僕と先輩の七日間と永遠
この世界が、それまでの記憶をすべて持った状態で一秒前に誕生したかもしれないという説を、僕は覆すすべを持っていなかった。先輩は僕に、そんなマクロな次元の話をよく聞かせてくれた。それを聞くたびに、自分の矮小さや無力さをひどく痛感する。
先輩は細く薄紅色の唇に微笑みを浮かべて僕を見つめた。僕はそれを見つめるたびに、心の中で居心地の悪い棘がするするともぐりこんでくる気がしていた。
これは、無味無気力な人生を送っていた僕と、死に場所を探してさまよう自殺志願者の先輩の、七日間と永遠に至るまでの話である。
***
一日目。
僕は無味無気力な人間だ。高等学校に入学したその日でさえ、僕は何の感慨も、感情も抱くことなく、日々を消費しているだけだった。家族に不幸があったわけでも、人生に絶望するほどの孤独にあったわけでもない。むしろ、何も起きない、何の違いもほかの人生から見受けられないという種類の不幸にあったのかもしれない。
そんなわけで、僕は十五歳にして人生に見切りをつけてしまっていた。
普通の高校に入学し、自分に見合った専門の大学を見つけ、そこに送られてくる求人に従って就職をこなし、毛根と人生をすり減らしながら、あっという間に四十年を働き終え、息子家族に厄介がられながら汚物をまき散らして人生に幕を下ろす。それが僕の人生の末路であり、いわゆる『普通の』人生であると僕は思う。
そんな中で人々は、小奇麗な人間関係や時間の無駄としか言いようがない趣味を生きる糧と言い張り、凄惨な人生の仕組みから目をそらして自分を鼓舞する。僕にはそれができそうになかった。
僕の中で人生とは意味のないものとなってしまい、僕が死んだあとには何も残らないという寂しさが空しくて、僕は感動をすることも、何かに打ち込むこともなくなり、無気力状態となった。
たとえ、無意味な人生だとしても、すぐに人生を打ち切る気にはなれなかった。家族がいるからだ。
平凡な僕の家族は、母と父。二つ下の妹が一人。
母は専業主婦だったが、妹が小学校を卒業すると近所のスーパーにパートとして働きに出た。父は製鋼所で勤務しており、一週間に一日だけ休みをもらい、朝起きて仕事をして夜眠る生活と、昼まで寝て酒を飲んで夜眠る生活を単調なリズムで繰り返しているだけだった。
妹は中学二年生。思春期まっただ中で些細な悩みを苛立ちに変えて家族にきつく当たっている。僕には関係のない話だ。
だが、僕が仮に自殺をしてしまうと、この家族は平凡な家族ではなくなってしまう。人生のレールから転落した長男の名前は、この家族に一生付きまとい、普通な家族から不幸な家族へとその姿を変える。
だから僕は平凡に最後まで人生を全うするつもりだ。
何の意味もない人生、死んだら何もかもが消えうせる人生。そこにはただ無味無臭で膨大な靄のようなものがあふれているだけだった。
僕は学校にいる間の休み時間の大半を、図書館で過ごす。図書館は試験期間の付近ではない限り、数少ない利用者がいるほかは、静かな空気が充ちている。僕はその限りなく静寂に近い場所を好み、高校生があまり興味を抱かなさそうな古い外国文学の小説のページをめくっていた。
特に好きな分野の小説があるわけではないが、とりわけ誰も触れなさそうな本を選んだ。
そうして、僕は人生の暇つぶしをするのにいそしんでいた。
その時、僕は先輩と出会った。
先輩は図書館に居た。僕と同じように図書館の片隅にある本を読み、何も言わずに静かにしている。先輩は黒く長い髪で、背丈は男子の平均である僕と同じくらいだ。異常なほどの細身で、スカートから覗く、白く長い脚は蝋人形のような妖艶さを持っていた。
僕は先輩を図書館で見つけた時、声をかけたい衝動に駆られた。何かにここまで心を揺り動かされるのは、先輩が初めてかもしれない。それぐらいの衝動が渇望となり、僕の喉を内側から張り裂けようとしていた。しかし、僕は先輩に指一本触れることもできず、この日は完全下校の時間となり、僕は家に帰った。
夜、家にいるときずっと、僕の頭の中は先輩でいっぱいになった。
ただ外見が整っているからではない。彼女の持つ非日常に生きる幻想的なあり方に僕は惹かれていた。僕は先輩と近づくことを通して、僕という存在をもっと高尚で非凡なものにしたいのかもしれない。
僕はベッドに横たわり、暗い部屋の中で考える。
明日はどんな言葉で先輩に声をかけようか。
***
二日目。
先輩は図書委員であるらしい。その所作を見ていればなんとなくわかった。時折、貸出管理のカウンターの奥にある扉をくぐって作業をしている。
僕はそこに目をつけ、図書室の蔵書に関しての質問をすることにしたのだ。
「すみません。この本はこの図書室にありますか?」
僕は名前も聞いたことのない作者の作品を書いた紙を先輩に見せた。カウンター越しに並んで立つと、僕の胸は不規則に高鳴り、体の裏筋がじんわりと熱を持った。
「はい。こちらの資料室にございます」
先輩が指さすのは、カウンターの後ろにある扉だった。
僕は、狙い通りになった喜びと、その後どうしようという思いで緊張した。
先輩は僕を連れて後ろの資料室に入った。資料室は、人ひとりが通るのがやっとのほどの通路が並列に三本並び、その間を本棚がそびえたっていた。
先輩はどうぞ、という手のしぐさで、僕が好きに本を探してよいことを示した。
僕は本棚を指で追いながら、何気ない感じで先輩に問う。
「あの、昨日も図書室で本を読んでましたよね? どんな本が好きなんですか?」
先輩は感情の籠らない目で僕を見た。
そして、義務的に言葉を生成した。
「特に……ごめんなさい。あまり読書に興味はないんです」
それならばなぜ、図書委員をやっているのだろう。僕は疑問に思ったが、その言葉を飲み込んだ。
すると先輩は、僕のことはお見通しなのか、説明をしてくれた。
「私は知識がほしいだけなんです。その効率の良い媒体が本であるというだけで、人からの伝聞だったり、実体験から得られる学習でも問題はないんです」
その言葉に僕は納得した。先輩は読書のための読書はしない人だ。
時々、本を読んだことで頭がよくなったと思う人がいる。ある意味ではその通りなのだろう。しかし、読書するというのは、ほかの人が書いた文字列を目に通しただけである。読んだ内容を自分の中で分解し、再構成する。そしてそれを身に着けるには、おそらく本を一冊読むだけで膨大な時間がかかるのだろう。それほどまでの労力を覚悟して本を読んでいる人間は、おそらくあまりいない。
先輩は、そのことをわかっているのだろう。僕はそういう意図の言葉を先輩に返した。
すると、先輩は、その薄い唇に初めて笑みを浮かべた。
「君はそう考えるんだね。面白い」
僕はその瞬間、心に大きな穴が開いた気がした。その穴は、空っぽで何もない。そして、そこに入るべき人、何で満たされるべきかはわかっている気がする。
「話し相手に、なってもらってもいいですか?」
僕は素直に思ったことを口にした。
先輩は表情をそのままに、風に吹かれたかのようにうなずいた。
「先輩の人生はどうですか?」
僕はずっと心に秘めていた疑問を、先輩にぶつけた。
僕と先輩は、資料室にイスを並べて、狭い通路で向かい合った。至近距離、さえぎるものも邪魔する者もないこの空間は僕と先輩の秘密の対談部屋だった。
「私の人生は酷いものよ。未来がない。未来がなければ現在がなく、そうすると過去までなくなってしまうのよ」
先輩はよくわからないことを言う。
「それはどういう?」
「人生は時間の上に乗っかったひと筋の川なのよ。川はある一定の方向に向かって流れ、さかのぼることはできない。川の上に乗った小船が、私という存在」
僕はうなずいた。その手の考えなら僕もよくわかる。
「でも、ここで未来が無くなってしまったら。それはつまり、川の流れがどこかで止まってしまったら。水は流れずにその場にとどまり続ける。水たまりには絶えず上流から水が流れ込み、やがてそこは大きな湖になる」
「そうすると、どうなるんですか?」
「川ではなく湖になったそこには、流れは生まれない。過去も未来もなければ、ずっと続く現在があり続けるだけ。そんなものは現在と呼べる代物ではない。そしてそれは人生ではなくなり、やがて小船は腐り底へ沈んでゆくの」
「はぁ」
先輩はどういう意図でそれを言っているのかわからなかった。
だが、先輩も僕と同じ、人生に見切りをつけた人だということはわかった。
そして、僕とは決定的に違う人物であることもわかった。
「私は自殺志願者。死に場所を探し求めているの。君はどう?」
「僕は、自殺はしない。平凡に生きて平凡に死ぬ。そうしないと、僕じゃなくなってしまう」
「そう」
先輩を表情を変えず、そういった。
これが僕と、先輩の初めての対話だった。
***
三日目。
先輩は未来がないらしい。それによって人生を憂い、自殺を求めている。
僕は切なくなった。先輩が僕の中からいなくなってしまう気がして、それを引き留めたくなった。
今日も僕は図書館へ向かった。そこで先輩を見つけると声をかける。
二言三言、言葉を交わして、昨日のように資料室へ向かう。
「君は海外旅行に行ったことはある?」
先輩は僕にそう尋ねた。
答えはノーだった。
「そう。では、君は海を越えた地を知らないわけね。もし、この地球上には日本列島しかなくて、ほかの海外の諸国は大人が作ったハリボテだけの存在だとしたらどうする?」
また先輩はスケールの大きい話をしはじめた。
「それはおかしいですよ。だってこの日本の自給率は低いんだし、街には外国産の製品があふれてる。日本は加工貿易で栄えたんだから、少なくとも海外には国が存在しているはずです」
僕は、なけなしの知識を振り絞って反論した。
「だから、その貿易なども大人が作ったごっこ遊びだったら? という話よ。つまり、君はその眼で海外を見たことがなく、その体で海の向こうに渡ったことはない。せいぜいテレビや新聞などから得られる情報でイメージし記憶している」
「はあ」
「幼児がサンタクロースを信じているのと同じで、君は海外の国々を信じているのかもしれない」
先輩の独得な理論に付き合っていると、本当にそうなのかもしれないと思ってしまうから不思議だ。
「じゃあ、本当に存在しないんですか?」
「それは君次第だよ」
そういうと、いつものように薄い笑いを浮かべた。
僕はその顔に見とれてしまう。
「この世界の中心にいるのはまぎれもない君だ。君の目が映し出す世界を脳が記憶し、君の頭の中で世界が再構成され、誕生するんだ。その世界は君の中でずっと続き、終わることのない」
「僕が死ぬまで?」
「仮に君の生命活動が終わっても、世界は終わらないんだ。そうだろう?」
「え、あのそれはこの世界っていうか、いわゆる現実世界なのか、僕の脳内世界ということなのか。どっちですか?」
「どっちもさ。生命活動が終わっても、君の世界は終わらない」
その口ぶりに、僕はむきになって反論する。
「でも死んだら脳は機能を停止します。そうすると考えることもできなくなりますよね?」
「君は脳の働きを知っているのかな?」
「ええ、まあ、いわゆる医学的な意味なら……常識の範囲程度には」
僕は急に不安になってきた。
「でも君は脳が本当に記憶を構築している様を見たことはない。そうだろう? 本や伝聞で知った知識でつじつま合わせをしているだけに過ぎない。もし、今君が見ている世界はすべて夢の中で、現実の君は病院のベッドで植物人間状態かもしれない。それなのに、脳の中で何が行われているのか確証を持って話せるのかしら?」
先輩の言っていることは矛盾だらけだ。だってそんなことを言い始めたら、何が正解かもわからない。
「じゃあ、何が正しいんですか?」
「君の中の基準。あるいは正義、あるいは現実。それを定かにすればいい。そこで線引きをして、ここまでは真実。それ以降は虚構。そう区別すればいいだけよ」
先輩は歌うように言葉を紡いだ。
僕は納得はしなかったが、先輩がどういう考えを持っているのかを知ることができたような気がした。
「先輩の基準ってなんですか?」
「私の基準は、記憶がすべて。認識されたものは存在し、忘れ去られたものは初めから存在していない。たとえ、痕跡を認められたとしても、それは私の生きた証ではないの」
僕は、ハッキリと先輩の意図をつかむことができなかった。
先輩は未来がないといった。先輩は自殺志願者といった。
そして、先輩は生きた証を求めている。
では、生きた証を見つけることができれば、先輩は未来に希望を持つことができるのではないだろうか。
僕は先輩を失いたくなかった。だから、彼女が自殺をやめてくれるにはどうしたらいいかを考えた。
生きた証。
それはいったい何なんだろう。
***
四日目。
この日も僕と先輩は、図書室の奥。誰も知らない資料室で二人、言葉を交わしていた。
「先輩は休みの日に何をしているんですか?」
この日は金曜日。明日は土曜日で学校が休みだ。
「私は探しているよ。主に今は本から探している」
先輩は無表情のまま答えた。
探しているのは、自分の死に場所だろうか。
いわゆる死に場所というのは何なのだろう。
仮に、彼女は重い病気を患っていて、余命あとわずかだとして。病死が嫌で自殺を求めている。しかし、このまま死んでしまうとこの世にやり残したことがあって死ぬことができない。としたら。
やり残したこと。記憶に残るようなこと。それを彼女は求めているのかもしれない。本を読んでいるのは、もしかしたら、ほかの人の残した記憶の媒体だからだろうか。
有名小説家の中にも、若くして死を選んだ者はいる。しかし、その人物は、死してもなお、作品が人々に読み継がれ、記憶してもらっている。それを目指しているのだろうか。
「あの、先輩っ」
僕はイスから立ち上がり、先輩の隣にある本棚に手を伸ばそうとした。
しかし、僕は狭いスペースに積まれた本棚に足をぶつけ、バランスを崩してしまった。当然、目の前にいる先輩に覆いかぶさる形で、床に倒れこんだ。
とっさに手をついて立ち直ろうとしたが、運悪く僕の右手の掌が先輩の胸部を鷲掴みにしていた。
「君は……」
先輩は感情の籠らない瞳で僕を見つめる。
誰も知らない空間。二人きりの世界で、僕は先輩を押し倒そうとしているようにしか見えなかった。しかし断じて、僕は先輩に暴力を振るおうと思ったわけではなかった。
慌てて飛びのき、先輩を助け起こした。
「すみません。足をぶつけて……」
「いいのよ。気にしなくても」
先輩は僕を許してくれたのだと思った。
しかし、先輩は僕に冷たい口調で言葉をぶつけた。
「性行為がしたいのならすればいいわ。今までも、私に子宮がないことを知った男が喜んで私の前に現れた……。私は、もう何も関係がないのよ」
僕は何も言えず、その場に呆けてしまった。
「人がなぜ生まれて、なぜ生きているか君にはわかる?」
僕は何も答えられない。
「生命のバトンをつなぐため……後世に子孫を残すことが人間の大命。しかし、その流れから逸脱した者はもはや人間とは呼べないのよ」
僕は何もできなかった。
先輩が僕を残し、資料室を去った後も、僕はその場から動くことはできなかった。
***
五日目。
僕は家で一人、ベッドによこたわり布団にくるまっていた。
頭の中で、昨日の先輩の言葉が繰り返し再生される。
たとえ、子供が産めなくても、充実した人生を送ることはできる。それは断じて言える。しかし先輩の信念、先輩の言葉を借りるなら、先輩の中の基準では、子供を産めないというのは、耐え難い不幸なのだろう。
ゆえに未来がない。
子孫を残せないなら、自分が生きた証が後世に伝わらない。
それなら、今という現在も意味を持たず、ただ死に場所を探すのみ。
先輩の苦しみは、人間の生命活動の大義を失ったことと、先輩の中の基準では記憶に残らなければ存在していないのと同じこと。自分が死んでしまえば、あとには何も残らない。自分のDNAを刻み込んだ子孫さえも、いない。
僕は頭の中で、当たり前に子供をつくるとおもっていた。それが世間一般では普通とされていると思っていた。しかし、それがどんなに困難で運を要することなのか、僕はそんな当たり前のことに気づかず、十分な幸福を享受しているにもかかわらず、人生をバカにしていたのだ。
本当のバカは、僕自身だ。
しかし、バカは馬鹿なりに、間違ってもいい。
正解を出せなくても、だれも僕を非難しないだろう。なぜなら、今までもずっと間違い続けてきたから。
僕はやっぱり先輩を失いたくなかった。
初めはただの憧憬だったかもしれない。自分をもっと高尚な存在へ高めてくれると思っていたかもしれない。すべて自己満足かもしれない。
けど、先輩を失いたくないという気持ちは本物だ。
自分の中の正義が、先輩を求めている。
先輩をこのまま死なせてはいけないと、ほかでもない自分自身が言っていた。
一般的な、平凡な、普通な、自分。そんなものはいない。馬鹿で愚直で惨めな自分が真実だ。
たとえ間違いだらけでも、そう信じたものが正解に変わるのだ。先輩はそう教えてくれたはずだ。
気が付くと、僕は学校に来ていた。
今日は土曜日。部活動に励む生徒は校舎にいるものの、その生徒数は平日よりもはるかに少ない。気が付けばもう夕暮れだった。それほど長い時間、僕はベッドの中で悩んでいたのか。
僕は迷いない足取りで、図書室へ向かう。鍵はかかっていない。しかし、中には誰もいなかった。
僕はカウンターの奥の、資料室の扉に手をかける。
だが、この扉は固く閉ざされていた。
「先輩、聞いていますか?」
僕は扉に向かって叫んだ。
中からは物音一つしない。
「明日の午前十時。駅の前に来てください」
僕は構わず続けた。
「そして、一緒に街を歩いてご飯を食べましょう。そのあと、この街で一番大きな本屋に行って、だれも見たことのない本を二人で選んで買いましょう。夕方には古い映画館で一番マイナーな作品を眺めて、二人で批評しながら帰りましょう。夕食は、先輩の一番好きな食べ物を食べましょう」
僕は哀願するように、挑戦するように言った。
「そして、また一緒にお話しをしましょう」
よろしくお願いします、と。僕は心の中で言い、頭を下げた。
その後、僕は家に帰った。
***
六日目。
僕は一番気立てのいい服装で駅の前に立っていた。
時間は午前九時半。しかし、僕の目の前には、先輩が静かに立っていた。服装は、いつもと同じ、制服だった。
「ありがとうございます」
僕はお礼を言ったが、先輩は首を振った。
「私はただ、十時に駅の前に来て、歩いて昼食を食べに行き、本屋で本を買って映画館で映画を見て、夕食を食べて帰ろうと思っていただけよ」
僕は心の中で、笑みを浮かべた。
「奇遇ですね。僕もそうです」
「そう」
僕たちは、並んで歩き始めた。
だれも見向きもしないような作品は、本当に誰も読まなければ命を持たないのだろう。
しかし、こうして僕と先輩が手に取ったことにより、この作品には命が吹き込まれたのだ。そして、すべての命はそのDNAを、後世に伝えるために存在を続ける。僕たちがこの作品を手に取ったことで、ほかの誰かの手に、この作品が渡れば、新たな命は続いてゆく。
だから僕は、先輩と一緒に、新たな命をはぐくむ。
それが人間としてでなくても。記憶として、存在として、生かしてゆく。
そうすることが、生きた証になると思ったから。
映画館には僕と先輩のふたりだけだった。
誰かが映写機や照明を操作しているのだろう。しかし、僕にはそういう人が見つけられない。だからきっと、存在していないのだろう。ハリボテの海外と同じで、目に見えないから存在はしていない。
ひとりでに上映を始める映画館の中には、僕と先輩のふたりだけだった。
その薄ぐら闇のなかで、先輩は僕の手を握った。
横眼で先輩の顔をうかがうが、いつもの無表情がそこにあるだけだった。一心不乱にスクリーンを見つめる横顔には、僕の姿は映らない。
しかし、僕たちの手は確かにつながり、お互いの体温を感じることで、お互いの存在を証明しあっていた。
夕食はファーストフードがいいと言われた。
先輩はこういう店で食事をしたことがなかったらしい。
僕は一生食べられないような高額な食事も予測していただけに、拍子抜けする気持ちだった。食べなれた味のハンバーガーだったが、先輩には初めての体験のようだ。
そうやって、いろんな初めてを体験してゆくのだ。
世界のすべてを、この身で体感するには、あまりにも時間が足りない。しかしそれは、一生かかっても達成することのできない至高な目標のように思えた。目標があれば生きてゆける。僕はそう思った。
僕たちはお互いに言葉を交わして、街を歩いた。
あたりはすでに日も暮れ、月が夜空に浮かんでいた。今日は雲一つなく、風もない、いい夜だ。
僕は夜の空気が好きだった。少し焼けたような香りのする夜の空気は、いつも僕を特別な気持ちにさせる。
そして、僕は最後にある提案をするのだ。
「行きたい場所があるんです」
先輩は首を傾けて僕を見た。
「いいですか?」
「私も、あなたの行きたいと思った場所に行きたいわ」
僕が先輩を連れてきたのは、この街が一望できる展望フロアのあるビルだった。辺り一面ガラス張りのこの建物は、この街の中で一番高く、さえぎる物のない夜景を僕たちに見せた。
二人してガラスに張り付き、眼下に広がる景色に見とれる。
「この街の中に、僕たちはいたんですよね」
「そうね、ここから見ると、ただの光の集合体にしか見えないけれど、その一つ一つには生命が渦巻いている」
先輩はそういうと、儚そうに息を吐いた。
僕はそれでも、言葉を出し続ける。
「ここに来れば、すべてが見えます。鮮明で煌々としたこの景色は、だれの記憶にも残ります。だから、もしも忘れそうになったときは、ここにきて先輩を探し出します。だから、僕と一緒に生きましょう。生きた証は、死んでもこの世に残るものは、きっと見つかるはずです。一緒に探しませんか?」
僕の精一杯の言葉だった。
先輩は、驚いたように僕を見つめる。
「ええ。嬉しい。君となら、ずっと一緒に居られる。これからも、お付き合いをお願いします」
先輩は、初めて笑顔を僕にくれた。
口に浮かべる笑みではなく、笑顔。
それはこの薄ぐら闇の中でも鮮烈に輝き、僕の心に刻み込まれた。
大丈夫。先輩と僕なら、これからもずっと一緒に居られるだろう。
***
七日目。
僕は幸せな気持ちで朝を迎えた。昨日の出来事はまぎれもなく僕の人生で最高の幸せであり、今後の人生を大きく切り替えることとなった。
それまで無味無気力な価値のない人生だった物が、先輩と世界を知りゆく遥かな旅になるのだ。これからは先輩とともに寄り添い、二人で人生の意味を探すに違いない。それは何とも幸福で切望した人生の本来あるべき形であるように思えた。
たとえ先輩と子供を作ることができなくても、僕には関係なかった。僕と先輩が同じ時間を過ごしたことは確かな事実であり、それは世界のどこかに必ず刻まれているはずなのだから。
「おはよう」
僕は朝、朝食の席であいさつをした。普段、一言も朝食の席でしゃべらない僕を、母は驚いた眼で見つめていた。
「おはよう。なにかいいことがあったの?」
驚き交じりだが、優しい声で母は尋ねる。おそらく、僕は顔がにやけているのだろう。それもそのはずだ。僕の中で人生の意味が百八十度切り替わり、灰色のモノトーンから虹色の極彩色に色を変えたのだから。
「……おはよう」
不機嫌な顔で携帯電話を抱えていた妹でさえも、あいさつをした。どうやら僕に感化されたらしい。僕の放つ幸福なオーラは空気を渡り、周囲にいる人間にも伝播するのかもしれない。
僕は笑みを隠しきれなくなり、そのまま無言でうなずいて朝食を食べた。
外は僕の気持ちを反映させたのか、快晴だった。雲一つない空は、はるか遠くまで見透かせることができる気がした。
おそらく、僕の人生はこの時点、この瞬間が最高潮だった。このフレームだけを切り取った写真があるならば、僕はそれを額に入れて常に目の当たる場所に飾りたいと思う。
それほどの絶頂、それゆえの絶望。
それはつまり、今後の人生で、今以上の幸せを享受することができない事を指示していた。
学校の前に来た時、違和感に気が付いたが、僕は気にせず玄関をくぐって教室に行こうと思った。しかし、校門の前に集まる人影の中に、警察が混じっていることが目を引いた。
あたりには警察車両に加えて救急車がつめかけており、生徒たちは興奮した様子でざわめきあっていた。その状態は獲物に群がる虫の軍勢のように見えて、背筋が寒くなった。
僕は人ごみに吐き気を催しながらも割り入った。あれほど幸福だった僕の心は、すでに疲弊してしまった。早く先輩に会って僕の心の蝋燭に再び火をともしてほしかった。
だが、僕の耳に入り込んできた煙のような噂話が、僕の気を引き付けた。
「飛び降り」
それはつまり、何かが高いところから低いところへ移動したのだろう。
「誰が?」
それはつまり、飛び降りたのが人間であるということだろう。
「三年のあの人」
それはつまり、その人間は三年生であるというのだろう。
僕は駆けだした。
人ごみをかき分けて、騒ぎの中心部である校庭の前、校章が掲げられている校舎の真下に迫った。
ざわめきあう生徒たちは全員がスマートフォンを掲げて写真を撮っていた。全員だった。すべての人間が顔に笑みを浮かべて写真を狂喜乱舞のごとく撮っていた。僕はその様子にひどく嫌悪感を抱いた。
その先には怒号を飛ばす警察官がいた。市民の平和を守る警察官は、鬼のような形相で獣のように叫んでいる。その姿はまるで狂人のようだった。
僕は先輩を見つけた。
この騒ぎの中心部で。
先輩は真っ赤な死に装束をまとって、自殺を完遂していた。
彼女の顔には、何の感情も浮かんでいない。ただ、安らかな表情で眠るように横たわっている。天を仰ぎ、手を胸の前で組んでいた。体は学校指定のセーラー服に、彼女の体からあふれ出た真っ赤な鮮血が彩りを加えて、燦々と咲き誇る真赤な花束に抱かれているようだった。
彼女の周囲には、だれもが犯しがたい聖域が広がっていた。誰もが近づけず、遠巻きに眺めるしかなかった。それは僕にも適用されるようで、最愛の人がそこにいるにもかかわらず、僕は手を伸ばすことすらできなかった。
こうして、先輩は僕の目の前で、人生をやめてしまったのだ。
数日後、僕は図書館で先輩の遺書を見つける。
それは、彼女の精密な字体で綴られた、僕へ向けてのラブレターであった。
最愛なる君へ。
私は自殺志願者でした。それは、初めて君に会った頃では、自殺をすることが不可能だと思っていたからです。自殺志願者はあくまで志願者でしかなく、自殺者ではありません。
私は人生の意味を探していました。これまで意味を見出すことができなかったのは、自分が死んだ後に残るものを見つけられなかったからです。もしも、人生の意味を見つけることができたならば、私は喜んで人生を終えようと考えていました。
そして君と出会いました。
君は不完全で、虚構まみれで、稚拙で、格好つけでした。
それでも、私は君を愛おしく思います。
私は君の中に、人生の意味を見つけました。
君は自殺志願者ではありませんでした。
君は人生を肯定していました。たとえ、口や態度で逆を指示していても、君は人生に愛着を持っていました。だから私は君を信じます。
私を君の中で生きさせてください。
私を君という人間の中に存在させてください。
それが、わがままな私の、最後であり最初のお願いです。
私は君とずっと一緒に居られることを幸福に思います。
どうか最後まで、私たちの幸福を持って生き続けてください。
私は君を永遠に愛します。
ありがとう。
この作品に目を通していただき、ありがとうございました。
おそらく、ここを読んでもらっているということは、本編を通して見ていただいたんだと思います。
この作品をきっかけに、些細なことでも何か感じて考えてくれたらうれしいと思っています。
短編のくせにそこそこ分量ありやがってって感じですが、ここまでありがとうございました!