第109.5話 私が抱くこの感情は【後編】
「はぁ……はぁ……」
途中まで上った階段を急いで駆け下りる。
考えるよりも先に身体が動いてしまった。
身体が……拒んでしまった。
この先にいた、昴さんの姿を見ることを。
――違う。
昴さんが渚先輩と話している姿を……見ることを拒んでしまったのだ。
どうして。
どうして。
どうして。
湧き出てくるのは…疑問。
そして。
「……っ」
痛み。
私は最後まで階段を下り、一段目に腰を下ろした。
痛い。
胸の奥が……痛い。
昴さんのことを考えれば考えるほど、その痛みは増していく。
どうして。
――結局、その理由は分からなくて。
まずは一度、気持ちを落ち着かせるために深く深呼吸をする。
嫌な気持ちを吐き出すように、ゆっくりと息を吐いた。
生徒会長さんの言う通り、昴さんを見つけることができた。
それに……渚先輩の姿も。
二人は同じように階段に座り、真剣な様子でなにかを話していた。
私が知らない昴さんの姿が……そこにはあった。
――『だが、場合によっては傷つくことになるかもしれない』
あの言葉は、私を蝕むこの痛みとなにか関係があるのだろうか?
話をしている姿を見ただけで……私はどうして痛みを感じているのだろう?
二人はクラスメイトで、いつも仲良さそうに話している。
昴さんがふざけて、渚先輩がそれを冷たくあしらって。また昴さんがふざけて。
高校に入学してから、そんな光景を何度も見てきた。
もしかして。
二人は、なにか特別な関係なの?
だからこうして、二人きりで話を――
「痛い……!」
ズキ。
また胸の奥が痛んだ。
「昴さん……」
思わず、その名前がこぼれた。
――いつからだろう。
昴さんと渚先輩が話している姿を見ると、モヤモヤした気持ちになってしまうのは。
――いつからだろう。
昴さんに会いたい。話したい。もっと私を見て欲しいって……そう、思うようになったのは。
――いつからだろう。
兄さんとは違う別の『なにか』を……昴さんから感じるようになったのは。
いったい……いつからなんだろう。
昴さんとは、私が小学生のときからの付き合いで。
そのころから昴さんは、私のことを本当の妹のように気にかけてくれた。
人気者だった兄さんとは違い、昴さんの周りには女性がいなくて。
そもそもの話、昴さんに興味を持っているような女性が全然いなかったのだ。
私だけが、昴さんを見ていて。
昴さんも、私を特に見ていてくれた。
それが例え『朝陽司の妹だから』という理由だとしても……嬉しかった。
日向と仲良くなって、四人で過ごす日々が増えてもそれは変わらなくて。
昴さんは私を守ってくれた。
私を安心させてくれた。
私を……支えてくれた。
――けれど、高校に入学してからそれが変わった。
昴さんの周りには、魅力的な女性が何人もいたのだ。
なかでも……そう。
渚先輩だけは、ほかの人とは違う感情を……昴さんに向けているように見えた。
そして昴さんも……同じで。
二人だけにしか知らない『なにか』が……そこにはあった。
兄さんだけではなく、昴さんのことも好意的に思ってくれる人がいて嬉しい。
月ノ瀬先輩や蓮見先輩。
日向や生徒会長さん。
渚先輩は……好意的? と言っていいのかは分からないけれど……。
ともかく、そう思う気持ちは事実だ。
昴さんの魅力を知ってもらえて。
『朝陽司と青葉昴』ではなく、ただ一人の『青葉昴』としてあの人を見てくれるのは嬉しい。
嬉しい――はずなのに。
私はそれ以上に……不安だった。
もしも、昴さんが心から好意を寄せるような人が現れたとき。昴さんの隣に立てるような人が現れたとき。
私を――気にかけてくれなくなっちゃうんじゃないかって。
どこかへ行ってしまうんじゃないかって。
私ではない……その誰かに。
あの大好きな笑顔を……向けてしまうんじゃないかって。
「昴さん……」
また、あの人の名前がこぼれた。
一人で閉じこもっていた私を、兄さんと一緒に連れ出してくれた人。
朝陽志乃にとって、もう一人の兄さん。
その兄さんが。
家族が。
誰かに取られちゃうかもしれない。
だから私は不安を感じているの?
この胸の痛みはそういうことなの?
だとしたら、この感情は……。
――本当に?
内側から声が聞こえる。
――本当にそれだけなの?
私が、私に問いかける。
――昴さんではなく、兄さんがほかの女性と話していたら? 月ノ瀬先輩や蓮見先輩と話していたら?
――同じ気持ちになる?
――胸の奥が痛くなる?
――不安な気持ちになる?
「……ならない」
ならない。
複雑な気持ちにはなるけれど、こんなに辛い気持ちを感じたことはない。
――それはおかしい。『兄』なんだよね? 昴さんはもう一人の『兄さん』なんだよね?
再び、私が問う。
昴さんは私にとって家族と同じくらい大切な人だ。
その気持ちに嘘偽りはない。
昴さんは兄さんと同じ……。
――なら、もう一度想像してみて。この階段の先にいる二人を。私の知らない顔を……私以外に向けている昴さんのことを。
「……っ」
痛い。
痛い。
――生徒会長さんは私になんて言っていた?
「キミが抱えているその感情の意味を理解したいのなら……」
私の感情の意味。
私が抱えるこの痛みの意味。
――私はそれを理解したいからここに来た。ほかでもない、昴さんに会いたくて。
兄さんに対しては抱かず、昴さんに抱くこの感情。
ふと、二年生が学習強化合宿に行っていた期間中に、日向が言っていたことが頭をよぎる。
『昴先輩だって、もしかしたら誰かといい感じになっちゃうかもしれないよ?』……と、そう言っていた。
――日向はあのとき、どうして不安に思っていたんだっけ?
兄さんが月ノ瀬先輩たちと仲を深めちゃうかもしれないから。
――どうしてそれを不安だと思っていたの? 仲良くなるのはいいことじゃないの?
それは。
それ……は……。
「好き……だから」
その言葉を呟いた瞬間――
今まで、私の目の前を覆っていた深い霧が晴れたような気がした。
バラバラに散らばっていた『私』の感情が一つに集まる。
蝕んでいた胸の痛みはどこかへ消え去り、今度は――
とくん、とくん。
私の気持ちに応えるようにその鼓動は早くなり、熱を帯びる。
「好き」
――『それにしても志乃ちゃん、さっきも言ったけど浴衣バッチリ似合ってんね』
好きだから嬉しかった。
心臓がどうにかなってしまうほど心の底から嬉しかった。
好きだから……褒めてほしかった。
「好き」
――『良かったな。いい家族と出会えて』
好きだから支えたいって思った。
好きだから家族のように大切にしたいって思った。
「好き」
――『俺を助けてよ』
好きだから助けたいって思った。
好きだから隣に立ちたいって思った。
「好き」
好きだから追いつきたいって思った。
好きだから誰よりも近くにいたいって思った。
「好き」
好きだから――あの人をもっと理解りたいって思った。
好きだから――本当のあの人と出会いたいって思った。
そうだ。
好きだから。
胸の痛みも、不安も、嬉しさも、戸惑いも。
渚先輩に向けていた――嫉妬も。
全部全部――
「好きだから」
私の『答え』に応えるように。
パァン――と音を立て、空一面に大きな花が咲いた。
空を見上げ、私は微笑む。
綺麗な花火……。
この花火を私は一緒に見たい。
昴さんと一緒に見たい。
あぁ――そうか。そうだったんだ。
簡単な話だったんだ。
いつからだろう。
昴さんに『俺を助けてよ』と言われた日がきっかけなのか。
それとも――昴さんと初めて出会ったあの日からなのか。
あの人のそばで、あの人の感情に触れていくうちにそうなってしまったのか。
分からないけれど。
私は。
朝陽志乃は。
「……大好き」
青葉昴さんに――恋をしているんだ。