会いたい病―――②
「聞こえますか?」
冷たい感覚の奥に、かすかに壁を叩く音が聞こえる。消防隊がたたき割ることは不可能だったようだ。お隣の立てこもり突入部隊に応援を頼めなかったのかと少し肩を落とす。だけど、一分一秒でも救護を遅らせると、この繭のような球体の中にいる少女は、身体中を重く固める感覚の中で息を絶えることになる。
「死ぬときはあんまり痛くないほうがいいよなあ」
背負った七つ道具の中から、グローブを引きずり出す。負傷した時のために利き手でない右手にはめて、ボタンを押して通電させた。球体の側面をこつんと叩くと思ったより容易小さくヒビが入る。ここまで馬力が加わるのなら捻挫をしなくても大丈夫そう。
「あたしが叫べば叩き割れるのに……てめぇはいつもそうやって無茶を」
「平気、仕事ですから」
「冷蔵庫の中のプリン、食べちまうからな」
一呼吸置いた瞬間に、無線機から鬱陶しい声が聞こえる。一刻を争う場面だからこそ、こんなメロディーを欲しているのは秘密。本当は甘いもの、あんまり得意じゃないくせに。……まあ、ひと仕事終わったら、ケーキでも買ってきてくれればそれで。
「よいしょ!」
決め台詞にしては間抜けすぎたか。小突いた瞬間、がらん、と鉄板が落ちる音が響く。眼下には薄暗い洞窟のような光景が広がる。―――ほぼ密室に近い状態だから、処置をするのには最適だと思っていた。けれど、数ミリの細かい部分を縫合するとなるとあまりにも手元が暗い。
こじ開けた入口を潜り抜けると、混じり気のない空気が出迎えた。あたしの足音しか聞こえない静けさに、鼓動が早まる。やがて50メートルほど歩くと、症例が身に着けている制服の赤いリボンが見えてきた。
症例に近付くと、ひざ下まで薄灰色のコンクリートがらせん状に絡みついている。靴の影すら見えないということは、よほど急激な浸食だったのだろう。―――会いたいという願いは、劇薬に負けないくらい恐ろしい心情だとということを思い知らされる。
「わかりますか? お名前を教えてください」
「……た……じゅ……」
「……後でで構いません。私は警察の者で、あなたを助けに来ました」
自分が到着したことを伝えるため、強く、やさしく、たしかに手を握る。
――――――最期のあの日、お母さんがかすかな握ってくれたこの手で。
あの遠い夏の日に、きみと繋いでいたこの指先で。
「べたべた触られて気持ち悪くて申し訳ないですが、患部を見せてください」
「すいません、スカートをまくります。失礼します。」
太ももの辺りまで浸食が進み、あと数ミリでやわらかい皮膚にめり込むだろう。無機質な冷たい感覚の奥に、生ぬるい血潮の温度を感じる。あと数十分も時間が経過すれば、この両足は切断を余儀なくされるだろう。
「会いたかったの?誰かに。」
「……うん。」
少女の鉄紺の瞳から、じわりと涙がこぼれ出した。本当は痛いね、苦しいねといたわる言葉をかけるべきだろうが、この際はあとで。神経を食いつぶされてしまう前に、この空間から逃がしてあげないと。
「痛いけど、我慢してくださいね」
「……わたし、もとに戻れるんですか。悪い夢でも見ているんじゃないんでしょうか」
「こんなに怖いのは夢じゃないから。……少し眠りたい?」
少女がこく、と、小さくうなずいた。保温用のブランケットを枕代わりに敷き、上体を横にさせる。ひざの関節がまだ動かせることにほっとしたのか、か細い身体は一気に脱力する。大掛かりな処置なので、このようにリラックスしてもらうことが大切になる。
「……はい」
「あたしは警官だから、大がかりなものは打てない。だけど、この薬が効いている間にちゃんと終わらせるから。ちょっとチクっとするよ」
我ながらビックマウスだと思う。だけれど、嘘をつかないようにと自分自身に重しをかけて。少女の右腕の血管から注射針を刺すと、指先が痛みでかすかに震えた。些細な反応から、この先が命を預かる時間だと思い知らされる。
「おやすみなさい」
少女の瞼がつむられたことを確認すると、あたしはせわしなく道具を取り出す。ドリルから剥がしていくのは初めてだけど、目に火の粉すら入らなければいいだろう。ゴーグルをいつもより念入りに額に密着させた。
「お父さん、ライト全開、大至急。」
「鳴ることないと思うけど、症例のバイタルアラームと神崎先生のピッチ連動かけといて」
「……無理はするな、莉緒。」
「やー。」
今日はなんだか汗を沢山かく一日になりそう。カレンのやかましい応援歌も必要ないし、不謹慎な鎮魂歌なんてもってのほか。神崎先生は重症患者の対応で病棟に缶詰だろう。抱え込み過ぎとはよく言われるけれど、いつもと変わらず、たしかな意思を左手に込める。
あたしは今日もこうして誰かを助けながら。
もう叶えられない『会いたい』を、この手の中に強く握り続けている。
どうか目の前の命は叶えられるようにと、願いながら振り翳し、切り込み―――……。