memento mori :another
リーダーは恐慌をきたして撤収を指示する。これ幸いとばかりに部下たちも矢も楯もなく逃げ出す。
その姿を確認して、ジェラルドは構えていた腕をだらりとたらし、壁にもたれかかるようにして指示していた路地へと歩き出す。しかし、その路地を間近にしたところで彼の体力はほとんど限界を迎え、ゴミ捨て場へと尻もちをつくようにして倒れこむ。自分が倒れこんだ其の場所がなんであるかを認識して再び彼は自嘲の形へ唇を吊あげる。
「ゴミはゴミ箱へ、といった…所、ですか…ぐっ…」
息も絶え絶えにそう呟いて血の塊を口から小さく吐き出す。その時、不意に下げられた彼の視界に女性もののヒールが目に写る。無意味と分かっていても、それでものろのろと力のはいらない腕をそれでも持ち上げてPx4を構えようとする。或いはそれが彼なりの最後の矜持だったのだろう。
「…やあ、案内人。」
聞こえてきた耳慣れてきたアルトの音域に属する声音に微かに目を見開いて、口の端に小さく笑みを浮かべて構えていた拳銃を半ば取り落とすようにして下げる。
「…全く。貴女は、迷子の癖にこういう時はタイミングがいいんですね、一織」
ゆっくりと見上げてぼろぼろになったカーディガンにビキニ、両腕に入れ墨を入れた彼女の顔を視界に収めて苦笑しようとして…微かに血を吐く。
「すいません、生憎…このザマで。案内はもう無理そうで、す…。」
「…ホントにね。これからはまた迷子に逆戻りさ」
「ほか、に…案内人を見つけるべき、ですね…」
段々と血の気が失われて青ざめていく彼の顔に対して、足元を濡らしてなおどんどんその容積を増していく血の朱色が奇妙なコントラストを描く。助からない。ジェラルドも、一織も。そのことは確実に理解しているだろう。それでいて二人は常のように冗談を飛ばしあう。明確に愛や恋と定義できるわけではないけれど、少なくともお互いがお互いを好んでいた者同士、別れを惜しむかのように。不意に一織がかがみこんで彼の唇に口づける。少しだけ眼を見開いて、しかしもちろん拒否することもなく口づけに答えてまだ血の付いていない左手でいつものように優しく、しかしいつもよりもゆっくりと震える手先で艶やかな黒髪を梳いてやる。
「どんな味、です、か…」
「血の味さ、慣れ親しんだ鉄臭い味だよ。案内人」
「…嗚呼、クソ。私、もです…最期のキスくら、い…貴女の味を味わいたか、った、ですが…」
「…何気取った台詞言ってるのさ」
「くは…なかな、か…さま、になって…でしょう…」
長い間ただ唇を重ねただけの口づけを重ね、やがてどちらからともなく顔を離す。次に口をついて出た言葉が二人して皮肉なのは本当に彼ららしい、そういえるだろう。少しの間肩を揺らして楽しげに笑っているもののふとジェラルドは表情を微かに改めておもむろに告げる。
「やくそ、く…覚えてくれてます、よね…」
「…勿論。」
「なら…たの、みます…このま、だと…やくそ、くはたせな、いから…」
もし自分が死にそうなときは殺してくれ。殺人鬼である彼女といつか交わした約束。そのことについて彼女に願う。キスのためにかがんでいた一織はのろのろと立ち上がって右手のP228を抜く。彼女の殺し方は左のP220を模した鈍器の筈だが。それに随分と間が開いている。ジェラルドは段々と思考力を奪われつつある頭を必死につなぎとめてそう考える。それが彼女なりの慈悲なのだろうか、だとすれば彼女から自分は好ましく思ってもらえていたのだろうか。おりしもぽつぽつと振りだした雨粒に撃たれだしながらそう考えて内心有り得ないと首を振る。所詮、人と「鬼」では住む世界が違い過ぎる。けれど、言うだけならタダだしどのみちこのまま言い逃げられる。それにこれまでずっとやられっぱなしだった彼女に最後位不意打ちの一撃を放ってもいだろう。だから、彼は回らなくなりつつある口で、血を時折吐き出しながらもささやきかけた。
「あのよ、への…むか、えが…てん、しでも…あ、くまで…もなく、おに、だった…とは。あなたの、こと…すき、でした、ひとお、り…。」
暗闇に飲まれつつある視界の片隅に彼女が微かに目を見開いている様子を捉えて口角を釣りあげる。奇襲成功だ、と満足げに微笑みながら、彼女の指に微かに力が加えられる様子を見る。ジェラルドが最後に見たのは少しだけ泣きそうにゆがめられ、いや、雨に濡れているせいで分からないが本当に泣いているのかも――(泣いてほしいとジェラルドは考えたが)――と真っ黒い銃口、それが赤く火花を散らすところだった。ほんの一瞬ののち、苦痛を感じて、しかしそれも一瞬の事、ジェラルドは闇に飲まれ、まったくの無になった。
一織はその額に自分の手によって弾痕が刻まれ,しかしそれでいてどこか満足そうに微笑んでいるように見える彼の死体を見下ろす。馬鹿だ馬鹿だとは思っていたがまさか鬼に告白するほどの馬鹿だったとは。
「…馬鹿」
彼女が彼の告白に答えることはなく、ただそう呟いて俯いていただけだった。どのくらいそうしていただろう、雨でずぶぬれになりながらそこを立ち去ろうとする。去り際に一人の少女が金髪を風のなびくままに雨にぬれる事すら厭わず横を駆けていく。その後ろからゆっくりと歩いてくる男の姿を認めて微かに目を見開く。ジェラルドに似た、スーツの男がジェラルドの言う所の腐れ縁、ザックだったからだ。無論ザックも一織を見知っていてすれ違いざまに問いを投げかける。
「…アイツは?」
「…案内してやったさ、これまで通りに。」
「…そうかい。極めつけの迷子が案内人を案内してやるとはね。これぞまさに皮肉、だね。…感謝しよう」
常のごとく、こんな時でも毒を吐いてからすぐに彼女の横をザックは通り抜ける。彼女が何をしたか、そしてジェラルドが何を望んでいたか彼は気づいていたのだ。だからだろうか、その声は少し、ほんの少しだけ感情を乱さないことを鉄則としている彼の声が少しだけ震えていたのは。
傘をさすこともなく、一織はいつものように当てどなくさ迷い歩く。彼女をなんだかんだと導いてくれた案内人はもういないのだから。そう考えてしまうと、雨に打たれ続ける現状ですら有りがたく思えてくる。今の自分の表情がどうなっているのか自分でもわからず、それを覆い隠してくれているだろうから。
「…馬鹿」
彼女の短く、それでいて重々しい、恐らくは彼女にしかわからないであろう様々な思いを込めた言葉は土砂降りの雨音の中に吸い込まれるようにして消えていった。