1 彼女は未経験
「えーと、どうして彼女はあの時、あのまま逃げて行っちゃったの?」
その夜、事務所に戻った私は綾芽に尋ねた。
それに対して綾芽は再びかけたビン底眼鏡をキラリンと光らせ、声高々にこう叫んだ。
「それは、彼女が処女だったからです!」
「はい?」
目を点にした私に、綾芽はもう一度叫んだ。
「処女です!」
「いやそれはもういいわよ!
だからどうしてそれが彼女の弱点で、あの時の行動と結びつくのよ⁉
意味わかんないんだけど!」
私が怒りの声を上げると、綾芽は右手の人差し指をチッチッチッとやりながらこう続ける。
「おっと、処女と言ってもアッチの話じゃあありませんよ?
私が言っているのは、殺しの方です。
瞬きの潟奈は実は殺しの処女。
つまり、今まで一度も人殺しをした事がないんですよ!」
「へ、そ、そうなの?」
私が頓狂な声を上げると、傍らの園真会長が至極真面目な口調でこう付け加える。
「まあ、あっちの方でも処女である可能性は十分あるわね」
「確かに!」と綾芽。
「いや、だからあっちの話は今はどうでもいいでしょうが!
それより一度も人殺しをした事がないって本当なんですか?
だって彼女はアヤメビト何とかの、最強の殺し屋なんでしょう?」
私が尋ねると、園真会長は髪をふぁさっとかきあげながら言った。
「前にも言ったけど、殺す(・・)能力と(・)戦う(・・)能力は(・)別物なのよ。
どっちかが百なら、もう片方も百とは限らない。
瞬きの潟奈の場合は殺す能力がゼロで、戦う能力は百っていう、
戦う能力だけ(・・)が最強の殺し屋って事よ」
「そ、そうなんですか・・・・・・」
園真会長の言葉に、妙に納得する私。
それは私も正直、あの子と話して感じてはいた事だった。
あんな礼儀正しくて性格もよさそうな子が、お金の為に人殺しをするとはとても思えない。
わざわざターゲットに殺人予告状を送りつけるのも、脅迫というより、
無意識に相手に気を付けてとメッセージを送っていたんじゃないだろうか?
もしくは、逃げる猶予を与えるためとか・・・・・・。
そんな事を考えていると、園真会長は腕組みをしてこう続けた。
「まあそういう訳だから、柊さんの命はしばらくは安全でしょう。
今後の相手の動きを予測するとすれば、
アヤメビトコーポレーションが別の殺し屋を送り込んでくるか、
瞬きの潟奈が殺しの処女(他に言い方はないの?)を卒業し、
再び柊さんを殺しに来るか、
もしくは殺しの依頼主が、しびれを切らして直接柊さんを殺しに来るか」
「どう転ぶにしても、一件落着には程遠い状況ですね・・・・・・」
ため息交じりに私がそう言うと、園真会長は私を安心させるような口調で言った。
「大丈夫よ、向こうは幸いにも詩琴の事を柊さんだと思い込んでくれたから、
殺しの依頼主が直接殺しに来ない限り、命を(・)狙われる(・・・・)の(・)は(・)詩琴だけ(・・)よ。だから安心して、詩琴」
「いや全然安心できませんよ!むしろ私にとっては状況が悪化してますよ!」
「大丈夫ですしぃちゃん!誰が襲ってこようと、また今日みたいに見事に私が撃退してみせます!
しぃちゃんは私が命に代えても守ってみせますよ!」
「はいはい、それは頼もしい限りだわ」
綾芽の言葉を軽くあしらいながら、私は大きなあくびをした。
まあ、今日は無事に殺し屋を退ける事ができたから、それでよしとするか。
また襲ってきたら、その時はその時考えよう。
いつもよりどっと疲れた私は、早く寝て翌朝の新聞配達に備える事にした。




