。分かって、たのに……っ。そう、言われる覚悟だって……してたのにっ……」
言葉は途切れ途切れになり、震えが増していく。
「はは……お、おかしいなっ……。でも……」
……。
志乃ちゃんへと、顔を向ける。
彼女の顔を見た瞬間――
なぜか……苦しくなった。
息が詰まりそうだった。
「いざ向かい合ってそう言われると――っ」
志乃ちゃんはただ――笑っていた。
必死に、笑顔を作っていた。
肩を震わせ、声を震わせ。
小さな手を握って、ただ必死に……笑顔を繕っていた。
そして。
その顔が――くしゃりと歪んだ。
「すごく、寂しい……ですねっ――!」
ポタっと砂浜に一粒の雫が零れ落ちた。
堰を切ったほうに、二粒、三粒と、雫は零れ落ちる。
言わずもがな……彼女の涙だった。
笑顔を作ろうとしているのに。
明るく努めようとしているのに。
こみ上げる感情が。
溢れ出る涙が。
それを邪魔していた。
俺はただ――その様子を黙って見ていることしかできなかった。
あのときもそうだった。
俺は泣いている女の子を目の前に……なにもすることができない。
ただ、あのときと決定的に違うのは。
彼女をそうさせてしまったのは……俺自身だ。
「それでも……私は――! あなたがなんて言おうと、どこに居ようと……」
涙で濡れているはずなのに。
怖くて、震えて、必死で感情を抑えているのに。
彼女の目は――
輝きを失っていなかった。
大きく息を吸って……すべての想いを吐き出すように。
海の向こうにも届くように。
凛と響く声を――俺に向けて。
「朝陽志乃は――!」
叫ぶのだ。
「あなたが大好きです――っ!!」
強い子だと思っていたけど……。
まさかここまでなんて……。
「この想いだけは――絶対に譲れない。私の『大切』なものを否定させない!」
朝陽志乃は、折れない。
どんな枷があろうとも、どんなに痛みを伴おうとも、どんなに傷ついても。
朝陽志乃は、止まらない。
「ご、ごめんなさいっ……! わ、私、先に戻りますね……!」
なにひとつ悪くないのに、謝罪の言葉を口にして。
涙を指先で拭い、志乃ちゃんは俺に背を向けてそのまま走り去ってしまった。
「……」
遠くなる背中に呼びかけることは許されない。手を伸ばすことなんて、もっと許されない。
心優しい彼女を。
笑顔が似合う彼女を。
悲しみの涙で……ぐしゃぐしゃにしてしまった。
歩み寄ってきた彼女を――俺は突き放した。
俺自身の意思で、そうした。
「……はぁ」
遅かれ早かれ、きっとこうなっていたんだ。
これでいい。
なにも問題はない。
……。
あの子の涙を見たのは、どれくらいぶりだろう。
――『あなたが大好きです――っ!!』
決意を秘めたあの目が、頭から離れない。
「いっそここで夜を明かすか……?」
志乃ちゃんの異変に、兄である司は容易に気が付くはずだ。
なにもなかったように振る舞うだろうが、それで騙せるほど司はバカじゃない。
――『兄妹では――それ以上深い関係になれない。それ以上――進めない。そうだろう?』
……これで満足かよ?
どうせあんたはこれを望んでいたんだろう?
志乃ちゃんを炊きつけ、意識させ、焦らせて……行動させる。
どんな結果を予想していたのかは知らねぇけどな。
ザッ――
背後からの足音。
「いやー。これは拳の一発二発……いや、十発でも足りないな」
聞こえてきた、その男の声。
「そうだろ?」
ゆっくりと振り向いた先にいたのは――
「――昴」
今、一番顔を合わせたくない男だった。
「……司」