第132.5話 渚留衣はしっかり緊張している
――少し遡って。
「よ、よろしくお願いしますー」
「あ、え、っと……は、はい。よろしくお願いします……」
最悪だ。声裏返った。
ステージへと上がったわたしは、一回戦の対戦相手であるジャックル選手と挨拶を交わした。
やはり女性が相手ということもあって、驚いているように見える。
まぁ、こういう反応をされることは予想してたけど。
とはいえ第三試合にも女性選手が出てたんだから、そんなに驚かなくていいのに……。
……アレかな。
わたしがこんなだから凄い弱そうに見えるのかな。
などと考えながら、わたしは筐体の椅子に座ると、目の前には見慣れた豪拳の画面が広がっている。
あぁ、いよいよ始まるんだ。始まって……しまうんだ。
と──考えた瞬間。
「っ……」
――気持ち悪い。頭がくらくらする。胸が苦しい。足が、手が震える。
わたしは表面に出さないよう、小さく呼吸を繰り返した。
落ち着け、落ち着け……。
……。
…………。
あ、無理。無理だこれ。
正直、観客席で試合を観ているときからヤバかった。
え、わたしあんなところで試合するの? もっとこじんまりとしたスペースだと思ってた……とか。
観客多くない? 実況解説の雰囲気がもうガチの大会じゃん……とか。
大人しく観客として遊びに来ればよかった……とか。
自分の出番が近付けば近付くほど、不安な気持ちは膨れ上がっていった。
そして、いざステージへと上がると……。
まるでなにかに押し潰されるかのように、一気に身体が重くなった。
鉛のように重い足を引きずって……なんとか筐体の前に来ることができたけど……。
ジャックルさんの顔は全然頭に入らなかったし。まともに挨拶できなかったし。
店長さんとマキさんが色々話してるけど、全然そっちに集中できないし……。
観客席とか絶対見れないし、見たら多分……逃げ出すし……。なんか視線感じるし……。
ぐるぐるぐるぐる。
嫌な感情だけがわたしの胸の中で渦を巻く。
そういえば、さっき観客席のほうが騒がしかった気がしたけど……なにかあったのかな。見ようとしなかったから分からないけど。
――言ってしまえば。
わたしはとんでもないほど……緊張していた。
ここまで緊張感に支配されたのはいつ以来だろうか。
あー……ヤバい。心臓破裂しそう。
うるさいほど鼓動を刻む胸に手を当て、わたしは深呼吸をした。
だけど……まったく収まる気配はない。
どうしよう。
このままじゃ絶対に負ける。
こんな震えた手じゃまともに操作できないし、無様に負けるところが簡単に想像できる。
……やっぱ、わたしなんかがこんなところ来るべきじゃなかった。
陰キャは陰キャらしく、家でゲームをしていればよかった。
わざわざあいつを連れて来てまで――
連れて、来て……まで……。
――『ただ、もし試合前にめっちゃ緊張してきたら……』
「……ぁ」
パッと思い浮かんだのは、あのムカつく顔。
そうだ。
ここで負けるということは……あいつの前でダサいところを見せるというわけで……。
そんなことになったら……うん。
間違いなく、一生バカにされる。
普段俺のことをあんなにボコボコにしてるのに、簡単に負けるとかダサすぎ乙……とか言われてバカにされる。
それだけは絶対に嫌だ。
――『一瞬でもいいから、俺のほうを見ろよ』
再び、思い浮かんだその言葉。
「……」
別にこれは、あいつを頼ったわけではない。
ただ……そう。
わたしがいないからって、あいつが他の人に迷惑をかけていないか心配なだけだ。
たった……それだけ。それを確かめるだけだ。
決してあいつの言葉に従ったわけじゃない。
――などと、誰かに言い訳をするように……わたしは心の中でつらつらと言葉を並べる。
そしてわたしは……意を決して、観客席へと目を向けた。
堂々とは見られないから、控えめに……だけど。
ステージに上がって……初めて観客席を見た。
やはり女性選手が珍しいのか……こっちを見られている気がした。
それを意識すればするほど……嫌な気持ちになってくる。
眼鏡を掛けていなくて本当に良かった。
もし掛けていたら……見え過ぎてもっと大変なことになっていたかもしれない。
わたしはなるべく全体を見ないように……後方の席だけを見つめた。
ぼやけた視線の先に――あいつは座っていた。……多分。
裸眼のせいで、離れている場所がハッキリと見えない。
――『その一瞬で緊張を吹き飛ばしてやるぜ!』
あんなことを言っていたけど……いったいなにをするつもりなのだろう。
気が付けばわたしは、自然と目を細めていた。
奥に座る……あいつをちゃんと見るためだけに。
ぼんやりと見えていた人影が……徐々に形作られていく。
わたしの視界にようやく形作られたあいつは……青葉昴は。
――わたしの眼鏡を掛けて、変な顔をしていた。
「……は?」
予想外の姿に声が漏れる。
もちろん、ちゃんと見えているわけではないけど……間違いなくわたしの眼鏡を掛けている。
え、なんで? わたしの眼鏡だよねアレ。なんで勝手に掛けてるの?
それに……なんであんなに変な顔してるの?
無駄に眉毛を寄せてるけど……眼鏡の度が合っていないのか、辛そうに目が細まっていた。
まったく……いっつもあいつは……。
――どうしようもないくらい、バカなんだから。
本当は、わたしの誕生日になんて興味ないのに。
ただわたしに頼まれたから、ああして同行しているだけなのに。
自分が誕生日にプレゼントを貰ったからっていうだけで……それ以外の感情なんてないはずなのに。
どうしてあいつは……あそこまでしてくれるのだろう。
やがて我慢できなくなったのか、青葉は眼鏡を取って鼻根を抑えていた。
「……はぁ。ホントにもう……」
ため息。
締まらないヤツ……なにしてんのって話だ。
「……あれ」
呟き。
気が付けば、気持ち悪さが無くなっていた。
思考は落ち着き、足と手の震えが止まっていた。
緊張は……まだ残っているけど。苦になるほどじゃない。
嫌な感覚は……どこかに消え去っていた。
もしかしたら、先ほどのため息と一緒に抜けていったのかもしれない。
どうして――?
いや。
理由なんて……一つしかない。
一つしかないけど……認めるのが癪だから考えるのをやめよう。うん。
とりあえず……確実なことは。
「よし」
――これなら、いける。
せっかく大会に来たんだ。
わたしの全力を……ぶつけてみよう。
勝ったとしても。
例え……負けたとしても。
やるだけやってきた――って。
あのバカに言ってやるために。
大人しくそこで見てて。
あんたを普段ボコボコにしているnagiの力……見せてあげるから。