2.姫様
アルバティナに連れられて森を抜けると正面に大きく開けた空間があり、そこは大きな湖のようだった。湖の左右には森が迫っていて、今出てきた背後も森だから三方を森に囲まれているかたちになる。湖の向こう側には湖と比べると小さく見劣りしてしまう石造りの建物があって、夕日に照らされて赤っぽく光っている。建物を目にしたことで人間の生活の気配を感じて、祐は少しだけホッとした。
湖を迂回するように森のへりの木々に沿って歩き出したアルバティナについて祐も歩き出す。夜になる前に今日の宿が確保できたのは良かったが、実はさしあたっての問題があった。
「ねえ、でも私、お金持ってないよ。」
手に持っていたはずの財布とケータイは結局見つからなかったから、本当に着の身着のままだ。森に現れた時、最初呆然としてやみくもに動いてしまったからその時に落としたのだとは思うのだが……。要するに無一文。
「心配しないで。『異世界の客人』は歓迎するといいことがあるのよ。叔父様のご病気が良くなるかもしれないし。」
気後れする祐に、アルバティナは茶目っ気たっぷりにウインクして言った。
先ほどの彼女の愚痴から分かったことは、アルバティナとその兄は子供の頃に両親を亡くし、叔父のところで生活していること。その叔父が伴侶を亡くした数年前から伏せりがちになり、今ではほとんど寝たきりなこと。叔父にはひとり息子がいるが、今は仕事で遠い他国に出向いている最中だということ。という大変な状況の中でアルバティナも兄の仕事を手伝おうとしたのだが、余計なことをするなと怒られて大げんかになったということ。
「ティナのお兄さんは、泊まってもいいって言うかな。」
アルバティナの愚痴から思い浮かぶ彼女の兄の人物像は、女が男のすることに余計な首を突っ込むなを地で行く亭主関白。アルバティナも負けてはいないと思うが、もしお兄さんの方に追い出されてしまったらどうしよう。……お金持ってないというのは主にこっちの意味だった。お兄さんに渡す賄賂がない。
祐の懸念をよそに、アルバティナは「あらなんでお兄様が私のお客様に文句を言えるっていうのよ」となかなか頼もしいことを言いながらずんずんと進んで行く。
うん、アルバティナになるべく頑張ってもらおう。祐は問題を丸投げした。
まあきっと、なんとかなる。いざとなったら近所の人にでも頼み込めば、誰かしら泊めてくれるはず……。
「この辺って、人住んでるの?」
森の中ではアルバティナ以外誰にも会わなかったし、人工物らしいのは湖の反対側の建物だけだった。民家があるところまでどのくらい歩くことになるんだろうという思いもあって尋ねると、ここは小さいけれど王国の中心地で、少し高台になっているここの下のほうに城下町があるのだとアルバティナは教えてくれた。
「ほら、あれが王城よ。」
指し示されたのは湖の対岸にあった建物だった。近づくにつれてなかなか大きそうな建物だということは分かってきたが、
「……なんかイメージと違う。」
祐が王城と言われて想像するのは、マリーアントワネット的なアレだ。きらきらで、ぴかぴかの豪華なやつ。目の前の建物はそれに比べるとだいぶ、いやずいぶん質素で、石を積み上げてそのまま野ざらしにしている、みたいな風貌だからか砦と言われた方がしっくりくるくらいの佇まいをしている。アルバティナの国の王城ともあろうものに対して幾分失礼な感想を述べると、しかし彼女は別に怒るでも悲しむでもなく、
「うちは田舎なのよ。」
と言って肩をすくめた。
しかし田舎とはいえ王城が建っているというだけで祐の実家よりは絶対に栄えている。山と田んぼしかないのどかさだけはこの湖のほとりと似ているけれど。中はどうなっているのかちょっと見てみたかったなと考えて王城を遠くに眺めながら歩いていると、その王城のほうからだんだんと、何か地面に響く音が近づいてきた。
「隠れて。」
祐が音に気付いたときにはすでにアルバティナは祐を引っ張って、横の森の中に入っていった。どすどす、とか、どかどか、とかいう感じの重めの騒音がどんどん近づいてきて、足元に振動が伝わってきた。少しだけ奥に進んで木の陰に身をひそめると、アルバティナは音の方を注視する。少しして、先ほど祐たちが歩いていた付近を、何人かの男たちが馬に乗って走り去っていった。こちらを見られた気がして、祐は思わずぴゅっと頭を縮める。音と振動が去ってしばらくすると、アルバティナは祐を促して先ほどより早足になって歩き出した。
「今の何?」
「やっかいな奴らよ。見つからなくて良かったわ。」
心なしか、さっきよりも鋭い雰囲気になってアルバティナは言う。なんだか物々しい雰囲気だったし、きょろきょろと何かを探しながら走っているようだったし、盗賊みたいなものなのかも。そう納得して祐も急いだ。
王城が近づいてきて、やっぱり間近に見ると大きいなあとのんきな感想を抱いていると、その城壁付近にたむろしていた農作業帰りみたいな雰囲気の人々がこちらに気付いたようだった。みんなしてわらわらと近寄ってくる。
……ティナがいるから大丈夫だよね。祐は思わずアルバティナの背後にぴたりと張り付く。しかし彼らは祐のことなどまったく目に入っていない様子で、大げさに安堵したような顔になって口々に声を上げた。
「ああ、姫様!」
「姫様、ご無事で!」
あまりの歓迎ぶりにお姫様でも来たのかと思って後ろを振り返ったが誰もいない。日の暮れかけた空と紺色に沈んだ森が遠くに見えるだけだ。
「ごめんなさい。ちょっと遅くなっちゃったわ。」
しかしアルバティナが当たり前のように彼らに答える声が聞こえたので、祐は驚いて高速で前を向き直す。ひゅんと空を切る音が耳元で聞こえた。近寄ってきた人々はアルバティナにたかるようにして口々に無事を喜んだり、その身を確かめるように触れたりしている。
「……姫様?」
思わず口を突いて出た祐の当然の質問に、アルバティナも至極当然のような顔をしてあっさりと答えた。
「ああ。私、王の姪なのよ。」
言ってなかった?
聞かれて祐はぎこちなく首を振る。
そんなの一言も、聞いてない。