おっさんは彼女の下に駆けつける。
俺はもう三十を越えた、特に運動していないおっさんなので、走りにくい森の中、すぐに息が切れる筈だったのだ。
しかしその時、俺はいつもの俺では考えられない速度で、しかも転びやすい根や葉に埋められた森の中を、まるで陸上男子百メートル国体出場選手のように走ることができていた。まったく木にも、いや気にも止めなかったけどね。シャレです。こういうとこがウザいってよく言われる。
女性の甲高い悲鳴は遠いところにも響くとは聞いていたので、実際どれくらい距離が離れているか分からないまま駆け出した俺だったが、ダミ声まじりだとそんなに届かないのか、案外近かったか、すぐ森の中で悲鳴をあげる女性を発見することができた。いつもの出来ない俺とは大違いだわ。
「ぎゃ、ぎゃああああ!やめろくるな近寄るなあああ!」
それはタイトスカートも気にせず、大股開きもなんのその、悲鳴をあげてヒールで転げ回っている、涙と鼻水と泥でぐしゃぐしゃな顔をした、確か俺と同い年の上司のおばちゃんもとい、おねえさん、本上さんだった。ちなみにおばちゃんて言うとガチ切れされるし、おねえさんアピールが凄いのでおねえさんということになってます。本上さんのセミロングの黒髪、うすピンクのジャケットも白いブラウスも、紺のタイトスカートも黒いストッキングも、高そうなキラキラなヒールも、全部泥と葉に汚れている。うん、こんな短時間でよくもまあ汚れたもんだと思うんだけど、俺でもきっと転げまわって汚れまくってでも逃げるなあ、アレは。
なぜなら本上さんの目の前には、
「オグルウウウウ」
「ゴギャギャギャアアハ」
さっきの豚人間を越える巨大な、三メートルくらいの鬼、そう角が生えて全身真っ赤なで、虎の腰蓑履いてる奴が二匹も、ゴツゴツした例の金棒を振り回しているからだ。あ、下手しないでも死ぬわ。
鬼の一匹が金棒を振り下ろす、やっぱりそれはやけにスローに見えるのだが、本上さんもそうなのか、振り下ろされる直前に横っ飛びでその金棒を避けた。ヒールで横っ飛びとかむちゃくちゃするな彼女。地響きとともに地面にめり込む金棒を避けて尻もちをつきながら、本上さんはもう一匹が近寄れないように金棒を振り下ろした鬼を間に挟むように手と足を駆使してずり動いている。
「もう何なのよ何なのよどうしてなのうわ、こっちくんなああ!」
鬼が金棒を再び持ち上げ、ニヤリと笑った気がした。よく見れば少し開けたこの森の中、あちこちに金棒を振り下ろした跡があり、今や彼女は木を背にしている。縦じゃなく横に金棒を振れば避けようが無い立ち位置じゃないかな、と俺は気づいた。これはいかん。
俺は、金棒をバットみたいに振りかぶった鬼に駆け出した。