第101話 月ノ瀬玲は『友達』を助けたい
「頼むって……。青葉、どうしてアンタはそこまで……」
「俺が……アイツの親友だからだ。そしてお前たちが、アイツの友達だからだ」
頭を下げたまま、俺は答える。
はぁ──と。
呆れたようなため息が聞こえてきた。
これは……月ノ瀬によるものだ。
情けない、無力な俺に対しての感情なのか。
それ以外のことに対してなのかは、分からないし……どうでもいい。
俺なんてどう思われても構わない。
俺程度の評価と引き換えに、司へ想いを向けてくれるのならそれで──
「まったく……バカね、アンタは」
素っ気ない、月ノ瀬の言葉。
「頭を上げなさい、青葉」
「……」
「上げなさい」
話が進まないため、ここは一旦言うことを聞いておこう。
俺が頭を上げると、視線の先には不満そうに腕を組んでこちらを見る月ノ瀬の姿があった。
「たしかに司の話を聞いて驚いたわ。アイツがそんな深い傷を抱えているなんて……思わなかったから」
同意するように、蓮見と渚が頷く。
そして、一度目を伏せたあと……月ノ瀬は小さく息を吐いた。
自分の中の感情を吐き出すように。
「でもね」
それは、感情の籠った強い『でも』だった。
俺が今、月ノ瀬に言えることはなにもない。
ただその気持ちに耳を傾けることしかできない。
仮に彼女らが拒むのなら、また別の策を考えなければ――
しかし。
こうしている間にも、マイナスな思考を続ける俺を否定するかのように。
視線を上げた月ノ瀬は――ニッと笑っていた。
勝気な彼女らしい笑みだった。
言葉を待つ俺に――堂々と言い放つ。
「だからなに?」
「は……?」
だからなに――?
想定外で……あまりにも気が抜けた言葉。
その単純な一言で、俺の思考がどこかへ飛んでいく。
ああすればどうだ?
こうすればどうだ?
いや、そのためにはまず――
そのすべてが吹き飛び、頭の中が真っ白になった。
思わず口をポカーンと開け、呆ける俺を月ノ瀬がくくっと笑う。
「アンタ、なに変な顔してるのよ。自称イケメンが台無しよ?」
失礼な。自称でもあり他称でしょうが。
……ほかの人から言われたことあったっけ。
あれ? ひょっとしてイケメンだと思ってるの俺だけ?
――って待て。またふざけた思考に寄ってしまった。いかん。
「いい? 青葉」
「……なんだよ」
「『傷』なんて……きっと誰もが抱えているのよ。大きいものであれ、小さいものであれ……みんな抱えているんだわ」
過去を思い出すように月ノ瀬は目を細め、胸元で手をギュッと握る。
誰でも傷を抱えている……それはコイツも例外ではない。
周囲から孤立し、追い詰められ、切り捨てられた。
深い、深い傷を……抱えている。
それでも月ノ瀬玲は最後に――前を向くことを選んだ。
選ぶことが、できた。
「克服できたと思ってても……実際はそんなことなくて。いざ自分の傷と向き合うと、怖くて……目を逸らしたくなって。だけど時間は、感情は待ってくれない」
「玲ちゃん……」
ぽつり、ぽつりと月ノ瀬は自分の気持ちを言葉にする。
歩んできた道を伝えるように。
経験してきたことを忘れないように。
月ノ瀬なりに紡いだものを、目の前に座る俺にぶつけていた。
そんな彼女を、蓮見は心配そうに見つめている。
「そういうとき誰かに助けられて、時には誰かを助けて……。そんな助け合いの中で、私たちは生きているんじゃないかしら」
穏やかな表情で話す月ノ瀬は、俺たちを見回し……優しく微笑んだ。
それは、思わず見惚れしまうほど……綺麗な微笑みだった。
いつか感じた、微笑みに『見える』仮面ではなく。
心からの……月ノ瀬玲という一人の少女の微笑みだった。
「――私が、アンタたちに助けられたように……ね」
月ノ瀬が再び前を向くことができたのは、司たちと出会うことができたから。
彼、彼女らと出会い……交流を通じて。
暗闇でうずくまっていた自分を、引っ張り上げてくれたから。
だからもう一度、本当の自分として歩むことを選んだ。
今の彼女はもう、あの頃の月ノ瀬玲じゃない。
話していて恥ずかしくなったのか、月ノ瀬はわずかに頬を赤く染めて「と、とにかく!」と早口で声をあげた。
「私がなにを言いたいかっていうと……青葉!」
「お、おう……!」
ハッキリと名前を呼ばれたことで、背筋がピンと伸びた。
授業中、油断しているときに先生に名指しされたときのアレの感覚に似ている。
何回も経験してるからよく分かります。
「頼む、なんて言うのはやめなさい。私は、私の意思で司と一緒にいるの。アンタに『頼まれた』からじゃない」
「月ノ瀬……お前……」
「傷があるかないかなんて、まったく関係ないわ。表も、裏も……すべてひっくるめて私は――」
月ノ瀬はその言葉を告げる前に一度、蓮見へと視線を向けた。
時間にすればたった一秒程度。
だけどきっと、蓮見に顔を向ける理由があったのだ。
それは――次の言葉ですぐに分かった。
「朝陽司という――一人の男に惹かれたのよ」
どこまでも真剣で。
どこまでも純粋で。
どこまでも真っ直ぐで。
噓偽りのない、月ノ瀬玲という……世界にたった一人の真実。
嬉しかった。
ただひたすらに……嬉しかった。
こんなにも言い切ってくれたことが。
こんなにもアイツに対して熱く、強い想いを寄せる者がいることが。
こみ上げてくる熱い『なにか』を抑えるように、俺は歯をグッと食い縛る。
テーブルの下に隠れた右手を、左手で覆うようにして強く握った。
「というか、抱えているものがあるなら尚更よ。私になにができるのかはまだ分からないけど、そばにいたいって思うわ。そばにいて……支えたい」
「月ノ瀬……」
「ふふ、アンタさっきから名前しか呼んでないじゃない。それ以外の言葉忘れたの?」
「……うるせぇ」
月ノ瀬自身、大きな傷と痛みを抱えて生きている。
だからこその……『尚更』なのだろう。
その辛さを。
その重さを。
よく知っているから。
「晴香!」
「えっあ、はい!」
次に月ノ瀬は、声を張って蓮見を呼んだ。
先ほどの俺と同じように、蓮見は椅子をガタっと揺らして背筋を伸ばす。
隣同士に座り合う二人は、お互いに顔を見合わせた。
「アンタも、うじうじしない! 気持ちは痛いほど分かるけど……『だからこそ』、でしょ?」
「だからこそ……?」
「そうよ。好きだから悩む、好きだから躊躇する、アンタが想っているそれは……全部、好きだからなんじゃないの? 違う?」
「好きだから……」
へぇ……いいこと言うじゃん。
――そうだな、その通りだ。
好きだからこそ、悩みを抱く。
好きだからこそ、一歩進むことを躊躇する。
お前が今抱えてるその感情は、好きだから得られたものなんだよ。
お前は一度――それを経験しているだろう?
「あっ――」
蓮見がハッと目を見開くと、こちらに顔を向けた。
俺はなにも言わず、ただ静かに頷く。
お前はもう……その気持ちを理解しているはずだ。
そうだろう、蓮見晴香。
お前は大好きな親友と衝突した。
そのときになにを得た? なにを感じた?
「うん……そうだ。そうだよね。それでいいんだよね」
揺らいでいた光が、徐々におさまっていく。
蓮見は声に出さず、口パクで俺に言葉を伝えてきた。
シンプルなその五文字は、なにを言っているのか容易に理解できた。
『ありがとう』
ふっと柔らかな笑みをこぼし、蓮見は月ノ瀬へと向き直る。
気持ちが届いたようでなによりだ。
強化合宿のときを思い出すその仕草に、俺は懐かしさを感じた。
「玲ちゃん、ありがとう。私も……同じ気持ちだよ」
「そうそう。アンタはそうやってほわほわしてるほうが素敵よ」
「ほ、ほわほわって……私そんな感じ……!?」
「そんな感じだぞ」
「青葉くんまで……!?」
張りつめていた雰囲気が柔らかくなる。
これは間違いなく月ノ瀬の功績だろう。
蓮見は「もう……」と頬を膨らませて、不満げな表情を浮かべた。
月ノ瀬の言う通り、お前はそういう顔をしてるほうが似合ってるよ。
「青葉くん」
「んぁ?」
「私も……私なりに朝陽くんを支えたい。そばにいたい。この想いは私の『本物』だから。否定はしちゃいけない……そうだよね?」
――お前だけの『本物』を否定するな。
それは、俺が蓮見に伝えたことの一つ。
これはもう……大丈夫そうだな。
「……ああ、そうだな。お前たちの気持ちはしっかり聞かせてもらったぜ」
俺の心配をよそに、二人は確固たる想いを抱いていた。
いや、本当は心配なんてしていなかったのかもしれない。
コイツらならきっと――そう、答えてくれる。
そんな期待をしていたのかもしれない。
ならば、もう。
ここで俺のやるべきことは――
「青葉、アンタも入ってるからね」
俺の思考を遮る月ノ瀬の声。
「は? いきなりなんの話してんだよ」
「他人事みたいな顔をするのやめてくれる? 私の居場所はみんなが作ってくれた。そのみんなには──」
みんな、には。
気が付けば月ノ瀬だけではなく、蓮見と渚も俺を見ていた。
俺の先にいる朝陽司ではない。
青葉昴という一人の人間を……見ていた。
「青葉、アンタも入ってるのよ」
「……今は俺の話はしてねぇだろ」
目を逸らす俺に、月ノ瀬は話を続ける。
「アンタの話でもあるのよ。司と同じようにアンタもきっと……なにかを抱えているのよね?」
「……」
「言いたくないなら、なにも言わなくていいわ。でもね……これだけは覚えておきなさい」
月ノ瀬の目は俺を逃がさない。
目を逸らし、同じ場所に立とうとしない俺という標的を……狙いすましていた。
「晴香も、留衣も、志乃も、日向も、司も……そして、アンタも」
それは、いつかの誰かさんのように。
俺の事情などお構いなしで、ただ言いたいことをぶつけるように。
ただ、自分がそう思っているから。
『勝手に』思っているから。
身勝手で、わがままで、どうしようもない――エゴ。
「みんな──私の大切な『友達』なのよ」
「玲ちゃん……! 今、友達って……!」
驚いた。
まさか月ノ瀬からその言葉が出てくるなんて──
裏切られ、他人を信用しなくなった月ノ瀬が。
友達という存在を求めなかった月ノ瀬が。
──初めて、俺たちのことを本当の意味で友達だと言ったんだ。
蓮見が心底ビックリしているのも頷ける。
そして、月ノ瀬玲は。
悩みなど吹き飛ばすような──美しく、元気に笑った。
「分かったかしら? ──昴?」
一瞬、誰のことか分からなかった。
聞き馴染みのある声からの、聞き馴染みのない名前。
理解するのに数秒ほど、時間がかかってしまった。
「ホント、面倒なヤツなんだから。でも、やっとアンタの内側を少しだけ見られた気がしたわ」
……。
…………。
「いきなり名前呼びしやがって。なんなの? 俺のこと好きなの?」
「ええ、そうね」
「え」
「司の次くらいには好きよ?」
「……ずいぶん差がありそうな順位だなオイ」
ったく、大胆なメインヒロイン様だことで……。
急に下の名前で呼ぶなよ。
美少女に名前呼びされるとか好きになっちゃうでしょ。
俺の反応が面白いのか、月ノ瀬は「ふふ」と笑みをこぼしていた。
「それと私、ちょっと前に言われたことがあるのよね」
「キャー月ノ瀬さん綺麗〜ってか?」
「それはもういつものことよ」
ぐっ! この美少女が!
本当のことだからなにも言えねぇだろうが!
「玲ちゃん、なんて言われたの?」
蓮見の問いかけに、月ノ瀬は俺を見てニヤりとする。
……イヤな予感がしてきたんだけど?
月ノ瀬は喉の調子を整えるように咳払いをすると、まるで誰かの真似のように低い声を出した。
「『俺たちはお前に対してなにも悪い気持ちは抱いてないってこった。案外いいもんだぞ? お友達ってのはな』――ってね」
どこかで聞いたことがある、その言葉。
あまりにも心当たりがありすぎる、その言葉。
約二ヶ月前に、なんちゃってお嬢様だったとある女子にそんなことを言った男がいたような気がする。
気がするなぁ。
蓮見と渚はすぐにピンときたのか、『あー』となにかを思い出すような表情を浮かべて、ゆっくりとこちらに視線を向けた。
「いいものね? お友達って」
「……あの、もう許してくれません? なんすか? 土下座すればいいんすか? 俺得意っすよ?」
「青葉くんが逆ギレだ……! 得意とか言っちゃってる……!」
「とりあえず、昴」
あ、もう名前呼びで定着してるのね。
「司のことを話してくれてありがとう。私たちを……信じてくれてありがとう」
「それは私もだよ、青葉くん。本当にありがとう」
美少女二人からの『ありがとう』。
どうしても素直に受け取ることができなかった。
その言葉だけは、嫌な記憶を呼び起こすから。
でもコイツらの『ありがとう』は……俺を蝕むあの声とは違う。
優しさだけを帯びた……『ありがとう』だった。
せめて……目を逸らさないように。
俺はそれだけで精一杯だった。
「私からはそんな感じよ。なにかあったら頼りなさい、友達なんだから。──ね? 留衣?」
「えっ」
ここまでずっと黙っていた渚に槍が飛んでいく。
まさか自分に振られるとは思っていなかったのか、分かりやすく動揺していた。
俺自身、どうして渚に振ったのかはあまりよく分からないけども。
「え、あの、なんでそこでわたし……?」
自分を指差し、渚は首をかしげる。
それに対し、月ノ瀬も同じように「え?」と首をかしげた。
「なに言ってるのよ。昴のことに関しては……アンタの分野でしょ?」
「ち、違うけど。なにその恐ろしすぎる分野」
「おいこらなにが恐ろしいだ。むしろハッピーな分野だろるいるい」
「るいるい言うな」
「うす」
こわ。
ちょっと口を開けたと思ったらこれだ。
月ノ瀬からの期待するような眼差しにたじたじになりながらも、渚はやれやれとため息をついた。
渚が司の話を聞いてどう思ったのかは分からないが、月ノ瀬たちとあまり変わらないだろう。
コイツなりに処理をして、なんとか頭の中に入れたのだと思う。
話を聞きながら複雑な表情をしていたし。
「分野とか、そういうつもりは一切ないけど……」
渚は気だるげ……ではなく、真っ直ぐに俺を見つめた。
「──よかったじゃん。青葉」
渚らしい、短い言葉。
コイツに関しては、こういった素っ気ない言い方のほうが最早安心してしまう。
僅かに口角が上がった顔で、渚は続けて俺に言った。
「それと……わたしも、ありがとう。話を聞かせてくれて」
「……へいへい」
「あのあんたが朝陽君の話をしてくれるということが、どれだけ大切で覚悟がいることなのかは……なんとなくだけど、分かるから」
「……それはなによりだぜ」
「だからこそ。月ノ瀬さんが言ったこと──忘れないで」
んなこと言われたって、忘れられねぇっての。
お前も、お前たちも……本当に物好きな連中だ。
俺のことなど放っておいて、司だけを見ればいいのに。
それができるような連中じゃねぇってことくらい、流石に理解している。
「わーったよ」
「それにね、青葉」
適当な返事をした俺に、渚は言葉を続ける。
「朝陽君は、あんたの思ってる以上に……あんたを大切に思ってるよ」
司が……俺を……。
「あー、それはそうね。留衣の言う通りよ」
「うん、本当にそうだと思う。相手のことを大事に思ってるのは、青葉くんだけじゃないってこと」
「あんたが朝陽君の『親友』だって言うのなら、そこを分かってあげて」
「……そうかよ」
「適当……。ま、いいけど。わたしはそれだけ」
渚は素っ気なく言い残すと、ふいっと顔を逸らした。
そんな俺たちの短い会話を見て、月ノ瀬と蓮見が顔を見合わせてクスッと笑い合っている。
おいなんだその意味深なやり取りは。気になるからやめろ。
「でも……」
「どうした蓮見?」
「私たちが望んだこととはいえ、朝陽くんの事情を勝手に知っちゃってちょっと申し訳ないなって……」
「んなことお前らが気にすんなって。俺が勝手に話しただけだ」
「志乃たちと違って、私たちはまだ長い付き合いってわけじゃないものね」
そう思ってしまうのは分かっている。
他人の事情を勝手に話すことや、聞くことに対して抵抗感を覚えるのは至極当然のことだ。
これはあくまでも俺が勝手に判断して、勝手に話した。
話す、話さないの選択権は俺にあって……俺が自分の意思で選んだ。
常識だのなんだのは、俺にとってどうでもいい。
俺はただ、救われるべき人間のために。幸せになるべき人間のために。
必要な一手を打ったに過ぎない。
そして、その一手として……月ノ瀬たちを利用させてもらった。
これまでも、そしてこれからも……俺はただ、そのためだけに動き続ける。
『友達』だかなんだか知らないが――目的はなにも変わらない。
「いいんだよ。責任は全部俺にある。なにかあっても『青葉が悪い』って言っておけ」
「そ、そんなことできるわけないよ……!」
「司には俺から正直に話すさ。……どういう反応をするかは想像付くけどな」
――面倒なことは全部放り投げて、お前たちはお前たちにしかできないことをやってくれ。
適材適所ってやつだ。
さて、と。
コイツらの覚悟をこの目で見ることができた。
俺はただ……『その時』が来るまで見届けよう。
「ほんじゃ、そろそろ司の様子でも見に行ってくるわ」
志乃ちゃんと日向がいい感じに落ち着かせてくれてるでしょ。
そう言い、俺が立ち上がったとき――
ガラッと音とともに。
「おっ」
生徒会室の扉が開かれた。