お喋りと靴
ぐずぐずに巻いた包帯を隠すために、膝下までの長くて黒い靴下を引き出しからひっぱり出した。それを履いたら、裾の長い紺のワイドパンツ。上は、白いノーカラーのブラウスと迷って、グレイのカットソーを着た。白は後ろめたさに息苦しくなりそうだったから。家を出るギリギリまで、ニュースを見ていた。料理研究家がトマトソースのパスタを作っている。飼い主の腕に抱きつく猫。今日の運勢。ザッピングをする指は冷たく、心臓は熱い。いつも家を出る時刻がテレビの左上に見えて電源を切ると、部屋は途切れた静けさに満ちる。立ち上がり、アパートの部屋を出る。履き潰したはずのスニーカーは、ぱんぱんで歩きづらかった。
「清水さん、おはよう。もう風邪大丈夫?」
月曜日を休み、三日ぶりの出社だった。隣のデスクの山内さんが声をかけてくれた。
「もう大丈夫です。ご迷惑をおかけしました」
「病気ならしょうがないわよ」
無理しないでね。山内さんはそう続けてくれたようだったが、うまく聞こえなかった。外の工事の音に、山内さんの声が半分くらい消されてしまった。コンクリートを重機で砕くような音。それが止まったかと思うと、オウラーイ!オウラーイ!と野太く叫ぶ声。
「再開発に終わりってくるのかしら」
山内さんは発展途中を茶化す。山内さんの前から、こぼれた笑いが聞こえた。嘱託の松さんだ。老眼鏡を繋ぐ、銀のチェーンが揺れる。
「もう、ここら辺りは昔と様変わりしたねぇ」
「そうですよねぇ。あたしなんかもう、新しいこと覚えるの苦手だから、工事が終わったら会社来るのに迷子になっちゃうかも」
真面目な顔で山内さんはおどけた。
「しぶとく残ってるのは表通りのドラッグストアぐらいじゃないかな」
松さんはしみじみしながら、指サックをはめて伝票の枚数を頷きながら数える。わたしは席に座りながら、モニター横のキャンディの袋を取った。ドラッグストアでいつも買っているヨーグルト味のキャンディだ。残り、一粒。ちょうどいい。忘れないうちに口に放り込むと、空になった袋をゴミ箱に捨てた。
歩くと足がじんじんと痛い。会社を出てすぐに、タクシーに乗ろうと橙に灯る街灯の下で立ち止まる。
「すみません」
声に振り返る。がっしりした、大きな男が立っていた。人差し指と親指で耳を引きちぎられそうな、強そうな知らない男。恐れていると、男は腕を私に見せた。手首には私の知っている腕時計があった。文字盤がなくて、動く歯車が透けている藤美さんのお気に入りの腕時計。
「藤美という男を知っていますよね」
金曜日にわたしが殺した男。
「警察の人ですか?」
小さい声で聞いた。表通りで通行人は多い。男の背中すれすれに、学ランを着た少年達が文化祭の話をしながら通り過ぎていく。男は穏やかな顔を振った。
「俺はそういう人を避けて暮らしています。すぐ近くに、融通の効く喫茶店があるんです。少し、お喋りをしましょう。靴、失くしたままでしょう?」
足を隠すように一歩下がるが、そんなことでは隠しきれない。もう履けないどこかへ消えた靴を思い返した。
男は津田と名乗った。表通りから二本裏に入った通り。潰れたラーメン屋の看板が白くはげている。その隣に喫茶店はあった。外壁はレンガで、曇りガラスから漏れた明かり が、前を歩く津田さんを照らし、夜道に浮かばせる。月日を穏やかに吸いこだようなダークブラウンの木の扉を津田さんは開けた。
「ありゃあ。これはこれは珍客が来なさった」
しわがれた、のびやかな声。透けそうなほどの真っ白な髪。マスターの年齢は松さんよりずっと上に見えた。
「店をしまうと聞きまして。二人いいですか?」
「それは、わざわざ。ありがとう、よく来てくれた。お好きなとこへ」
マスターはカウンターの向こうへ行く。
「清水さんはホットでいいですか?」
コーヒーは苦手だった。けれど、今ここでわたし達にとってそれは重要なことではなく、頷いた。津田さんはアメリカンを二つと頼んで、窓際の奥の席に座った。壁際のソファをわたしに残してくれた。背もたれが壁に薄くはりついたアイビーの葉の色のソファ。想像の古いにおいがするそれは、浅いやわらかさの座り心地だった。ドアと同じ色のテーブルの中央に銀のポットが置いてある。スプーンのシッポが出ているから、砂糖だ。壁は外と同じレンガだった。テーブルの色が薄くなったふちをなでて、曇りガラスにぼやける動かない外の夜を眺める。
「この店は亡くなった祖父が常連だったんです。小さいころによく来ました」
津田さんが昔話をはじめたから、しょうがなく見えない外を見るのはやめて、テーブルのふちを見つめた。
「俺は祖父を愛してやみませんでした」
メロディが鳴る。短いメロディが繰り返し流れる。津田さんはズボンのポケットからスマホを出すと、電話を切った。マスターがお冷とコーヒーを運んで来た。
「お待ちどうさん」
チューリップ模様のコーヒーカップ。三年ぐらい前に、プレゼントでいとこにあげたお皿と同じブランド名が金色に小さく光っている。津田さんがコーヒー代にしては多すぎるお札をマスターに差し出す。
「三十分ほど、店番をさせて欲しい」
マスターはにこやかに頷くと、お札を受け取った。そしてそのまま店を出た。鍵が閉まる音がする。曇りガラスの横を過ぎていく、ぼやけた姿のマスターを見送る。融通の幅が想像よりも豊かだった。
「あなたは藤美を殺してはいません」
瞳だけで津田さんを見返した。つま先をぎゅっと固くする。しっかりと痛い。
「あの後、まだ藤美は動いていたんです。落ちたぐらいでは、あの男は死なない。死ぬまで、頭に石を叩きつけたのは、俺です」
無言を貫き通すしかわたしにはできなかった。
「藤美は俺が殺そうとしていた男です。だから、清水さんには、金曜の夜のことを忘れて欲しいんです。でも、忘れるのは無理でしょう。藤美のことは脳のどこかの箱に閉じ込めて置いてください」
津田さんはコーヒーを飲んだ。沈黙の中に、カップとソーサーがカチャ、カチャリと音こぼす。
「藤美は、はじめて会ったときからおかしな男でした。最初に見た藤美は、からだも、顔も血まみれで。大丈夫か、と俺が叫ぶとあの男、笑って自己紹介してきたんです。俺は藤美だって。心配したのが無性に恥ずかしくって悔しくて、こっちも意地になって俺は津田だって返したら、愉快そうに笑ってました」
わたしが藤美さんとはじめて会ったのは、昼休みのドラッグストアの前だった。わたしがキャンディを買って店を出ると、藤美さんに声をかけられた。彼の手に私の財布があった。慌ててお礼を言った。藤美さんは、柔らかくほほえんで「いいえ」と返してくれた。なんとなく、小学生のころ、友達が飼っていた白いゴールデンレトリバーを思い出した。大きくて、柔らかくて、穏やかで、賢くて、甘え上手な犬。
「藤美と俺は同じ日陰の人間です。でも藤美は、花がある明るい男でした。お喋りが好きで、人を脅かすのも好きだった。ビックリ箱を持って、真夜中に来た事がありました。眠気まなこで渡されるがまま、箱を開けると、人形が出てきて言うんです」
おはよう!ビックリしたぁ? と津田さんは裏声を出した。
「同時に頭がおかしくなりそうな単調な音楽が大音量で繰り返し鳴り続けて、隣人に怒鳴られました。ふたりで真夜中に、何度も謝って。それでも、あのときは楽しかった」
津田さんは思い出話に笑みは添えなかった。
「だから、友人になってしまった」
二度目にわたしが藤美さんに会ったのも、ドラッグストアの前だった。藤美さんは、スーツが汚れるのも構わず、地べたをはいずるような格好で植え込みを覗き込み、枝葉をガサガサしていた。通行人に横目で見られている藤美さんに、わたしは自然と声をかけられた。藤美さんはわたしを覚えていた。聞けば、大切な腕時計を落としたと教えてくれた。どんなものですか、とさらに聞けば、藤美さんは喜んで説明してくれた。文字盤がなくて、動く歯車が透けている腕時計だと。
「この腕時計は、俺の祖父のものです」
津田さんは腕時計をはめた左腕をわたしの方に伸ばして、見せてくれた。わたしは驚いた。
「若いころ、ガラクタだらけの骨董屋で一目惚れして買ったそうです。特別いいものではなくて、愛着です」
腕時計が、藤美さんのものだと信じていた昼休み、雨どいの下でわたしはそれを見つけた。藤美さんはくしゃくしゃに笑って嬉しそうにしてくれた。愛着があるものなんです。藤美さんはそう言った。そしてお礼に、ランチにと誘ってくれた。わたしは照れながらも頷いた。新しい特別に胸が躍った。
「祖父に藤美を会わせてしまったのは、偶然でした。音信不通になっていた俺を見つけたんです。両親のせいもあり、子どものころから、祖父をずっと金で困らせていました。これ以上の罪悪感に耐えられなくなったとき、俺は祖父の家から置き手紙ひとつで出て行きました」
コーヒーの香り。ここでやっと、わたしの鼻は効いてきたようだった。この喫茶店に入ってから、コーヒーに香りがあることを忘れていたように思う。
「俺たちは、人に知られてはいけない仕事をしています。なので、藤美がいなくなっても、なんにもなりません」
そんなわけはない。
「本当ですよ」
津田さんは言った。わたしは、不信をごまかしきれていなかったようだった。気まずさで、また窓の外を見る。裏通りにあるせいか、店の前には人が通らない。ここは音楽の流れていない喫茶店だった。静寂の一歩手前の空間。
「祖父が、俺の住処を訪ねて来たとき、俺の顔を見た祖父がくたくたの帽子をはぐように手に取り、握りしめました。俺は驚いて、とにかく言葉が出なかった。祖父の顔も見れず、祖父の足元の擦り切れて穴が空きそうな、ボストンバッグを時間が止まったように眺めていたのを今でも鮮明に覚えています」
静寂を怖がっている自分がいる。津田さんが喋り続けてくれるのが助かる。そのお陰でわたしはまだ平常心が保っていられている。コーヒーのにおいを確かめる。
「祖父は、小柄で。その小さなからだで、俺を抱きしめました。何も言わずに。幼いころ、寂しさを抑え込んでいた俺を甘えさせてくれるように時々、祖父は抱きしめてくれました。それと同じように。すると、俺の背後から藤美が言ったんです。素敵な時計ですね、と。偶然、うちにいたんです。俺は言いました。空気読めよ。藤美は笑いながら、ひとりじゃないのに静かなのはよくない、と言ってまた祖父の腕時計をしきりに褒めました」
ひとりで静かな所にいるのは嫌いだ。誰もいない空っぽの部屋も嫌い。夜は誰かと一緒にいたい。金曜日の夜のバーで、藤美さんはそう話した。藤美さんはノンアルコールのオレンジとマンゴーのカクテルをお喋りな喉を潤すためだけに飲んでいた。藤美さんの声は、よく跳ねるのに、唇はぺちゃくちゃ音をたてない。ドラッグストアの土地が呉服屋だった時代に、あの辺りに住んでいたことがある、最近久しぶりに戻って来たのだというのを物語を語るように話した。
「祖父は宝物だと、藤美に言いました。藤美は僕も宝箱を持っている。大きい宝箱、家ぐらい大きい。祖父はジョークだと思って笑っていました。けどあいつは本当に、持っているんです。家ぐらいの大きな宝箱を」
宝箱に入って欲しい。藤美さんは、車の中でわたしに言った。
「知っています」
私は言った。津田さんは私をじっと見た。
「あの男に中身はありません。不安も後悔もない。だから本能にためらいがない。藤美は何度も何度も祖父に腕時計をねだりました。祖父は何度も断りました。俺に譲ってくれるつもりだったのです。子どものときに約束しましたから。俺はその約束の話を藤美に、半分怒って言いました。でもだめだった。あの男は祖父を殺しました。腕時計を奪うためだけに。祖父が藤美に敵うわけがない。必要もないのに、あいつは殺した。そして俺の前から姿を消しました」
津田さんはコーヒーカップをいつの間にか空っぽにしていた。そしてお冷も飲み干した。氷がからりと鳴る。
「だから、あの男を放って逃げたことに、清水さんが気を病む必要はありません。忘れたふりをしてこれから生きてください。あなたの靴は俺が処分します」
影が動いた。窓のそばをぼやけたマスターが通り過ぎる。
「コーヒーは飲んでやってください。悲しむ老人は見たくない」
津田さんが立ち上がり、背を向ける。
「あの、」
津田さんを呼び止める。
「こちらが好きでやったんです。全部こちらの都合です」
マスターが入って来た。話して、笑い合うふたり。津田さんは店を出た。来た道とは反対の方に去って行ったようで、わたしのそばを通らなかった。わたしは、湯気が消えたコーヒーを水のようにぐいっと飲んだ。苦い。素知らぬ顔で水をゴクゴク飲む。
「お口に合いましたか?」
私はコップを置いて、頷いた。
「はい。会社の近くなんで、また来ます」
「ははっ、嬉しいですが、残念。今月で店は閉めるんです。店もわたしもじいさんになり過ぎた。昼寝がしたくてね」
マスターは笑った。そういえば、津田さんとそんなことを話していた。
「この辺りじゃ、金メダルをもらってもいいぐらい古い店ですから」
「あの、表通りのドラッグストアよりも前からここをやっているんですか?」
「もちろん」
マスターは誇らしげだった。
「ドラッグストアになる前は、呉服屋さんだったんですよね」
マスターはコーヒーカップを片付ける手をとめて、私の顔をまじまじと見た。
「わたしにある限りの古い記憶では、あそこは文具屋でしたよ。呉服屋は江戸時代ぐらいの話じゃないですかねえ?」
今週の金曜の夜に会いませんか?
二度目のランチのあと、別れ際に藤美さんが照れ臭そうにわたしを誘ってくれた。わたしはとても行きたかった。でも、たぶん大丈夫です、と似合わないもったいぶった返事をした。
その日の帰り、私は百貨店に行って、一時間以上かけて靴を選んだ。少しだけヒールの高い、ピンクベージュの靴。優しいぐらいの光沢がある生地の靴。派手過ぎると、会社で目立つ。けれど、いつも通りじゃ嫌だった。
ひとりで静かな所にいるのは嫌いだ。誰もいない空っぽの部屋も嫌い。夜は誰かと一緒にいたい。そんな話の流れで、穴場の夜景が綺麗な高台に行くことになった。藤美さんは車に乗せてくれた。このためにお酒は口にしなかったんですと言われて浮かれないわけがなかった。
藤美さんには教えなかったが、その高台には去年、いとこにドライブがてら連れて来てもらっていた。その時、いとこのカーナビが壊れていて、わたしがスマホを片手にナビをした。そのおかげで、道は覚えていた。それがよかった。藤美さんが運転する車はあまりにも見当違いな道を走っていた。わたしはスマホで、念のため道を確かめてから、藤美さんにこの道ではなさそう気がする、と伝えた。
そうですよ。
藤美さんはあっさり認めた。
清水さんに宝箱を見せたくて。
宝箱?と聞き返す。
僕は家ぐらい大きな宝箱を持ってるんです。
にこやかな藤美さんの横顔に、浮かれ過ぎていた後悔が足の底からぶわりと這い上がってきた。
清水さんには宝箱に入って欲しいなぁ。
わたしは笑ったと思う。ありきたりな冗談に返すような、おかしく聞こえるように精一杯、笑った。藤美さんはブレーキをかけた。目を光らせた狸が道を横切った。わたしは車の外に飛び出して、走ろうとしたが、こけた。すぐに起き上がる。
靴、脱げちゃいましたね。
わたしの横に、藤美さんが拾った靴を片手に立っていた。起き上がると、もう片方も脱げた。
あ、もうひとつ。
そう呟いた藤美さんは、また靴を拾った。わたしは来た道を逃げればよかったのだ。けれど頭の中はもみくちゃで、ガードレールまで走って立ち止まった。後ろを向く。藤美さんは靴の踵を左手の指に両方とも引っ掛けて、わたしに右手を伸ばす。私は咄嗟にしゃがみ込んで、頭を抱えた。叫び声は聞こえなかった。音は何もなかった。
顔を上げた時、藤美さんはいなかった。立ち上がり、怯えながら、ガードレールの向こうを覗いた。真っ暗なカサカサとした底。逃げてはダメだった。けれど、私は逃げた。ひたすら歩いて、夜明け前までには家に帰って来てしまった。痺れる足の裏の痛さを感じながら涙を流し、へたり込んだまま熱いシャワーを長い間浴びた。痛くて痛くて涙が止まらなかった。
表通りまで戻ると、タクシーを捕まえて帰った。アパートの階段を上がる。遠くでバイクが走る音が聞こえる。しんとするにはまだ早い夜。共同廊下を数歩、歩くと、わたしの部屋のドアノブに紙袋がかけてあるのが見えた。立ち止まる。背後を見る。人はいない。前を見る。紙袋から目を離さないまま、すり足で、自分の部屋に近づく。ドアの前に着く。手を伸ばす。紐に人差し指を引っ掛けて、ドアノブから紙袋を落とした。紙袋は倒れて、靴がはみ出た。藤美さんと一緒にガードレールの向こうに落ちた、わたしの靴。慌てて靴と紙袋を拾った。紙袋の中にもう片方ある。それに、クリップでメモが挟まれていた。はずして、メモを見た。電話番号とその下に一文書いてあった。
部屋に入る前に電話して。
迷った。けれどひどく恐ろしかった。無視をするにはわたしの心はやましい気持ちに満ちていた。手に持っていた靴を紙袋に戻すと、スマホを出す。ひとつ、ひとつ間違えないように番号を押す。通話を震えそうな指でタップした。ドアが開く。メロディが鳴っている。
「おはよう!ビックリしたぁ? 」
玄関に藤美さんがいた。喉が焼けたように熱くなって、声が出る前に消えた。中に引きずり込まれるとドアは閉まった。わたしは尻餅をついて、とにかく後ろに下がろうとした。どこからか短いメロディが繰り返し鳴っている。
「逃げないで」
藤美さんはわたしの右の足首を掴むと持ち上げ、起き上がる事も許してくれなかった。藤美さんは真っ暗にからだの輪郭をにじませて、沈んでいた。左手が光っている。メロディはそこから鳴っている。スマホだ。
「これね、津田のやつ」
藤美さんがタップすると、メロディは止まった。さらに、操作する。
「で、これが今の津田」
藤美さんはスマホの画面をわたしに見せた。胃の苦いコーヒーを吐き出しそうになった。でも胸でつっかえて、ただただ息苦しくなる。顔をそらし、口を押さえた。画面の津田さんは絶対に生きてはいなかった。
「ずうっと、うろちょろして来るから。ついでに隙を見せてあげただけ。本当についさっき、津田と会ったんだけど、ふふっ。驚いてた。人を驚かすのはやっぱり楽しいよね!清水さんもビックリしたでしょ?僕が落ちちゃって死んだと思ったでしょ?死なないよ、僕は不死身だから。不死身の藤美。津田が付けてくれた名前。偶然だけど」
藤美さんは嬉しそうにしているようだった。悲鳴の出し方が聞こえない。逃げ方が戻れない。
「勘違いしたら嫌だよ。ついでは、津田だよ。僕は本当に清水さんが好きなんだよ」
音が聞こえる。近くで。聞こえる。
「な、んなな、どど、な、わたっわたたしし、ななし、て、どーうどうっ」
「理由?」
わたしの飲み込みも吐き出しもできない理不尽の恐怖は、シンプルな一言にされた。
「僕はね、ヨーグルト味のキャンディを舐める人が好きなんだ」
教えられた理由に、頬の裏側がハリガネで刺されたように痺れた。
「そんなっ」
こと。そんなことで。
「好意なんてこっちの都合だよ」
視界が藤美さんの影に煙る。自分にからだがあることさえ、疑う。藤美さんの大きな手に、口を覆われる。腕時計の秒針が鳴っている。声が出ない。お喋りはおしまい。靴はドアの向こう。張り裂けきった恐怖は、冷たい空虚になる。わたしはこの男とここから消失する。そしたら部屋は、とても静かで、空っぽ。