第113話 有木恵麻はその変化に驚く
「いやいやお前、なんで笑ってんだよ……」
怒りや戸惑い。
困惑や疑惑。
そういった感情が見えず、有木はただ優しく微笑んでいた。
呆ける俺の顔が面白かったのか、口元を抑えて再度ふふっと笑う。
「ご、ごめんない。だってその……」
有木は咳払いをして、再び話を続けた。
「まさか、あの昴くんから『すまなかった』なんて言葉を聞けるとは……思わなかったから」
「あー、それはそうかもね。誰かに謝ることなんて、昴は絶対にしなかったからなぁ」
「うんうん。だから、やっぱり変わったんだなぁって」
「今じゃコイツ、毎日のように謝ってるぞ? すみませんでしたとか、ごめんなさいとか。いつもすぐふざけて、そのたびに怒られてるから」
「え、えぇ……そう、なんだ……」
有木の言っていることは分かる。
あの頃の俺は、誰かに謝るなんて絶対に御免だった。
例え自分が悪かったとしても、頑なに謝ろうとしなかった。
いや……そもそも自分が悪いって発想にすら至らなかったな。
謝ってしまったら、そいつよりに下になると思っていたから――
そんな……浅はかで、ガキみたいな理由だった。
それが今では……司の言う通りである。
おかしいな。なんでだろうね。
自分が悪くなくても絶対に謝ってるもんね。
やはりあの緑の鬼様の罪はデカい。
「……昴くん」
有木の視線が司から俺に移る。
「あたしはね、謝罪されていいような……人間じゃないんだ」
謝罪されるような……?
言葉の意味が分からず、俺は首をかしげた。
目を伏せる有木を、司は複雑そうな表情で見ている。
なにか知っているのか……?
「先に話しておくね。あたしが……月ノ瀬さんにやったことを」
「は? 月ノ瀬?」
どうしてここで月ノ瀬の名前が出てくる?
もしかして知り合いだったのか?
さまざまな疑問が出てくるが、俺はひとまず有木の話を待つ。
「月ノ瀬さんのことは……昴くんも知ってるよね」
「あ、ああ。そりゃもちろん」
「あたしね。今……月ノ瀬さんが転校する前の学校に通ってて……えっと」
月ノ瀬が転校する前の学校。
俺の頭によぎったのは、仮の自分を演じていたときの姿。
アイツはなぜ――自分を偽っていた?
なぜ――そうすることを選んだ?
有木恵麻。月ノ瀬玲。
二人を紡ぐものは――
「クラスメイト……だったんだ」
あぁ――そういうことか。
なんとなく、分かった気がした。
『謝罪されていいような人間じゃない』――そう言った理由が。
「あたしはね――」
そして、有木恵麻は話し始めた。
自らが背負ってきた苦しみを。
自らが背負わせてしまった苦しみを。
つっかえながらも、一つ一つ……たしかな言葉を俺に伝えるように。
言葉を探し、必死に話すその姿を――
俺はただ、黙って見ていた――
× × ×
「――そして、この間あたしは司くんと……そして、月ノ瀬さんに……再会したの」
月ノ瀬が有木をいじめから助けたこと。
その月ノ瀬を裏切ってしまったこと。
有木は何一つ、偽ることなく正直に話してくれた。
司の反応を見る限り、すでにこの話は知っていたのだろう。
ショッピングセンターで有木と会ったあと、まさかそんなことが起きていたなんてな……。
「胸の中がぐちゃぐちゃで、なんて言えば全然分からなくて……でも、司くんに大事なことを教わった」
――へぇ。
司から、ねぇ。
「だからあたしは……自分が犯したことと、向き合おうって思ったんだ」
言葉ではいくらでも言えるが、実際に行動に移すのは簡単ではない。
なぜなら人間というのは、基本的に逃げる選択肢を選ぶ生き物だから。
気付かなければ楽だから。
関わらなければ楽だから。
知らないままでいれば楽だから。
楽……そして安堵。
それは俺たちが生きていくうえで、決して切り離すことができない感情だろう。
だけど有木は――逃げなかった。
犯した罪の象徴――月ノ瀬玲という存在と向き合う道を選んだ。
「ごめんなさい……ってあたしは、頭を下げた。それこそ……さっきの昴くんみたいに」
怖かったはずだ。
逃げたかったはずだ。
司になにを言われたのかは分からないが、まず本人に向かって堂々と謝ることができただけでも……強い覚悟の現れなのではないか?
ましてや、有木の性格を考えれば尚更だ。
仮に、その場に俺がいたとしたら。
有木にどんな言葉をかけていただろうか。
向き合わせることができるような言葉をかけられただろうか。
――どうだろうな。
きっと、司とはまた別の道を選ばせていたかもしれない。
だとすれば、俺じゃなくて本当に良かったと思う。
「そしたら月ノ瀬さん、なんて……言ったと思う?」
真剣だった有木の表情が綻んだ。
纏っていた緊張感が無くなったのを感じる。
その様子を見るに、有木にとっては面白い返答だったのか?
「うーむ……」
俺は腕を組み、月ノ瀬の返答を考えてみた。
相手は自分を傷つけた子で。
自分はまだそのことを完全に振り切ってはいなくて。
その相手が……自分と向き合うべく謝ってきた。
んで、月ノ瀬の性格を考慮すると……。
――解は導かれた!
俺はファサッと髪を払う仕草をして、月ノ瀬の口調を真似して口を開く。
「許すわけないでしょ? 今後アンタは私の奴隷よ。さぁまず靴を舐めなさい。そして有り金すべてそこに置きなさい。そして毎月生贄を差し出すこと。分かったらさっさと返事をしなさいよこの犬ッ!」
――ふぅ。
決まったぜ……。
俺はフッと笑い、達成感に満ちた表情を有木に向ける。
完璧だろ。
月ノ瀬だったらこんな感じだろうし。
「…………」
――ふむ。おかしいな。
どうして『正解だよ! すごいね!』みたいな反応が来ないんだ?
有木はポカーンとしてるし。
司はため息をついて「……あとで月ノ瀬さんに言っておこ」とか言ってるし。
――っておい待て! 本人に言うなよ!
そんなことされたら俺もう生きていけなくなるって! それこそ俺が夜叉様の奴隷として靴を舐めることになるって!
……いや。でも。
それもそれで……あり――じゃねぇ!
危ねぇ……想像したらうっかり目覚めちゃうところだったぜ。昴くんよく耐えた。セーフセーフ。
冗談はさておき。
どうりでその日以降、月ノ瀬がどこか吹っ切れたような表情をしていたわけだ。
さーて、この空気をどうしたものか。
と思っていたら――
「ははっ……! ふふふ……!」
有木が俯いて、笑っていた。
笑いで上下する身体に合わせて、長い前髪がゆらゆらと揺れている。
髪サラサラだなコイツ……。
「あっ! ご、ごめんね……!」
有木は自分だけが笑っていることに恥ずかしくなったのか、なんとか落ち着きを取り戻す。
顔は紅潮し、瞳には僅かに涙が滲んでいる。
その涙を人差し指で拭いながら、有木は明るい声で俺に言った。
「もう……昴くんの中の月ノ瀬さんって、そういう感じなの……?」
「いや、俺の中のっていうか。アイツ、普段からそんな感じだぞ」
「え、え……!? そうなの……!?」
「違うから。有木さん、騙されないで。昴の言ってることは嘘だから」
すかさずフォローに入る司。
あながち間違ってはないと思うんだけどなぁ……。
有木は「び、びっくりした……」とホッと胸を撫で下ろした。
「で、でも……最初の部分だけは合ってるよ」
え。
「さぁまず靴を舐めなさいってところか?」
「ち、違うよ……! そこ最初じゃなかったでしょ……!? や、やっぱり昴くん変わったよ。そ、そういう冗談を言ってるところ見たことなかったし……」
「それはたしかに」
焦る有木の言葉に、司が同意する。
いつもだったら適当に流されるか、蓮見がツッコミを入れてくれるかなのに……有木の場合は過去の俺と比較されるのかぁ。
それはちょっとやりづらいな……。
まぁでも、実際ふざけたような冗談を言ってた記憶なんてないし……なにも間違ったことは言っていないのだが。
これ以上は話が進まなくなるし、一旦黙っておこう。
「許すわけないでしょ――ってところ。そのまま、月ノ瀬さんに言われたんだ」
ほう……。
月ノ瀬が言いそうな返答だ。
「『これから私はアンタのことを逃がさない。ずっと見ててやる。だから……アンタの好きなようにやってみなさい』――って」
「うわ怖ッ」
――とはいえ。
言い方こそアレだが、とても月ノ瀬らしい言葉だと思う。
結局、最後の部分にアイツの言いたいことがすべて込められているのだろう。
お前の好きなようにやってみろ。
許すとか、許さないとか。そういうのはまた別の話――というわけだ。
それは有木にとっては難題かもしれない。
それでも……『前に進むため』という点においては、これ以上ない言葉だと感じた。
簡単に許されたら停滞する。
許さないという一言だけでも停滞する。
たった一言、そこに加えるだけで……また変わるものがある。
それを俺は……よく理解している。
痛いほど、よく分かるから。
「だからあたしは……これから先も月ノ瀬さんと向き合おうって。それが、唯一あたしにできることだから……」
ガキの頃は、あんなに俯いてばかりだったのに。
自分の意見もろくに話せないような気弱なヤツだったのに。
俺に散々言っておいて……お前も十分変わってるじゃねぇか。
俺が知っているお前は……そんな立派なこと言えなかったぜ。
「なるほどな」
「うん。そういうことだから……昴くん、あたしに謝らなくていい。その資格、あたしにはないから」
「……お前の話は理解した。まず、話してくれてサンキューな」
自分も罪を犯した。
ゆえに、謝罪されるような立場ではない。
有木の言いたいことはよく分かった。
俺が逆の立場だとしても、同じことを言うだろう。
「でもな、有木」
俺からしたら――
「そんなことは関係ねぇんだ」
お前と月ノ瀬の間になにがあろうが。
お前がどんなものを背負っていようが。
こと『青葉昴』と『有木恵麻』という二人の問題において、そんなものは限りなくどうでもいい。
まったくの無関係だ。
言ってしまえば。
お前と月ノ瀬の関係なんて。
俺は一切興味ないんだよ。