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最期の海に咲く花  作者: みつき
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会いたい病―――④

「シャワー浴びてえ……」

「最近のお前の口癖、ずっとそれだな」

「ありとあらゆる匂いがマスクの中に充満してる……」

コンクリートを粉砕した時の焦げ臭さ。患部からの浸出液、そして自分の汗。べったりと額についた汗が、ゴーグルの向こう側の世界を曇らせる。

もし神様があたしをこの仕事をさせるために命を授けたなら、汗っかきはやめてほしかった。


「くさいなんて傷ついちゃうよ。この子には言えないけどな?」

麻酔がよく効いているのか、私の背に身体を預けた少女はよく眠っている。カレンはその肌をつんつんと指さして、体温がしっかり宿っていることを確認していた。

「神崎先生、よろしくお願いします」

「到着が遅くなって申し訳ない、これから医療部に搬送する」

背中のぬくもりを手放し、ストレッチャーに横渡らせた。どうにか神経は損傷から守ることができたので、少しの間リハビリをすれば無事歩行ができるようになる。また彼女と面会する時は、発症の手がかりについて聞き取るときだろう。少女の腰に巻かれた黒い布を指さして神崎先生はさめざめと尋ねてくる。


「……この布、莉緒さんの防護具だろ?」

「はい。ちゃんと被曝していない背中の部分を切り取りましたが」

「こういう丁寧なやさしさ、不愛想な顔に似合わないな」

「症例の尊厳を守ること当たり前ではないのでしょうか。やさしさという付加価値とは違うと思うんですが」

「……あんたがよく誤解される理由がわかった気がしたよ。またあとで」

そう吐き捨て神崎先生がドクターカーに飛び乗る。少女が搬入が済むと、後方部の白い扉が勢いよく閉められた。今日も無事、サイレンとともに現場に幕が閉じた。身体じゅうは重苦しい疲弊で漬物石のように重くなる。


「まじで疲れた。ぶっ倒れそう。」

「おっと、貧血起こしたみてえにふらついてんぞ。とりあえず運転は任せろ」

「さんきゅー。」

最後の記憶は、シートベルトを締めた瞬間だった。のちのちカレンの話を聞くと、あたしは後部座席で屍のように眠っていたらしい。さらに、父親でも出したことのなさそうな大音量のいびきに、耳を塞ぎたくなったという苦情を添えられた。


☆☆☆


お風呂上がりの心地の良い香りを纏いながら、あたしはベットに横たわった。コーヒーを淹れたかったけど、夜まで起きている気力がないので、今晩は柔い紅茶。ばらばらと散らばる机の上の資料に目を通す。


環七菜子(たまきななこ)さん。今年で18歳かあ。」

「どうせ同級生の男の子と卒業したら会えなくなるから寂しくなっちゃうんでしょー?」

資料には症例の詳しい生活状況が書かれている。家族や担任の教師などから聞き取った情報はどれも薄っぺらいが、今後のために目を通しておく必要がある。


「ミュージカル部。卒業公演を迎えたあたりから体調を崩すようになり、保健室の常連。精密検査を受けたが、内科系、婦人科系疾患は否定……」

「両親揃ってる。弟ひとり」

だいたいこの病気を発症する方は、あたしと同じように大切な人を亡くしていたり、友人や配偶者と事情があり離れ離れで暮らしていることが多い。今回の症例は、欠け落ちているところが何一つなく、あたしはひとりで首を傾げている。


「友人の自殺とかだったら、なかなか親に打ち明けることはできないよねえ」

「あとは、ネットで出会った方とか」

携帯ひとつで『会いたい』を叶えられる時代に、この言葉は陳腐となりつつある。はじめて出会った人同士で結婚を決めてしまうことすら当たり前にある昨今だ。


「会いたい、かあ」

生乾きの髪の毛を勢いよく掻き分けながら、懐かしい言葉をつぶやく。今はもうその言葉を誰かに伝えることもない。もう大人になったし、身を絆すほどの恋をする予定もないので、これほど胸の奥をゆさぶるような強い思いには今後出会わないだろう。


『あたしだって会いたかったよ! 春だって、秋だって、冬でもよかったの。

 なんであたしたちは別々の世界に生まれてきちゃったんだろう』

―――あたしがこんな言葉をぶつけてしまったから、真鈴は。

中学を卒業したら、どうにかしてそばにいてあげると約束してあげればよかったのに。あれからもう10年に近い時間が経ったはずなのに。伸びてきた爪が刺す痛みと、強く握ったやるせなさが、まだ手の中に残っている気がする。


「めんどくさいけど、詳しい話を聞いてみるか」

『会いたい』が、叶わぬ願いにならないように。どんな事情や困難があったとしても、その命がある限り、大切なひとが待つ場所に行けますように。あたしと症例は他人同士であっても、託された仕事だ。使命感だけで進める生易しい世界ではない。進む理由としては、これだけで十分だった。


ベットの上に寝転びながら感傷に浸っていると、小雨の音が窓ガラスを叩き始める。もう立ち上がる気力は残されてなく、開け放っていた窓を片手で勢いよく閉める。明日も頑張りますから。お話もじっくり聞いてあげますから。

オンコールも対応しますから。また地面にへばりついている方がいたら切りますから。今日はせめてゆっくり寝かせてくださいと思いながら布団の中に溶け落ちた。


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