さよならの日に降る雪―――①
「何がほしい?ななちゃん。」
私は物心ついた頃から、何一つ不自由ない生活を送っていた。
グランドピアノを買うために自宅の一部を改装したことも当たり前だと思っていた。
日本舞踊の発表会では有名作家が作った何百万もする着物の袖を振った。
筆箱には鉛筆から定規まですべてデパートで売っている文房具でぎっちり。
バレエシューズは大して使わないまま捨てちゃった。
結局それらをすべて無駄にしたけど、ママはそんな私を怒ることはなかった。
習い事をはじめては中途半端に飽き、気に入らないことがあればすぐ癇癪を起こす。そんなわがままな私に、ママが関心を持つことはなかったみたい。埃がかぶったピアノのことは眼中になく、家の跡取りとなる弟の心配ばかりしている。
「ママ、大丈夫…?」
ある朝、あんまりにも青白い顔でキッチンに立っているから思い切って問いかけてみた。近頃、ママの目の下からクマがなかなか消えない。最近ゴミが溜まらない生理用品の箱のことも気にかかっている。当時の私は中学三年生ながらママの体調がすぐれないことを理解していた。
そしてゆうとの模試の結果を見てもや無理しているようだから、こう付け加えた。
「ゆうとは明成中学は滑り止めレベルだと思うけど」
「ゆうとの人生がかかっているのよ! ママも応援してあげなきゃ!」
いやいや。医者になるわけでもないし、中学そこらで人生は変わらないと思うんだけど。なにせゆうとがそれを望んでいるのかどうかもわからないし。
ママは一体何に操られているんだろう?
クローゼットの奥にしまい込んだドールハウスのパッケージみたいな顔して。
同じテーブルに座っているはずなのに、本当につまんない。
「行ってきます」
先週、私の通学鞄の金具が壊れたことも忘れてしまったのかな。
朝ごはんはいらない。牛乳を一気飲みして、ひらひらとふたりに手を振る。
この頃の私はやるせない気持ちをどこかにぶつけたかった。小さな反発心を抱きながら、庭から飛び出した石ころを蹴っ飛ばしながら歩いていた。
☆☆☆
進学説明会にはじめて訪れたのは、ママの出身校だった。懐かしい学び舎を訪れたのに、唯一の生きがいとはぐれたみたいな顔をしている。その横顔を眺めながら、私はママを笑顔にさせることはできないのだろうと子供ながら感じていた。
「ねえ、ママ! あの銅像は一度なくなったったこと、知ってる?」
「知らない……」
「先代の校長先生がどうしてもテレビに出たいからって、近くの公園に埋めたらしいよ!」
「ううん……」
「おっかしいよね!」
ちっちゃい頃に、この場所に近い公園で遊んだ時にママが聞かせてくれたんだけどね。フォーマル着として来た紺色のワンピースが、喪服に見えて仕方ないよ。シンフォニーホールに到着するまで、私はずっとからっぽな笑いをひとりで続けていた。
「わあ、思ったより人が沢山いるね」
ホールの前に到着すると、多くの人だかりができていた。学生時代のママは一切関わりがなかったみたいだけど、この高校は全国区でミュージカル部が活発ということで知られている。今日の公演は、私たち中学生と保護者だけではなく、業界人のような大人の方も多いように感じる。
「いこいこ! どんどん、前の席」
「ぶつかっちゃだめよ、まって、ななちゃん」
でも、今日ばかりは振り回してもいいよね?受付を済ませると、ママの細い手首を強く掴んだ。いろんな制服を来た女の子達を掻き分けて、どんどん舞台から近い席に進んでいく。こうやってママの肌に触れるのは、一体何か月ぶりなんだろうか。
一番前の着席すると、昼食で食べたナポリタンが胃にもたれはじめる。
この頃はどんなに食べてもご飯の味がしなかった。入院食のほうがまだ味がするぐらいで、当時の私自身もそうとうやられていたと思う。
「まもなく開演時間です、観客のみなさんはご着席ください」
ピアノの発表会で楽屋の中で聞きなれたアナウンスが流れはじめた。こうして客席から聞くことは初めてて、なぜだか新鮮に感じている。座席を踏む音さえ消えたしんとした空間すら、世界を創り出すものに見えてくる。
ママは相変わらずしょんぼりしてでも、今日のお芝居がサイコーなら今日はサイコーだよね? 声にならない問いかけを、ブザーと共に上がっていく緞帳にぶつけてみる。幕が上がりきった時、その疑問に答えてくれるひとに出会った。
「―――」
緞帳があがると、先輩が舞台の上に立っている。私の瞳孔がその影を捉えて開いていく。……こんなに美しい人間がこの世界に生きていたのか。ぴんと一本に通った姿勢、澄み渡るようなハスキーボイス、スポットライトを浴びてきらきらと光る瞳。私のインコと同じぐらいの大きさしかないであろう脳みそが、先輩という存在で埋め尽くされていく。
「はあっ、ふわあ!」
「ななちゃん、具合悪いの?」
沈黙に包まれた客席の中、私が突然謎のうめき声を出したから。さっきから蝋人形みたいなママも思わず驚いてハンカチを差し出してきた。それほど先輩を舞台の上で見つけた時の私は、よっぽど大きな感情で包まれていたようだ。
「……なっ、なんでもないよママ」
「そう」
ママのぬくもりなんてとっくのとうに忘れ去り、先輩の歌声に必死に耳を傾ける。歌詞が今後の展開に響くかもしれないと、必死に追いかけるけれど。パンク寸前の心と脳はキャパオーバーを迎え、きっと数秒後には忘れていると思う。
ひとしきり歌い終わった後、先輩は舞台から消えてしまった。ぱきっと伸びた背筋は、遠い日の夕焼けを追いに行ったようだ。うしろ姿が小さくなると、私はいつもと同じようにへそを曲げそうになる。これからつまらなくなると思ったけれど、部長さんたちのにぎやかな手拍子と歌声たちが打ち消していく。
―――舞台ってすごい。こんなにひとからひとへ楽しい気持ちを届けることができるの?
演じている役柄も、演じているひとたちも、観客のわたしたちも。
違う世界で生まれて、違う時間を生きて、たまたまこの空間にいるだけなのに。
他の部員さんのお芝居もやっぱり上手で、テレビで見ているものとさほど変わらなかった。劇伴で流れるオーケストラだって主役級みたいで、どんどん鳥肌が立っていく。私の中に宿る五感は、今日というひとときを迎えるためにあるとさえ思えた。
「……やりたい、私もやりたい。ミュージカル」
うまくできない癇癪とは全然違う。スカートのプリーツがしわしわになるほど握りしめてしまうほど強い気持ちが溢れ出してくる。
この舞台に立ってみたい。誰かと一緒に世界を作ってみたい。お腹から勢いよく息を吸い込んで、この胸いっぱいに吐き出して。素敵な言葉を歌にのせてみたい。……憧れに果てしなく近い欲望が生まれ落ちていく。
今ここにいる私が星の数と変わらない観客であることですら腹が立った。
早く私をここに連れていってと願う気持ちが止まらない。
―――そんなことを思っているうちに、1時間半の上演時間が過ぎ去っていく。
「一緒に明日を生きていこう!」
「はい、だからこそ今日はさようなら」
先輩の決め台詞とともに、ホリゾントが虹色に照らされる。劇中で主人公の未来のである先輩は冒頭と最後しか登場しなかったけど、圧倒的な存在感だった。ホールを埋め尽くすほどの観客や、舞台装置の全てが先輩の方を向いているように思えた。
悲しい訳でもない。泣くような内容でもない。舞台が終わりを迎えるときには涙がこぼれ落ちていた。ママのハンカチを借りて涙を拭きながら、手が痛くなるほどカーテンコールを送る。ママも私が喜んでいる様子を見て、ほんの少しだけ笑顔が戻ったような気がする。
演じること、演奏すること。これまでの私は義務や決まりごとのように感じていたけれど、今日見た景色はそれらとは明らかに違った。役者のみなさんが舞台を去ると、拍手は徐々に鳴り止んていく。なんだかお祭りが終わってしまったようで寂しさがこみあげてくるけれど、この胸の中には確かな希望が宿っていた。
今日という一日は私の人生忘れられない一日となった。サイコーなんて言葉では足りないぐらい、私の心を突き動かしてくれた瞬間に出会えた。会場を出る前に、ママとこの舞台に誓いを立てるように叫んだ。
「やりたいこと、やーっと見つけた!」
「私もあの舞台に立つ! 何があっても、ぜーったいに!」
このころからやたらめたら声が大きかったかった私。他の学校の女の子達にはまるで百獣の王の遠吠えのように聞こえただろう。それから、合格するまでの毎日は、ゆうとに匹敵するぐらいに勉強と実技に打ち込んだから。遠吠えという例えは間違えではない。
まあ、その頃は思いもしなかったけどね。
先輩の相手役に抜擢されてしまうなんて。