めろんぱん
―やっぱり、まただ……
下御駅の改札口を出た椿原友香は、地べたにペタッと座ってあたりをきょろきょろと見渡す、六歳くらいの子どもを見て思った。金曜日の夕暮れ時のことである。子どもは藍色の和服姿でおかっぱによく似た髪型をしていた。
友香は、ほぼ毎日、下御駅を利用している。
―今日で四日目か。
その子を初めて見たのは、先日の月曜日のことだった。その時もちょうど今日と同じように夕方、友香が帰宅する際に見かけたのだ。
駅の構内は、多くの人々で溢れかえっている。他愛もない話で盛り上がる学生連中だったり、電話で平謝りに謝るサラリーマンだったり。果てはみずぼらしい服装をしたホームレスまで―その中でも、和服姿で、駅の大して綺麗でもない床に何も躊躇なく、ちょこんと座っているその子の姿は強く強く友香の心の中に残っていた。
ちなみに、見かけるのはいつも夕方で、朝方には一度も見かけたことはない。
―家族かだれかでも待っているのだろうか。
「だとしても」吐息の中に溶けてしまいそうなほど小さな本音を友香は零した。
―さすがにこの場所でその態勢のまま待つのはまずくないかな。どうして周りにいる人たちは誰も注意しないのだろう……
友香はそんな風に勝手に一人で頭を抱えながらも、見ないふりをして子どもの横を通り過ぎようとする。
ずるい人間だと思う。そんなこと当の昔に知っている。それでもどうにもならないものだってこの世に存在する。友香にとって他人事は、どこまで行っても他人事でしかない。
ただ、迷いと好奇心を完全に振り払うことはできなかった。誘惑に負けて、ちらっとだけ子どものほうを見てしまう。きょろきょろしていたその子と一瞬、目が合った。
すると、急にその子は目がキラキラと輝かせて、勢いよく立ち上がったかと思うと、こちらに向かって一目散に駆け寄ってきた。まるでそのまま飛びたつかのような勢いである。
「……ん!」
くっつくぐらい、うんと近づいてきた子どもはグイっと、友香に見覚えのある一本のボールペンを差し出した。それはつい最近、友香が無くしたと半ばあきらめていたものだった。
「もしかして、拾ってくれたの?」
「うん」元気な声が構内に響き渡った。
「あ、ありがとう……」
友香がお礼を言うと、その子はニコッと笑って、その場を後にしようとした。
「あ、ちょっと待って」
我に返った友香は、慌てて引き留める。何はともあれ落としたものを拾ってもらったのだ。何かお礼でもせねばなるまい―その点、友香はだいぶ律儀な性格であった。
「お名前は何ていうの?」友香はしゃがんで、そう尋ねた。
「お名前? あっ、ゆうちゃんっていうの!」
その子は誇らしげに、そう叫んだ。口調から察するに、なんだか女の子っぽい。口を大きく横に広げて発音する様は、なんともほっこりする微笑ましい姿だった。
「ゆうちゃん、歳はいくつ?」
「この前、五歳になったよ!」小さな手を目一杯広げてこちらに見せてくる。
「五歳なんだ。ゆうちゃんは誰かを待ってるの?」
「うん」少女は首を大きく縦に振る。
「そうかあ、誰を待ってるの?」
―やっぱり、予想通りだ。
「ええとね、お姉さん!」
そう言って、ゆうちゃんが指さしたのはなんと、私―椿原友香であった。
「うそ……」まさか、さてはこの子……
「嘘じゃないよ。ずうっと待ってたんだから」
「えっと、パパとママはいないの?」
「ママはわかんない。パパは……知らない!」そう言うと、笑いながらゆうちゃんは目線を横に逸らした。
―ははあ、嘘をついてますね、お嬢ちゃん
それは幼いころ、友香が嘘をついたり、誤魔化したりする際に、よくしていた姿とそっくりだった。
「じゃあ、迷子さんかな?」友香は、素知らぬ顔でそう尋ねた。
「……うん」すごく悪いことをしたかのような顔で、両手を前でもじもじ、くねくねと絡ませながらゆうちゃんは答えた。
この子は家出少女かもしれない。そんな考えが友香の頭によぎった。もしもそうなら、状況はだいぶ変わってくる。かわいそうだけど、行くべきところも……
友香はゆうちゃんをじっと見つめた。その時、不安と恐怖の色が友香の瞳に映った。その色は紛れもなく友香が生ませたものであり、友香は自分の胸の奥が締め上げられる音を聞いたような気がした。
―もしかしたら、何か事情があるのかもしれない。それにまだ、家出じゃない可能性もないわけじゃないし……
それは、友香の弱さであり、甘さでもあった。
友香は立ち上がり、ゆうちゃんに自分の右手を差し伸べた。
「じゃあ、ちょっとお姉さんとお出掛けしない?」
「どこに行くの?」心なしか、少女の目に浮かぶ不安の色は一層強まったように見えた。
「近くのパン屋さんにでも行こうと思ってたんだけど」
「……一緒に、行っていいの?」
「もちろん。ボールペンのお礼もしたいし」嘘ではない、嘘では……
差し出した右手を掴んだのは、温かな左手だった。
「それじゃあ、行こうか?」
「うん!」元気いっぱいに笑うゆうちゃんの姿に友香は少し胸が痛んだ。
駅前にある緩やかな坂道を友香とゆうちゃんは登っていく。途中、ちょくちょくゆうちゃんは立ち止まって、友香に質問をしてくる。
「おねえちゃん、あれ何?」ゆうちゃんが近くにあった建物を指さす。
「あれはコンビニだよ」この子は何を言っているんだ、と友香は思った。
「コンビニ、ってなに?」
「もしかしてコンビニ、知らないの?」
「うん……」寂しそうにゆうちゃんは笑った。
「ええとコンビニってのは……」
コンビニについてスマホを見ながらしどろもどろに説明する、その時の友香の姿は後になって思い返してみても、滑稽に違いなかった。
―私たちはどれくらい自分の見ているものを理解しているのだろうか……
それから十分ほど歩くと、目的地のパン屋さんに到着する。
「ここがパン屋さん?」
「そうだよ」友香はうなずきながらそう答えた。
テイクアウト専用であるこの店は、地元民の間ではちょっと有名なメロンパン専門店であった。
「いい匂いがするね!」店は閉め切られてはいたが、微かにパン屋さんの甘い香りがあたりに立ち込めていた。
「でしょでしょ。じゃあ、ちょっと待ってて」
そういうと、友香は店内に入った。
「こんばんはいらっしゃいませ、」店に入ると、つんと澄ました態度の店員が出てきていつものように対応をする。
―いわゆる、塩対応ってやつです
ちなみに、この子を目当てに足繁く店を訪れるお客が一定数いることを友香は知っていた。
「あの、チョコチップメロンパンを二つください」
「かしこまりました。お会計は五百二十円になります。ポイントカードはお持ちですか?」
会計を済ませて、出来立てのメロンパンを片手に店の外に出ると、ちょこんとゆうちゃんは道端に立っていた。
「おまたせ。ごめんね」友香は軽く謝った。
そして、近くにあるベンチに腰掛けると、友香はビニール袋の中からメロンパンを二つ取り出し、少女に差し出した。
「はい、これ」
買ってきたのは、チョコチップメロンパン。あの店の人気ナンバーワンメニューである。
「ありがとう!」
―ホントは知らない人から何か貰っちゃだめなんだけどなあ……
そんなことを思いながらも、メロンパンを包む紙袋を開く。すると、中から甘い匂いが漏れ出てきて、二人の鼻孔をくすぐった。
「さっきのパン屋さんと同じ匂いだあ!」
なんとも独特で、なかなかに的確な表現だなと友香は思った。幸せの香りである。
「すぅ、はぁぁ……」
メロンパンに顔を近づけて、胸いっぱいまで匂いを吸い込む二人の姿は、傍から見るとまるで仲の良い姉妹のようだった。
時折、冷えた秋風がかすかに吹き込んでくる。そんな時ほのかに感じるメロンパンの温まりは、とても優しかった。
さて、冷め切らないうちに食べてしまおう―匂いを嗅ぐことを中断した友香は、次にメロンパンをじっと眺める。見た目は、普通のチョコチップメロンパンと大差はない。ただし、多めに散りばめられたチョコチップとキラキラした砂糖が織りなす景色は、得も言われぬ美しさだった。
―いけないいけない。見とれてないでさっさと食べなきゃ。気を取り直して友香は、メロンパンを一口頬張る。噛ん
だ瞬間、サクッという音が口の中で響き渡った。
―よかった。べちょっとはしてないみたい。
見た目ではあまりわからないが、表面はやや硬めのビスケット生地みたいだ。かといって硬すぎるかというわけでもなく、程よい噛み応えだった。咀嚼した途端、口の中でほろっと崩れるのも結構楽しい。
食感を楽しみながらも少し食べ進めると、次に中のパン生地に到達する。
「うわっ!」横から驚きの声が上がる
さっきとは打って変わってこちらは、やたらとふんわりしている。スポンジみたいだ。しっとりとした食感が口によくなじむ。
―ああ。そういうことか……
ここにきて、先ほど感じたビスケットの硬さの意味をようやく友香は理解した。表面のビスケットととスポンジのような中身のコントラストが絶妙なのだ。まるでお互いが
お互いの価値を高めあっているようにも友香には感じられた。
―これ、おもしろいかも……
初めて食べたこの店のメロンパンは、食感から友香を感動させた。
もちろん、魅力的なのはそれだけではない。表面にこれでもかとまぶされたチョコレートと砂糖の、上品で強烈な甘さが友香の口内を刺激する。しかも、それらに負けないくらい、優しくも存在感を存分に感じさせるメロンパンの甘みも口の中に広がる。これはたまらない―
―あっ、ちょっとしょっぱい。
わずかだが生地に練り込まれた塩が、メロンパンの甘さをさらに引き立てる。
噛むたびにそれらの甘さは幾重にも幾重にも重なりあって、複雑かつ奥深い味わいが友香の舌を優しく包み込むようだった。つまり、幸せそのものである。
「ふうぅ……」やっぱ、チョコチップメロンパンを作った人、天才だわ。尊敬に値する。
一口のメロンパンを味わい尽くした友香はそう思いながら、そっと一息ついた。横を見ると、ゆうちゃんは一心不乱にメロンパンを食い散らかしていた。
―夢中じゃんか……
友香はポケットに入っていたハンカチを取り出すと、ゆうちゃんの口の周りを丁寧に拭った。
「んーんっ」少女は首を振って抵抗する。
「もう、こぼしすぎだよ」どんだけおいしかったんだか。
友香は持っていたメロンパンをちらっと見て、それをゆうちゃんに差し出した。
「これも食べていいよ」
「へ?」ゆうちゃんは少し不思議そうな顔を友香に向けた。
「だから、食べていいよ」笑いながら、友香は答える。
「……ありがとう!」
少女はそういうと、受け取ったメロンパンをこれでもかという勢いで食べだした。
友香は、そんな無我夢中でむさぼるようにメロンパンを口いっぱいに頬張る彼女を笑いながら、そっと見つめていた。
―私もこんな時期があったんだろうか
そう思うと何だか愛おしさがこみ上げてきて、友香はしばらくの間、少女を眺めていた。
「パパがね、ずっとあたしをお外に出してくれないの」
メロンパンを食べ終わって、ベンチに腰掛けたままゆっくりしていると、ゆうちゃんが少しずつ自分のことを話し始めた。
「ずっと?」
「うん。ずっと……」
「ど、どのくらいお外に出してもらえなかったの?」肝心なところだ。
「ええとね、ええとこれくらいかな……」指を何十回も折り曲げては立ててを繰り返して、友香に突き出す。
―いや、それじゃあ、分かんないから……
「大変、だったんだね……」具体的には分からないが、彼女にとってそれは永遠ともとれる時間だったのだろう。
「うん」
「それで、この後はどうするの? うちに帰るの?」
「ううん。また、駅に帰る」
「そう……」胸に宿る罪悪感はもう、どうしようもないところまできていた。
「お姉さん、今日はどうもありがとう……」
そういうと、ゆうちゃんはベンチから立ちあがって、来た道を引き返していった。
友香は咄嗟に立ち上がれず、半ば呆然とその姿眺めていた。少女の背中が随分と小さく見えた。
「ねえ、ちょっと待って」たまらず、友香は立ち上がり、あとを追いかけ、声をかけてしまう。
「え」今度は、びっくりしたゆうちゃんの顔が友香の瞳に映る。
「夕飯食べてからでもいいんじゃない? もう遅いし」
その時、いつもの知らないふりをする友香はどこかへ消えてしまっていた。
「いいの?」隠しきれない喜びを顔に浮かべて、少女はそう尋ねた。
「うん!」
もう後戻りはできない。掴んだ少女の小さな手の温もりを確かに感じながら、友香は胸の奥でつぶやいた。
―これも全部、あのメロンパンのせいだ