正しい羽目の外し方
ふと、窓の外を見るとそれは見事な月夜だった。透き通った濃紺の夜空に、白くて5日分ほど欠けた月が輝いている。
明るい部屋の中から窓ガラス越しに見ているだけなんて、どことなく損している気分だ。散歩へ出よう。
読んでいた文庫本に栞を挟んで枕元に置き、クローゼットの中に吊るしていたカーディガンを羽織った。
机の上に散らばっていた家の鍵とモバイルを掴んでポケットに入れ、スニーカーを履いて部屋を出た。
なるべく静かに階段を降り、玄関のドアを開けて外へ出た。柔らかく冷たい風に髪を掬い上げられ、思わずため息が出る。心地いい。
特に理由はないが、駅前のドーナツ屋に向かってみることにした。この時間だから当然店は閉まっているだろうが、そのことは問題にはならない。とりあえず目的地が必要だ。遠すぎず近すぎず、馴染みの場所なら道のことなど考えずに月に集中できる気がした。
ドーナツ屋に向かって歩き始める。静かな街にスニーカーがアスファルトを蹴る小さな音が響いて、その非日常感に思わず頬が緩む。いけないことをしている気分だ。
慣れているはずの景色も夜というだけで違って見える。県道の両側に建つテラスハウスや喫茶店のカラフルな外壁は、街灯と月明かりで一様にオレンジ色だ。
黒とオレンジに染まったツートーンの街中から夜空を見上げると、大きな月が煌々と存在を主張している。その周りには、まばらに星が瞬いている。今夜ばかりはここが田舎でないことが惜しい。オレンジの街灯すらなければ、もっと小さな星も見ることができただろう。
「良い子がこんな夜中に何の用事かな?」
背後から突然届いた声に驚いたものの、その声には十分聞き馴染みがあった。
振り返ると、倉石アスカが悪戯っぽく笑っていた。月光を浴びているせいで肌が青白く照り返し、普段より低体温に見える。
「月がきれいだったから、ちょっと散歩に」私はいつの間にか隣に並んだアスカに言った。「アスカは?」
「私は……暇つぶしに?」アスカは月に向かってニヤリと笑いながら、歩き出した。私もそれに続く。「あまりに退屈だから、雑誌か漫画か……とにかく何かいいものを探しにそこのコンビニへ行く途中」
「へえ、いいね、コンビニ」
「一緒にくる?」
燃えるような赤髪を夜風が肩の上でさらりと揺らし、軽く巻かれた前髪の下で琥珀色だったと記憶していた目がなぜか赤く輝いて見えた。
* * *
のんびりとした足取りで、月や星、アスカの横顔などに気ままに視線を移ろわせながら時々思いつくままに会話をし、10分ほど歩いてコンビニにたどり着いた。
アスカの後に続いて店内に入る。商品がほとんど陳列されていないレジ横のホットスナックや菓子パンの棚が珍しくて、キョロキョロと観察することがやめられない。
「何かおもしろいものでもあった?」アスカは言った。
「いや、この時間にコンビニに来るのは初めてだから……」
「なるほどね」
入ってすぐ左のガラス壁に沿って並べられている雑誌コーナーに向かったアスカは、私の知らない雑誌を手に取った。ジャンルもわからない。強いていうなら、総合誌だろうか。
「そういうのが好きなの?」
「いいや、この雑誌が特別好きなわけじゃない。でも」アスカは表紙を眺めながら言った。「『映画と音楽』、おもしろそうだ」
「確かに」
アスカは映画と音楽に興味がある。意外性はないが、彼女に関する新たな一面を知った。
「せっかく来たんだ、コハルも何か買えば?」
「そうだね、うん、そうしよう」
私はあまり雑誌には興味がない。知りたい情報ならある程度はモバイルで調べれば満足するからだ。
雑誌棚の前をスルーして飲料水の冷蔵庫も通り過ぎ、店内の奥へ移動した。店の中央あたりに独立している冷凍庫の中を覗き込む。
「アイスか」
「うん、実はずっと気になってたやつがあってね」ケースを覗き込んで、目当てのものを探す。「ああ、あった、これだよ」
手にとってアスカに見せる。
「チョコレートアイス?」
「うん。この時期限定でね。実は去年から気になってはいたんだけど、迷ってるうちに時期が過ぎちゃってね、去年は食べられなかったんだ」
「そっか」アスカは言った。「それで、今年はようやくありつけたってわけか。それ貸して、奢る」
「いや、でも……うーん」差し出された手からアイスを離して、私は考える。いや、悩む。
「どうした? 気になってるんじゃなかったか?」
「いや、そうなんだけど……もう11時も過ぎてるし、夜にアイスは……」
「ここまで来て何を悩むことがある?」アスカは大げさなほどに深いため息をつき、いかにも残念そうに眉尻を下げた。「そんな調子だから去年は食べられなかったんでしょう? でも今、去年逃したそれは目の前にある。カロリーのことを気にしてるんだとしても、ここまで歩いてきたんだ、帳消しにできる」
「でも、ここまでの距離は大してなかった」
「よく見て」アスカはアイスのパッケージを指差した。「185キロカロリー。この程度なら大丈夫」
私は小さくため息をついた。
「まったく……君は口がうまいね」
アスカはニコリと笑うと、私の手からアイスを取り、ケースからもう一つ同じアイスを取り出した。
「君も食べるの?」
「見てたら私も気になってきたのでね」
会計を済ませ(もっとも、私は隣で眺めているだけだったが)店を出ると、少しだけ気温が下がっている気がした。
「なあ、これからうちに来ない?」アスカは言った。
「嬉しいお誘いだけど、夜も遅いし迷惑じゃない?」
「全然。むしろ、今から1人にさせられる方が迷惑だ」
「じゃあ、お言葉に甘えて……ふふっ」
前触れもなく笑い出した私をアスカは不審そうに見た。
「いや、違うんだよ」私は笑いを抑えながら弁解するように言った。「こんな夜遅くに、事前に約束していたわけでもないのに友達と過ごすなんて初めてだから、なんだか楽しくてね」
「そうか」アスカはニヤリと笑った。「なら、これからも羽目の外し方をいろいろ教えてあげる」
「うん、お手柔らかにお願い、ね」