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最期の海に咲く花  作者: みつき
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会いたい病―――③

――――――――堂島莉緒、8歳の記憶


あたしの母親は、13年前に亡くなった。

近隣の住民や母の友人にはありふれた心血管疾患のように告知したが、亡骸は地面に溶けだして遺品すら回収できなかった。その事実を知っているのは、あたしと親父、親父周辺の人間しかいない。


母と最期のお別れをしたのは、まるでバケツをひっくりかえしたような大雨の日。白い布が掛かった正方形の箱を抱きしめながら、長靴を履いて必死に前へ進む。なんでこの箱がこんなにも軽いのか、当時のあたしは知る由もなかった。


「あの子、お母さんこの前亡くなったんでしょ」

「ご主人さん警察の方みたいよね」

「あんなにまだ小さいのに、かわいそう……」

マンションの踊り場に行くたびに、そんな声が聞こえてきそうな気がした。

父がそれなりの地位のある職業ということもあり、周辺から距離を置かれていたことも、あたしが孤独心を抱える一因だったのかもしれない。放課後は淡々とひとりで家に帰り、リビングの窓辺に高く舞い上がるボールをうらやましそうな顔をして眺めていた。


母との別れから半年後。革命の日は訪れる。


「莉緒、海に行こう。」

小学校2年生の時。夏休みも中盤に差し掛かる中、退屈そうにしていたあたしに父親はそう提案した。宿題は手早く済ませたし、数回クリアしたゲームだけが手元に残っている。いつも忙しい父親がどこかに連れていこうと提案したことははじめだった。


「……うん」

最後に海を見たのは、海沿いの大きなシャチがいる水族館に行った時以来。水浸しになるのがとにかく嫌で、大泣きをした不快な記憶だけが残っていた。

母が亡くなってから進んで外出をすることもなく、旅行なんてもってのほか。慣れないところが苦手なあたしは、はなかなか乗り気ではなかった。


「お友達になれそうな子もいるよ」

「うん。男の子?女の子?」

「女の子。」

「ふーん……」

よくよく父の話を聞くとあたしはどうやら海の近くの遠い親戚の家で数日間宿泊するようだ。父親が準備を始めたのか、床を散らかしながら頭を抱えはじめる。


「おとーさん、あたしが選ぶから大丈夫」

大人になった今思い返しても、当時のあたしは可愛げのない子供だった。父に世話を焼かせることが迷惑になると思いながら、ちいさな背でつま先立ちをし、自分で靴下やらを勢いよくタンスから取り出す。


症例本人や症例の家族が子供であるケースは多いが、幼少期の自分より感情に乏しい子に出会ったことは今まで一度もない。感情表現がここまで苦手な子供を男手ひとりで育て上げることに多大な苦労があったと思う。


あの日から数10年の時間が経ち。

ちいさなリュックに何を詰めたかはもう思い出せない。ただ、見知らぬ土地で退屈しないようにと飽き飽きしたゲーム機を押し込めたことだけは鮮明に覚えている。

――――――汐見ケ丘にいる時は持ってきたことすら忘れていたから。


☆☆☆


いつものラジオとは違う声のアナウンサーが、高速道路の状況を伝えている。

窓辺に緑が増えるほど、その声はじりじりと掠れていく。


『このお姉さんは、お風邪をひいてしまったの?』

幼少期の頃のあたしにとってはそれが不思議でたまらず、その理由を窓辺を見ながら考えていた。単にラジオ局から離れると電波が入りにくいからという事実を知ったのは、中学校に上がってからだった。


普段くらしている街との違いさえも、見たことのない世界への扉。

子供らしい好奇心が残っただけでも、あたしは救われたのかもしれない。

窓を開けるスイッチを押すと、さわやかな風が吹き抜けてきた。


「あとどれぐらいで付くの?」

「んーと、30分ぐらいかなあ」

この思い出が父親からのプレゼントだということは、なんとなく理解していた。わくわくが止まらなくて、ちゃんとお利口さんにできなくなった。

シートの前で足がひとりでにバタバタしちゃう。プールでするバタ足よりも、少しかわいいぐらいがいい。もしお父さんが驚いたら、うっかり道を間違えてしまうかもしれないから。


「ほら、海が見えるよ」

「……ふあ……」

車窓を見つめると、知らないことだらけのまぶしい世界が目の前に広がっている。はじめて見つめた景色にちいさな心臓は勢いよく飛び出してしまいそうだった。あたしはきっと、この言葉にできない感動を棺桶に入る瞬間まで覚えているだろう。


おでこに勢いよく汐風がぶつかってくる。乾きはじめた瞼を強く開けると、太陽に照らされた水面がきらきらと輝いている。海辺を飛ぶかもめがぴゅうと鳴くことをはじめて知った。白い砂浜に今すぐはだしで駆け出して、どんな踏んだ感触がするか確かめたい。


「きれいだねえ、りお」

「はやくうみにいきたいな」

「……喜んでくれて、お父さんもうれしい。あと少しでおばあちゃんのおうちに付くから、どきどきしたまま待ってて」

海岸の景色にときめいていることがバレてしまった。なんだか恥ずかしくて、水色のワンピースに汗が滲む。その感触さえもなんだか心地よく思えた。


いつの間にかアナウンサーの声は消え、テープを巻き戻したようなノイズが流れはじめる。父がカーステレオを消し、代わりに鼻歌を聞かせる。この音色は学校で習う童謡でもなく、テレビで流れている曲でもなく、母との思い出の曲だったのかもしれない。


お世辞でもうまいとはいえないけど、やさしい音色だった。あたしはいっちょまえに窓辺で頬杖をつきながら、父の何気ない鼻歌を聴き続けた。


☆☆☆


目的地は、海岸沿いから車で20分程度山側に入った場所。

絵本の中で見たきこりの家のような外装の一軒家に到着した。生まれてはじめて郊外に出たあたしは、この中にはきっとおとぎ話の住人が住んでいるのかと思い込んでいた。父がチャイムを押すと、日本人の風貌の老婆が現れたことに安心した。


「いらっしゃい。」

当時のめめばあちゃんは70歳ぐらいだっただろうか。顔の色艶もよく、声がピンと張っていて、凛とした女性という印象だった。子供の頃のあたしは学童や公民館には通っておらず、母が亡くなってから自宅の鍵を持たされていたこともあり、老人に接する機会はあまりなかったが、なんとなくこの方には心を開けそう、というやわらかな印象があった。


「はじめまして、めめばあちゃん」

「さあさ、おあがりなさい」

めめばあちゃんに誘導されながら、父親の大きなサンダルの隣に、あたしの青いサンダルを置く。写真で見た海の色みたいでお気に入りだったけれども、おろしたてのサンダルで慣れない場所を思いっきり走れるだろうか? 

ひとりで知らない場所に泊まることは子供ながら不安で、泡沫のような不安が勢いよく押し寄せてきた。


たのしそう。だけど、やっぱりちょっとだけ怖い。

はじめてすごす場所。古い建物は見慣れなくて木の柱からおばけが出そう。真っ暗な廊下からトイレに行けるかな。ついてきてほしいとか、誰かのお家でわがままを言っていいのかな?


めめばあちゃんや父親は何度もあたしの名前を呼んだが、しばらくの間ちおしりをふたりに向け、玄関でうずくまりながら靴底を見つめていた。

なかなか動かないあたしの手を父が引こうとすると、広間の奥からからぺたぺたと床を踏む小さな音が聞こえる。どきどきが膨らみあがり、あたしは首がもぎ取れてしまうぐらいの強い勢いで振り返った。


「こんにちは。」

その子の雰囲気は夏の入道雲のように透き通っていた。ぱちくりとまばたきをすると、白銀のまつ毛がたなびく。くらげのような髪はふわりと吹き抜ける風に揺れた。きみは遠い場所から来た異邦人を見るような目で、あたしを見つめている。


「……いきましょう。お名前は」

「りお。」

きみは当時から何かを見繕ったような表情をして、テスクチャーの重い言葉ばかり使っていた。だからこそ、あたしと似ていて。でもどこかひとつずつ違っているところがおもしろかった。


「すてきなお名前。……なんでその名前になったのか、わかるようになりたいな」

女の子が発した言葉の意味が分からず、首をひねっていたことを覚えている。この先、あたしと過ごす時間はきみの悲しみを癒すことができたかな?

友達になってくれてありがとうなんて、今はもう伝えられないけれど。


高い天井には、夕方の心地いい風が流れた。

木製の床の感触は思ったより足になじむ。キッチンから香るお惣菜の匂い。

落ちかけた夕日が草木の水滴に反射している。この日を迎えたあたしには、わくわくする気持ちと一抹の不安が半分ずつ揺れていた。


だけれど、この子と一緒なら楽しい場所へどこまでも駆け出せる予感がする。ひとなつの宝箱のような日々が、はじまるような気がして。


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