さよならの日に降る雪―――③
ミュージカル部に入部するまでは、とんとん拍子で話が進んだ。上級生の間では私が演技コースの首席という話題が知れ渡っているよう、黄色い声を出されながら歓迎された。
私は部室の扉を開けるなり、その姿を広い部室をくまなく探しているけれど。でも、黒瀬先輩はなかなか部室に姿を表さないまま。部長が出欠を取る時に黒瀬先輩を必ず呼んでいるはずなのに、その返事が返ってくることはない。季節はあっという間に5月になり、新緑の緑が芽吹きはじめてきた。いよいよ先輩は幻や幽霊なんじゃないかと思い始めたその日。
「筋肉痛がきついんだよねえ」
ひとりぼっちなので、誰にも気付かれないだろうと日ごろの筋トレに疲れてきたことをぼやく。私のクラスだけたまたま授業が早く終わり、同級生の友人より一足早く部室に到着した。流れている空気ですら静まり返っている気がする。いつもと違う出来事があるのかも、なんてふんわりとした予感が頭をよぎった。ひと息飲みながら扉に手を掛ける。
「……いないよね」
そんなはずないかあ。折角早く来たのだから、部室のモップがけでもやってみたら誰か褒めてくれるかも、なんて期待をしながらロッカーの前まで行ってみる。ゆっくり部室のはじまで歩くと、本棚の向かいのテーブルに人影があることに気が付いた。彼女ははじめて会う人。……もしかして。恐る恐る近寄ってみると、真昼の光に照らされて艶のある髪が揺れた。
「……ぐぐぐ、わっかんねえなあ。」
目の前にいるその人は、机の上に状態を伏してうなだれているように見えた。
後頭部には鶏のとさかのような大きな寝癖。机に散らばったシャープペン。舞台の上に立っている時と比べると信じられない程出不精な姿に思わず笑いがこぼれてしまった。
「あっ……もしかして」
待ち焦がれていた瞳が私をはじめて見つめている。その事実が私の心にこびりついた。ただの初対面といえば簡単だけれど、このひとときを一生忘れることは簡単にできないだろう。演技をしなくなったとしても、ときめきは消えない。そう思えるひとときだった。
「きみが環七菜子ちゃん!?」
「はい……」
「ずっと会いたかったんだよね。」
「……私も!」
先輩から私の名前を呼んでくれた。なんでかわからないけど私を知っていてくれていた。ぱあっと胸の奥に花が咲き誇るような気持ちが生まれれてくる。胸の高ぶりを感じながら、先輩の隣の席に歩みよった。
はじまったのは他愛もない話。だけどそのひとつひとつに笑顔がこぼれ出して止まらない。最寄り駅はどこなの?とか、友達とはどこで遊ぶの?とか。この高校演劇脚本集がすごく面白いから、今度読んでみてとか。何気ない会話の中で、先輩は舞台の上のきりっとした姿からは考えられないほどくしゃくしゃな笑顔を向けてくれる。
「そうなんですね。」
先輩、あのね。私はこの時、実はものすごい手汗をかいてて、頭に内容が入って来なかったの。先輩の声以外の音は掻き消されて、他の部員のみなさんが部室に入ってきたことすら気が付かなかった。
ラジオ体操をはじめるための号令がかかり、夢から飛び起きた。
うかれながら外周もサボってしまったので、あとから副部長には強く叱られた。1年生からこんな不真面目なことをしていたら、夏の大会のオーディションに響くかも?なんて考えながらびくびくと震え出す。初対面からずっと挙動不審な私をフォローするように、先輩は副部長にこう伝えた。
「私が環と話したかっただからだよ」
先輩はくるりと私の肩に腕を回す。……そんな風に扱われたら勘違いしちゃう。これから可愛がられちゃうかも、なんて期待する感情が風船のようにひとりでに膨らみ続ける。
「よかったじゃあ~ん、七菜子!」
同級生のすずが私の背中を勢いよくはたき、妄想の風船が勢いよく割れた。
先輩も同級生が話しかけたことに気を使ったのか、腕はあっという間に離れて副部長とふたりで談笑していた。……もうすこし、おしゃべりしていたかったのにな。
――――なかなか部室に来てくれない先輩。だけどもっと会いたい。もっとお話をしたい。そんな願いを叶えるための手段をちいさな胸の中で見つけてしまった。本物の舞台女優を目指すためには、本当に不純で仕方ない感情。
だけど、そんなわがままが私の心を突き動かす。
誰より美しく。誰より可愛らしく。誰より上手に。とにかく目立てるように。
私は心のエンジンを全開にしたまま、月末のオーディションに望むまでの練習に励んだ。