第154話 星那沙夜は青葉昴を捉える
ゾクッとした。
光を宿しているはずなのに、その光を侵食しようとしているようなその瞳が。
俺を見ているはずなのに、そのさらに向こうを見ているようなその瞳が。
喜び。
悲しみ。
期待。
不安。
それらをぐちゃぐちゃに混ぜ合わせたような瞳が、ただをこちらをジッと見つめている。
素直に――怖いと思った。
俺はこみ上げてくる嫌な感覚を抑える。
飲まれるな。耐えろ。
「……高校に入ってからが初めましてだと思っていた。ずっと、そう思っていた」
質問に対する答えを待つことなく、俺はさらに切り込む。
去年の冬、司に付いていくようにして初めて訪れた生徒会室。
そこで出会ったのが……あんただった。
みんなが憧れる美人生徒会長。
容姿端麗、頭脳明晰をそのまま擬人化したような人物。
生徒、教師問わず信頼が厚い。
文字通りパーフェクトな人。
学校一の有名人と会うもんだから、俺も柄にもなく緊張していたことを覚えている。
そんななか、いざ顔を合わせてみると……会長さんは俺に対しても気さくに接してくれた。
初対面なのにもかかわらず、フッと笑いかけてくれたのだ。
「あんたは司のことをよく知っている。知り過ぎている。だから、あいつと過去に会ったことがあるんじゃないかと疑っていた」
この人は言った。
司のすべてを知っている――と。
「だけど……それと同等に、俺のこともよく知っている。気味が悪いくらいにな」
そうだ。司だけじゃない。
この人は俺もことも『知って』いるんだ。
――『昴。キミは過去の自分を閉じ込め、無くしたいものだと思っているのかもしれないが……』
――『そのキミに救われた者もいるのだと……知っておくといい』
あれはもう、自分から言っているようなものだ。
自分はお前の過去を知っている……と。
俺が話を止めないことで、会長さんはただ笑みを浮かべてこちらを見ていた。
まるで、俺が核心へと迫るのを喜んでいるかのように。
「……昔、母親が勤めている会社に一回だけ行ったことがあるんです」
あれはまだ、父さんが生きているとき。
おぼろげな記憶ではあるが、たしかに残っている。
母さんの会社……つまり、会長さんの親の会社だ。
「俺はその日、廊下かどこかでゲームをしてたんです。早く帰りてーって思いながら」
幼い頃の、それも一日のたった僅かな時間。
忘れるには十分だった。
現に忘れていた。
そして――思い出してしまった。
「そんなとき、一人の女の子が声をかけてきたんですよ」
会長さんの瞳がほんの僅かに揺れた気がした。
「年は同じくらいで、一言で言うなら……風が吹けば飛んでいってしまうくらい弱そうな女の子でした」
ジロジロ見たわけではないから、細かく覚えているわけじゃない。
「ボソボソ喋るわ、ビクビクしてるわ……当時の俺からしたら、ただただうっとうしいだけの子で。さっさと帰れよって思っていました」
名前を知りたいとか、話したいとか、そういった感情は一切湧かなかった。
その子に対する興味もなかった。
うざいから早く目の前から消えろ。俺はゲームがしたいんだ。
ただただ、そう思っていた。
「んで、邪険にしてたらその子が俺に言ってきたんです。いっこだけ教えてくれる? って。それでたしか……こう聞いてきた」
「……」
少しずつ、会長さんから表情が消えていく。
俺は当時のことを思い出して、目の前に座る『彼女』に告げた。
「『どうすればあなたみたいに……堂々とできるの?』――ってね」
間違いない。あの子はそう……俺に聞いてきた。
「たかが数分のことだから、すっかり忘れていましたけど」
「……たかが?」
ようやく口を開いて出てきた言葉は……冷たさを帯びていた。
こちらを見る瞳がさらに揺れる。
俺はやれやれと肩を竦めて笑い、視線を上に向けた。
「いやはや……まさかあのとき出会った『女の子』がこんなすげぇ人に成長してるなんて」
上を向いたまま、一度を小さく深呼吸をする。
ここから先、会長さんがどのような反応をするのかは想像がつかない。
軽く流すのか。それとも……。
『たかが』という部分に妙な反応を見せていたのが引っかかるが……。
――もしかしたら、この人に踏み込めるかもしれない。
よし。
俺は視線を前に戻し、そして。
「――久しぶりっすね。名前も知らない女の子さん?」
そう言って、ニッと笑った。
「ッ――」
会長さんの手に、ギュッと力が込められた。
俺は『あの子』の名前を知らない。
顔も、声も覚えていない。
ただ……ここまで俺が得てきた情報が物語っていた。
あれは星那沙夜だと。
――『あれは……小学一年生とか、二年生とか? 多分そのくらいのときじゃないかなー?』
母さんが言うには、俺は会長さんが過去に一度会ったことがある。
嘘を言う理由なんて一切ないため、これは事実だろう。
それを証拠付けるように、会長さんは過去の俺を知っていた。
そして、極めつけには……俺の記憶に残っている一つのこと。
あの少女の――『真紅の瞳』。
まだ幼いながらも美しく、純粋な輝きを宿した瞳。
間違いなく星那沙夜の瞳だ。
ずっと忘れていた。
そう。
俺たちは――会っていたんだ。
たった数分の出会い。短い会話。
それでも俺たちは……たしかに出会っていたんだ。
『青葉昴』と『星那沙夜』として――会っていたんだ。
ただ。
「ま、その質問になんて答えたのか正直覚えてないんすけどね」
「……」
俺はあの日、会長さんになんて答えたのだろう。
それをさっぱり忘れている。
どうすれば堂々とできる……か。
小学校低学年の女子にしてはなかなかませた質問だ。
「となると……どうしても引っかかるのは、先月の夏祭りの日に俺に言ってきたことです」
「……」
「キミに救われた者もいる……って、アレはどういう意味なんすかね」
仮に、『救われた者』が会長さん自身を指しているのだとしたら。
俺がこの人を……救った?
だとしても、余計に分からない。
あのときの俺は、どうしようもないクソガキでバカ野郎だった。
他人を傷つけることしかできないヤツだった。
誰かを救うなんて……できるわけがない。
過去の自分を思い出し、俺は思わず「はっ」と鼻で笑う。
「どうせ『オレ』が言ったことなんて、しょーもなくて中身のない言葉なんでしょうけ――」
「やめろ」
低い声だった。
「……ん?」
ギリッと歯を噛みしめる音が聞こえてきた。
もちろん、俺じゃない。
つまりこの声は――
「やめろ、と言ったんだ」
いつもの穏やかさなど、どこかへ行っていて。
俺を見るその揺れた瞳からは……たしかな『敵意』を感じた。
会長さんから、そんな感情を向けられるのは初めてだった。
「たかが? しょーもない?」
微かに震えた声。
「キミが――」
本当の意味で、その瞳が『俺』を捉える。
俺の向こうにいる『なにか』ではなく、俺自身を見ていた。
「『キミ』ごときが『彼』を語るな」
そう、会長さんは淡々と口にする。
そして最後に――『俺』に向かって言い放った。
「紛い物の……キミごときが」
俺は初めて――本当の意味で星那沙夜の内側を見た。