第97話 種は芽吹き、星那沙夜は──
──青葉昴、お前はバカか?
どうして司をちゃんと見ていなかった?
普段のお前なら事前に阻止できたはずだろ?
お前の目の前にいる男を見てみろ。
目は見開かれ、呼吸は荒く、尋常じゃないほどの冷や汗を流している。
どこからどう見ても普通じゃないだろ?
誰のせいでああなっている?
お前は、なんのためにそこに立っている?
自分の役目を果たせない装置に意味なんて──
「昴さん!」
その声に、ハッと我に返った。
隣を見ると、志乃ちゃんが俺を心配そうに見ている。
俺は頭を左右に振り、素早く思考を切り替えた。
――そうだ、俺が取り乱してどうする。
俺が一番冷静でいないとダメだろ。
周囲に気付かれないように俺は小さく息を吐き、改めて現在の状況を纏めることにした。
「あ、朝陽くん……!?」
「司……アンタどうしたのよ……!」
様子がおかしい司を前にして、月ノ瀬と蓮見は少々冷静さを欠いている。
「あ、あぁ……だ、大丈夫だ……ごめんね……」
司は右手で頭を押さえながら、無理やり笑顔を繕う。
絶対大丈夫ではない――と誰もが思う、そんな笑顔だった。
現在の司は、椅子から勢いよく立ち上がり生徒会室の壁に背中を預けて立っている。
その足元には倒れた椅子が派手に転がっていた。
呼吸は荒く、冷や汗を流し、声は震え、顔は真っ青。
それに、蓮見たちと目を合わせないように視線を下に向けていた。
普通ではない状態であることは明らかだった。
『そうなった』原因はきっと――
蓮見が手に持っていたペン先が、司の腕に軽く刺さったこと。
軽く――だ。
決して深く刺さったとか、血が出たとか……そういうレベルではない。
本当に軽く――なのだ。
普通であれば一切気にならないその感触が……。
司のトリガーを引いてしまった。
「大丈夫って……アンタそんな顔で言われても……」
不安そうな月ノ瀬が、司に近付くために一歩前に踏み出す。
その瞬間――司が顔をしかめた。
「悪い月ノ瀬、今はそれ以上司に近付くな」
「え……?」
俺は月ノ瀬の行動を制す。
今の司に、近付けさせるわけにはいかない。
「青葉……あんた……」
渚がこちらを見ているが、そんなことどうでもいい。
司をなんとか落ち着かせるのが最優先だ。
「志乃ちゃん」
名前を呼ぶと、志乃ちゃんは俺が言いたいことを察したかのようにこくりと頷いた。
そして司のところまで歩み寄ると、優しくその肩に触れる。
月ノ瀬のときとは違い、司は特に反応を見せない。
「兄さん、大丈夫。ゆっくり深呼吸して?」
「あ、あぁ……」
志乃ちゃんの穏やかな声に合わせて、司は少しずつ呼吸を整え始めた。
なにも事情を知らないメンバーは……目の前でなにが起きているのか理解が追い付かないだろう。
いつも通りだった司の様子が、突然一変したのだから。
「司、とりあえずお前は外の空気吸ってこい」
「昴……俺は大丈夫――」
「大丈夫じゃねぇよ。志乃ちゃん、お願いしていい?」
「うん」
志乃ちゃんも内心穏やかではないのか、俺に対する敬語が外れていた。
「日向」
「え、あ、はい!」
どうすればいいか悩んでいる日向に声をかける。
「お前も付き添ってやれ。頼めるか?」
「も、もちろんです! つ、司先輩大丈夫です! あたしが付いてますからね……!」
日向は一切ふざけることなく真剣な表情で頷き、素早く司に寄り添った。
朝陽志乃は、四年前の時点で自分の母親から司の話を聞かされている。
川咲日向は、中学時代に『似たようなこと』があったときにその場に居合わせていたことで、ある程度の事情を理解している。
付き合いの長いこの二人なら……司もそこまで反応を見せないはずだ。
司に触れたまま、志乃ちゃんは一度俺に顔を向ける。
その視線に対して、俺はなにも言わず……ただ頷いた。
――司を頼んだぜ。
その気持ちが伝わったのか、志乃ちゃんも俺に頷き返す。
よし、司のことは一旦志乃ちゃんたちに任せよう。
この子たちなら平気だろうから。
「兄さん、行こ?」
「ごめんな二人とも……」
「謝らないでくださいよー! 困ったときはお互い様ってやつです!」
二人に連れられ、司はゆっくりと生徒会室から出ていく。
俺たちはただ、黙ってその背中を見送ることしかできなかった。
パタン――と、部屋の扉が閉まる。
室内の空気は……文字通り凍りついていた。
戸惑う月ノ瀬。
自分がなにかしてしまったのでは、と焦る蓮見。
訳が分からず黙ることしかできない渚。
そして――
「……は?」
思わず漏れてしまった声。
俺は会長さんの様子を確認した瞬間――思わず固まってしまった。
なぜならば。
「――フフ……!」
笑っていたのだ。
口元を隠すように手で覆っているが――
確実に……笑っていた。
その真紅の瞳は『悦び』と『悲しみ』が複雑に絡み合ったような……禍々しい光を放っている。
どうして笑っている?
どうしてそんな表情をしている?
あんたのお気に入りの後輩が、目の前であんな風になってたんだぞ?
腹が立ち、拳に力が入る。
今すぐその表情の意味を問い質したい衝動に駆られるが……寸でのところで堪えた。
一度視線を落とし、次に会長さんを見たとき、その表情がいつも通りのものへ戻っていたからだ。
まるで、笑っていたこと自体が錯覚だったかのように――
俺の見間違いだったのか?
いや……そんなことはない、と思う。
「……少し、やり過ぎてしまったかもしれないな」
会長さんは申し訳なさそうに呟くと、自分の席に戻って行く。
この人は司の事情を知らないはずだ。
司がどうして『ああ』なったのか……理解できていないはずだ。
なのにどうして……そんな平常心でいられる?
――いや、今はこの空気をなんとかしなければ。
こういうときのために俺がいるんだろ。
「あー……蓮見、月ノ瀬、あと渚も」
三人は不安そうに俺のほうを向く。
「んな顔するなって。お前たちはなにも悪くねぇよ。気にすんな」
「悪くないって……で、でも青葉くん……!」
「おいおい……蓮見、お前泣きそうな顔してんじゃねぇか」
今にも泣き出しそうな蓮見の表情に、俺は苦笑いを浮かべた。
蓮見がどう思っているかなんて当然分かるし、その気持ちも痛いほど分かる。
俺は首を振って否定し、蓮見を落ち着かせようと改めてゆっくりと話を続けた。
「いいか蓮見、お前は悪くない。誰が悪いのかと聞かれれば……ま、俺だな」
「あんたが悪い? 青葉、それってどういう──」
渚の疑問を遮る。
「それでも罪悪感で胸がいっぱいなら、あとで個人的に謝っておけばいいさ」
心優しい蓮見が、ここであっさり首を縦に振るわけがない。
それでも本当に、蓮見のせいではないのだ。
たしかに司が取り乱したきっかけは、蓮見の行動だったかもしれない。
だからってコイツを非難できる理由はどこにもない。
知らなかったのだから。
理解していなかったのだから。
司が……そういう姿を表に出さなかったのだから。
俺も……なにも教えていなかったのだから。
蓮見晴香を責められる要素など、一切ない。
そうだ。お前たちは悪くない。
悪いのは全部──俺だ。
知っていながら、動けなかった……俺なんだ。
「――こんな状況で申し訳ないが」
席に戻り、ノート類を纏めていた会長さんが口を開いた。
「私は生徒会の仕事で職員室に行かなければならない。少し席を外す」
「あー……ずっと作業してたのってそれっすか?」
「ああ、そういうことだ。……私も、司にあとで謝らなければ」
会長さんが歩き出すと同時に、テーブルの上からヒラヒラとなにかが舞い落ちる。
吸い寄せられるように……俺は『ソレ』に視線を向けた。
薄いプラスチックの……これは、栞か?
中には一輪の花が挟まっているが……年数が経っていて枯れているのか、黄色に変色していた。
もともと黄色の花だったのかもしれないが……俺には分からない。
これはいわゆる……『押し花の栞』というものだろうか。
何気なく、俺は栞を拾い上げようと床に手を伸ばした――
「――それに触れるな」
その冷たい声に、ピタッと思わず手を止める。
声の主……会長さんはすぐにハッとして「すまない」と咳払いをした。
穏やかな会長さんらしくない、拒絶するような言い方に俺は疑問を抱く。
「それは私にとって一番の宝物でな。ついキツい言い方をしてしまった」
「あ、いえ……むしろ俺が無神経だったっす」
会長さんの一番の宝物。
それが――この枯れた押し花の栞?
いや、宝物なんて人それぞれだ。
おかしいことなんてない。
会長さんは栞を拾い上げると、大事そうに汚れを手で払う。
「おっと。私は行かなくては……。その前に、晴香」
「は、はい……!」
「キミにも……すまなかった。少々度が過ぎてしまったようだ」
「星那先輩が謝るようなことじゃ……!」
謝罪をする会長さんの顔は、嘘をついているようには見えない。
本当に申し訳なさそうに、眉をひそめていた。
──とはいえ、あくまで表面上の話に過ぎない。
内心ではどう思っているかなど、分かるはずもない。
会長さんは最後に「ありがとう」と、言い残して再び歩き出した。
そして、俺の前を通り過ぎる寸前――
「……」
意味深な視線を……こちらに向けてきた。
そのままなにも言わずに、生徒会室から出て行く。
――待てよ?
俺は改めて、星那紗夜の今日の言動を振り返る。
あの人はこの数日間、司にベッタリだったのに……今日はその素振りを全然見せることはなかった。
しかし、突然その『スイッチ』が入ったと思ったらボディタッチをし始めた。
――周囲に見せつけるように。
会長さんは鈍感な人じゃない。
この数日間、月ノ瀬たちからモヤモヤした感情を向けられていることは把握していたはずだ。
把握しているうえで……司にずっと構っていた。
――まるで、挑発するかのように。
『私はこんなにアピールしているが、キミたちはどうだ?』――と言わんばかりに。
仮に。
仮に――だ。
今日、ここに至るまですべて星那沙夜の計画通りだったのだとしたら。
あの人がさっき『笑っていた』ことも、それで説明が付くのではないか?
しかし、どうして?
なぜ、そんなことをする必要がある?
それに……だ。
蓮見に最後に言い残した『ありがとう』は、なにに対してのお礼なんだ?
自分を責めなかったことに対してなのか?
それとも、まったく別のことに対して『ありがとう』と言っていたとしたら──
解を得られない疑念だけが、俺の頭の中で渦巻く。
「……っ」
くそ――!
気が付くと俺は、感情のままに生徒会室から飛び出していた――
「青葉……!」
背中越しに聞こえてくる声に……耳を貸さずに。
× × ×
「待てよ!」
スタスタと歩くその背中を呼び止める。
『後ろ』から声をかけられたからか、会長さんはビクッと肩を震わせた。
あんたの事情は少しだけ知っているが……そんなこと、今はどうでもいい。
数秒ほど時間を空け、会長さんは長い髪を靡かせてこちらを振り向く。
「おや、どうした?」
白々しい、その余裕綽々な表情。
俺がどうして追ってきたのか分かってるんだろ?
ギリッと歯を噛みしめて、俺は会長さんを正面から見据える。
「……どこまでだ?」
「む?」
「どこまでが……あんたの狙い通りだったんだよ」
「ほう……」
興味深そうに会長さんは目を細め、フッと笑みを浮かべる。
それはゾクッとしてしまうような――不気味な笑みだった。
そして。
星那沙夜は。
「昴」
言い放った。
「――保険を用意して正解だったな」