さよならの日に降る雪―――④
それから1週間後。夏大会に向けての配役決めがはじまった。
演目は『スノウ・ライト』。ヒロインのローザは、記憶を失くしてしまった王子のためにあらゆる治療法を探しながら旅をしている。さまざまな困難を乗り越え、最終的には雪の妖精に出会い、記憶を取り戻す手段を知り得る。そして長い時を超えて再会し、末永い愛を誓うお話だ。
劇中のヒロインのローザのラブソングや、彼女を励ます群衆や妖精のダンスが見どころだ。古くからミュージカルでは演じられてきた演目だけれど、高校生が演じることは少し敷居の高い内容らしい。
「環さん、なんでもできるよね」
「おばあさんでも、おじさんでも」
「おばさんとおじさんは劇中では歌わないじゃないですか!」
「いやいや、きみ、まだ1年生でしょ。」
どうやら私は新入生の中で演技は割りと上手なほうだったらしい。入部当初、その評価は有利だと思っていたけど、オーディションの際はそういった弊害のことも考えてしまう。……本来だったら1年生で舞台に上がるだけで貴重な機会だけれど、私の本能はただひとつの願いを叶えたいとめらめら燃えていた。
私たちの高校はそれなりの進学校であり、推薦で系列やコネのある女子大に行かない限り、大学に進学を希望している生徒の多くが一般受験に準備を進めるらしい。
私のように演技コースの生徒は、音大や美大、もしくは芸能活動という道に進むそうだ。
普通科の黒瀬先輩がなかなか部室に顔を出さない理由は、やる気がないわけでも体調不良でもなんでもないらしい。すずから聞いた話だと、時々進路指導室で医大のパンフレットを読み漁っているようだ。それに、先輩のお父さんが医者だという話を部長からも聞いている。
「でも黒瀬は総体まで残るみたいだよ。私はおすすめしてないけれど。」
「そうなんですね。大変……」
先輩が医学部を受けることはほぼ確定の情報なようだ。そこを汲んで配役を決めるとなると、台詞が少ない役になるのではないのかなあ。この脚本の中で、台詞が少ないとなると王子かエリーゼ。エリーゼは髪が長く、西洋人形のようなドレスを着た姫のライバルだ。
オーディションの段階では上手だったけれど、短髪ではつらつとしているイメージの先輩のとはかけ離れている。ということはやはり王子だ。
☆☆☆
「エリーゼだったら私は死ぬ!!!!!!!!!」
私の雄叫びは甘い匂いが漂うパンケーキ屋の店内で雷光のように轟いた。フォークを持ったすずは、石像のように身体を固まらせて驚いている。だって、大好きな先輩に『近寄るな』なんて言われてしまうなんて。たとえ演技だとしても、稽古をする度に心がバキバキにへし折られることが確定する。それとも、先輩がオーディションに落ちて、そのまま引退してしまうことが世界の真理なのか。このオーディションはデットオアダイだ。
「ちょっと、七菜子。あんまり大きな声出しちゃいけないよ。ここは部室じゃないんだから」
「やだやだ! エリーゼだったら夏大会降りる!」
「てか、黒瀬先輩がまだ王子だって決まってすらないんだよ……」
「イメージ通りなのはやっぱり先輩だから! 部長が王子をできると思う?」
「できるとは思うけど。医学部受験があるのなら、予備校にも行くかもしれないし。ダンスの練習があるのならもちろん可能性は落ちてくるんじゃないの?」
私は頬を膨らませたまま、目の前のメロンソーダに浮かぶ炭酸をじっと見つめている。すずは驚きの糸が解かれたのか、グラスの向こう側でキャラメルパンケーキを頬張っている。私が注文したいちごパンケーキも少し前に運ばれて来たけれど、なかなか食べる気がしない。そう。私は気を病むと食が細くなっていくのだ。
「ほらほら。どうせ明日には発表されるでしょ?」
「もったいないから、食べて。あーん!」
「すずはママよりもお母さんみたいだよね。」
あなたの保護者ではないのよ。と言わんばかりに、めんどくさそうな顔をしたすずが私の唇の前にパンケーキを押し付けてきた。私は口を大きく開けてそれを飲み込む。赤ちゃんじゃないから、とフォークとナイフを奪い返して、心の中にある焦燥とともに食べることにした。
「でも、黒瀬先輩があんたを気に入っていることは事実じゃないの?」
「だって放っておけないもの。5歳児みたいで」
「はあっ!? もう言ってみなさいよ」
「え? 可愛いからって言った。」
その5歳児みたい、という言葉。聞き逃さなかったよ、すず。そっけなく言い直したことも、私の混乱を鎮めるためにと解釈している。私がお店の中であまりにもやかましいから、すずも恥ずかしいだろうと黙々とパンケーキを食べ続けることにした。
……そうだ、このお店の近くの明成中学に通っているゆうとが、クラスで『会いたい病』が流行っているっていう話をしていたなあ。同級生の中で、お母さんが海外で暮らしている子がいるみたいなんだけど、その子が風邪を引いてしばらく休んでいると思ったら、部屋の壁に身体が一体化して、片腕を切断しなきゃいけなくなったという話を聞いたんだよな。
もし自分がそんな病気になったとしたら。身体の一部や皮膚を大きく傷つけざるを得ない病気になってしまったとしたら、それこそ命に関わるほど心を傷めるだろうなあ。
大してモデル体型なわけでもない。かといって子どもも演じられるような可愛らしい体型でもない。結局は演技力で補うのが俳優というものだけど、この身体は努力とともに生きてきてくれた大事な相棒だから。
「どうしたの、急に静かになって。一気に掻きこむから気持ち悪くなったの?」
「……ちょっと考え事してた。」
「もう何も考えないほうがいいよ。家に帰ったら早く寝な。」
「わかった。」
子どもっぽいと言われるのは心外だけれど、今日の私はどこからどう見ても感情むき出しの幼稚園生だった。そして、煮詰まって爆発しそうになっていた私を誘い出してくれたすずにも感謝をしている。自分のことばっかり考えても気持ち悪くて戻してしまいそうだし、すずがどの役になるかなあ、とか。そんな予想もおしゃべりの中に取り入れた。
☆☆☆
昨日の放課後はすずと一緒に過ごして気持ちがまぎれたと思っていた。
だけれどやっぱり夜はうまく眠れなくて、真っ青な顔で部室を訪れた。
「部長! 環がすごくちっちゃくなってるけど、どういうこと?」
「緊張してしまっているんだろう」
私がもぬけの殻のように座っているので、先輩がつんつんとほっぺをつついてくる。こんなクマだらけの顔を至近距離で見せられないから、私は下を向いたままうなだれている。
「静粛に。今日は予定をしていた通り、夏大会の配役を発表します」
部員一同は部長からの強い号令を受けた。さっきまで騒がしかった部室がまるで真夜中のように静まり返る。部室の中にいる全員が耳を澄ましていまかいまかと待つ。ごくりと部長の生唾を飲む音が漏れ出した後、事実が告げられた。
「ローザ役! 環七菜子!」
部室内で大きな歓声が上がる。いざ呼ばれてみると実感がわかなくて、お昼ご飯も頑張って食べたのに思わず倒れてしまいそうだった。よかった、という思いがこみあげ、脱力した身体をすずが受け止める。そして、黒瀬先輩が肩を貸してくれる。ふたりの腕の中で、鼓動のファンファーレが止まることなく鳴り続けた。
「王子役! 黒瀬葵!」
うっし、と控えめな喜びをつぶやきながら、左手で先輩がガッツをしていた。これからも勉強も大変になってくるはずなのに、戸惑いの色はどこにも見えなかった。私は今にも倒れそうなほど緊張しているけれど、先輩の毅然とした横顔があまりにもきれいだから。じっと、吸い込まれるように見とれていた。
「一緒に頑張ろうね。七菜子ちゃん。」
ずるい。私のことをよくあざといなって笑っていたけど、先輩のほうがすごいじゃん。だってこうして、私にしか聞こえない声で言うんだもん。なんでこんな時に呼び捨てにしたの? 恥ずかしくて身体が熱くても、もっと身体を寄せちゃいたくなるよ。
「もちろんです! 先輩」
本当は私も耳元で囁きたかった。だけど隣にいるすずが身の毛のよだった猫みたいな顔して見てくる。ちょっと気まずいかも。だから、普段の私と変わらない元気な声と言葉で返した。これからふたりっきりの時間を重ねれば、この気持ちを言葉にできるのかも、なんて期待をしている。
このミュージカル部の歴史の中でも、1年生が主役を飾ることはなかなか珍しいそうだ。その分私は部員の皆さんにとても可愛がられ、支えられた。
だけれど、時にその重圧は心と身体に重くのしかかっていく。
困難が訪れるたびに、先輩の肩にもたれかかった。どんな日も仲間として励ましてくれた。そして、妹のように大切にしてくれた。
だけれどその優しさを受け取るたびに、私の心は違う視点で先輩を見つめていた。―――きっと先輩のお姫様に選ばれたこの日から。




