第88.5話 渚留衣は青葉家に訪れる【前編】
「はい! 息子くんは着替えてちゃんと寝る! 大丈夫? ママの子守唄いる?」
「いらん。耳溶ける」
「溶ける???」
あ、なんかデジャヴ。
「……心配かけて申し訳なかった……とは思ってる」
「すすす、昴が素直になっちゃった……! これは花ちゃん特製お粥を作らね──」
「それだけはやめて!? ったく……とりあえずワシはもう寝るぞい! ……あ、その前に渚」
「え、あ、なに?」
「……なんだ。まぁ……お前にも悪いことしたな。母さんに付き合わなくていいから、さっさと帰っていいぞ」
「え……う、うん……?」
青葉は目を逸らしながらそう言うと、リビングから続く自室……と思わしき部屋へと入って行く。
わたしはその光景を少し離れた場所から見ていた。
「……」
バタ、と音を立てて引き戸が閉まる。
いろいろ突っ込みたいことはあるけど……。
今のわたしの頭の中は、一つの言葉で埋め尽くされていた。
それは、すごくシンプルで……。
――どうしてこうなった?
えっと……うん、とりあえず状況を整理しよう。
正直わたしも全然ついていけてないけど。
まず、わたしは青葉がちゃんと帰るのを見届けるために生徒会長さんの車から降りて……。
で、そしたらゴミ袋を持った上機嫌な綺麗な女の人と出会って。
その人が青葉を『息子くん――』とか言ってて。
なんか……すごいハイテンションだったけど、青葉が体調不良だって言ったら様子が変わって。
……そして。
なぜかわたしも青葉家に招待されて――
…………。
え、なにこの状況。
ダメだ全然ついていけない。
整理しても無理なんだけど……!
と、とにかく理解できることは……わたしが今、青葉家にお邪魔しているということ。
アパートの外観からは古い印象を感じたけど、実際中に入ってみるとそうでもない。
わたしが通されたリビングには、ほどよく物が散乱していて……それはそれで生活感を感じる。
女性ものの洋服や小物が多く見受けられるあたり、アイツの私物ではないのだろう。
「よっし! 息子くんの様子はあとでしっかり見るとして――」
大きな声が耳に入ったことで思考の迷路から解き放たれる。
青葉の部屋の前に立っていた女の人が、クルっとこちらへ振り向いた。
黒いスウェット姿の大人の女性。
髪はボサボサで、オフ感が凄まじい。
こう言ってしまっては失礼かもしれないけど……。
なんというか……うん、親近感が凄い。
休日のわたしも……多分、他人から見たらあんな感じだろうし……。
「んーと?」
女の人はわたしの頭からつま先まで……ジーッと見つめる。
その視線に、思わず私は目を逸らしてしまった。
そんなわたしの仕草を見て、女の人は慌てて「あ、ごめんね!」と謝る。
「昴が誰かを連れてくるのが珍しくて。それも女の子だから余計にビックリしちゃった」
「そ、そうなんですか……?」
「うんうん。それこそ遊びに来るのは司くんだったり、志乃ちゃんだったり、あとは日向ちゃん……それくらいかな? その子たちのことは分かる?」
「は、はい……。三人とも知ってます……」
意外な名前が一つ。
いや、別に意外ではないのかな……?
朝陽君や志乃さんはともかく、川咲さんも来たことがあるんだ。
もしかしたら、朝陽君たちについて来ただけかもしれないけど。
ということは……面子的に中学組ということだろうか。
――え、ちょっと待って。
そうなると、それ以外でここに来たことがあるのって……。
………ひょっとしてわたし、だけ?
「あ、そういえば自己紹介がまだだったね」
女の人はそう言うと、長くて綺麗な藍色の髪を手櫛で整える。
スウェットの埃を払い、改めてこちらを見た。
アイツと同じ……深い青色の瞳には、緊張しているわたしの顔が映っていた。
「私は昴の――」
真剣な表情で自己紹介を――
「姉です☆」
「いやお母さんですよね?」
あ、ヤバ。
これ三回目だから、思わずツッコミを入れてしまった。
真剣どころか、てへっと笑うその顔からはどこぞのムカつく男の面影を感じた。
そしてわたしは……思った。
――『ごめん☆』
うん。これ親子だね。
間違いなく親子だ。
だって同じ顔してるし。
「お、お義母さんだなんて……っ! そ、そんな……! まだそう呼ばれるのは早いっていうか……!」
ほら。
もう完全にアイツの母親じゃん。
しっかり受け継いでるじゃん。
あと『お母さん』のニュアンス、ちょっとおかしかったよね?
恥ずかしそうに両手で顔を覆い、身体をくねくねとさせる青葉のお母さん。
あまりに濃すぎるキャラを前にして、わたしはどう言葉を返せばいいのか分からなかった。
「あ、あの……」
「ハッ……! いけないいけない……!」
わたしの戸惑いが伝わったのか、青葉のお母さんはコホンと咳払いをして表情を切り替えた。
「私は青葉花。昴の母です。いつも昴がお世話になってます」
先ほどとは打って変わり、穏やかな表情で言うとぺこりと頭を下げた。
「ぅぇっ……あ、その……! 頭を上げてください……!」
「じゃあ上げちゃう!!」
「テ、テンションの差がえぐい……」
頭を上げると、その顔はまたニコニコと楽しそうに笑っていた。
なんだろう……この。
青葉昴レベル百みたいな感じ。
……っと。危ない。
完全に青葉のお母さん……花さんのペースに呑まれていた。
わたしも自己紹介しないとダメだよね。
……き、緊張する。
コミュ障舐めないで……!?
わたしはできるだけ自然体で話すように心掛け、再び口を開いた。
「わ、わたしは……えっと、な、渚留衣です。青葉……君とはその、去年からずっとクラスメイトで……あの……」
――はい。
自然体とかなにそれ? って感じでした。
我ながらコミュニケーション能力の低さに呆れてしまう。
わたし自身は至って真面目なのだ。
真面目に自己紹介をしようとしているのだ。
だけど……状況や、相手が……非常によろしくない。
初対面の大人の女性ということに加えて……。
クラスメイトの……それも男子の母親なのだ。
緊張するな……というほうが無理ある、とわたしは思う……!
というか誰だって緊張すると思う……!
「おー……!」
グダグダなわたしの自己紹介を、花さんは笑顔で聞いていた。
決して作り笑いや愛想笑いではなくて。
本当に楽しいんだなって伝わってくる……そんな笑顔だった。
そもそも、この人はいったい何歳くらいなんだろう?
姉……というのは、もちろん冗談で言っていたんだろうけど……。
姉でも通用するんじゃないの……?
「じゃー……彼女ちゃん改め、るいるいちゃんだ!」
「え」
距離の詰め方が上級者過ぎる件について。
「よろしく頼むぜー! るいるいちゃん!」
「あ、あのー……!」
「んぇ?」
呆けた返事もアイツらしい――じゃなくて!
るいるいちゃん……は今はいいや。
ああもう……! 処理が追い付かない……!
けど、とりあえず……!
絶対に否定しないといけないことが一個ある。
「わ、わたしはその……か、彼女じゃないです……!」
「…………マジ?」
花さんは目をパチパチとさせ、わたしに問いかける。
これだけは絶対に否定しなければ。
わたしの今後に多大な影響が出てしまう。
問いかけに対してわたしは「マ、マジです」と頷いた。
「え、彼女じゃないのに……ここまで昴を送ってきてくれたの?」
「そ、それはたしかにそうなっちゃいますけど……で、でも……! ホントはもう一人いたっていうか……車で送ってもらったというか……えっと……」
「むむむむ……」
花さんは複雑そうに眉をひそめた。
「とりあえず、るいるいちゃんの話を聞かせてよ! 昴になにがあったの?」
「えっと……」
「ふふ、ゆっくりで大丈夫だぜ~」
ニカッと笑う花さんの顔は、やっぱりすごく若々しくて。
美容ケア的なアレコレとか……ちゃんとしてるのかな。
そのあたりは晴香の専門分野だから全然詳しくないけど……。
――ひとまずわたしは、今日のことを可能な範囲で話すことにした。
たまたま青葉と、もう一人……生徒会長さんと顔を合わせたこと。
途中で青葉が体調を崩していることに気が付いて、アパートの前まで車で送ってもらったこと。
念のため、部屋の前まで送ろうと思っていた矢先……花さんとバッタリ出会ってしまったこと。
コミュ障が炸裂して、たどたどしくも必死に話すわたしの姿を――
花さんは終始、微笑ましそうに見ていた。