久しぶりの再会。
駅を降りると、懐かしい匂いがした。その見慣れた地味な風景は、僕がここをでていくときとなにひとつ変わっていなかった。バスのロータリーの方に歩いていくと、約束通り、太陽が車で迎えに来てくれていた。
車の助手席に乗り込むと、「久しぶりやなぁ」と、太陽は懐かしそうに言った。
太陽というのはニックネームで、お酒を飲んでもいないのに顔が赤いところからそうつけられたのだけれど、最近では本名よりもニックネームの方が知られるようになってきていて、なかには彼の名前をほんとうに太陽だと信じ込んでいる人間もいるくらいだった。
「ほんと、久しぶりだよね」と、僕は言った。
太陽に会うのは実際にすごく久しぶりのことだった。最後に会ったのは先輩の結婚式があった去年のことだから、かれこれ一年近くが経っていた。一年振りに会う太陽は、仕事疲れのせいか、以前会ったときよりもだいぶ頬のあたりがやつれてしまったように思えた。回りの友達から彼が仕事のことで色々苦労しているらしいという話は聞いていたけれど、実際に彼の顔を見てみて、大変なんだろうなぁ、と改めて感じた。
「どう?仕事の方は?」と、僕は尋ねてみた。
すると、彼は露骨に表情を歪ませて、
「ほんま、やってられへんで」と、答えた。
「週六回、朝から晩まで働いて、給料はたった十万やで。ほんま、やってられへん」
彼は続けてそう言と、何が可笑しいのか、愉快そう笑った。
その表情を見ていると、案外彼はそういう過酷な生活を楽しんでいるようにも思えてきた。
「でも週六回働いて、十万はキツイね。どこか他で働いた方がいいんじゃない?」
と、僕は試しに言ってみた。
月十万といえば、僕がアルバイトで稼ぎ出す金額と同じレベルだった。しかも、僕の場合は週四回から五回の労働ですむけれど、彼の場合は週六回、朝から晩までみっちり働かなければならない。ときには徹夜の作業になったりすることもあると聞くから、その労働条件は僕の想像を絶するところがあった。
「…でもまあ、勉強させてもらって、お金までもらってると考えればなぁ」
と、太陽は考え深げに答えた。
太陽は大学を卒業してから、個人経営の建築事務所で働いている。建築という業界は下積みの期間が長いらしく、彼のような大学を卒業したての人間は、どうしても働いているというよりは、働かせてもらっているという感じになってしまうみたいだった。
「…大変なんだね」と、僕は何て言ったらいいのかわかなくてそう言った。
すると、彼は、
「ほんま大変やで」と、答えた。
それから、
「吉田の方はどうなん?」と、訊いてきた。
僕の方はといえば、大阪の大学を卒業してから、東京にでて、アルバイトをしながら作家を目指すという生活を送っていた。将来の保証がないことや、回りに知り合いが少ないということを考えると、それなりに大変な部分もあったけれど、それでも太陽に比べればいくらかはマシなのかもしれなかった。
「どうなん?小説家には成れそうなん?」
と、太陽は横目でちらりと僕の顔を見ると、ポケットからタバコを取り出して、それに火をつけながら言った。
「…この前小さな公募で賞を取ったよ」と、僕は答えた。
「へー、マジで?すごいやん」
「と言っても、ちっちゃな賞だよ」
と、僕は口元で弱く微笑しながら答えた。
「でも、雑誌とかに掲載されんちゃうん?」
「まあ、そうだけど、誰も読まないような小さな雑誌だからそんなに大したことないよ。小説家成るにはもっと大きな賞を取らなきゃね」
「そうなんや。…で、大きな賞とかには投稿してんの?」
太陽はそう言ってから、思い出したようにタバコを吸った。
「この前一本投稿した」
「どうなん?いけそうなん?」
「うーん、何ともいえないね」
「…取れてるといいな」
太陽はそう言うと、タバコの煙をゆっくりと吐き出した。
「まあね」
「賞取ったら、何かおごってや」
「もちろん、何でも好きなものを」
僕はそう言ってから、少し笑った。太陽も少し笑った。
太陽は吸い終わったタバコを灰皿に捨てると、窓から駅の入り口の方へ視線を向けた。もう約束の時間は過ぎているというのに、まだそこに池ちゃんの姿は見えなかった。もうひとり待ち合わせ予定の池ちゃんは、大学時代の友人で、彼は大学を卒業したあと、アルバイトをしながら公務員を目指すという生活を送っていた。
「池ちゃん何してんの?」
「知らん。池田のアホ」
太陽は笑いながら言った。
僕も何となく可笑しくなって笑った。
すると、まるで僕たちが笑っていることを察知したかのように、駅の入り口の方から池ちゃんが歩いてきた。池ちゃんはべつに走りもしなければ、急ぎもしなかった。遠目ではわからないのだけれど、池ちゃんの顔は結構疲れているように見えた。
やがて池ちゃんは車のドアを開けると、後部座席に腰を下ろした。池ちゃんは車に入ってくるなりに長いため息をついた。それから、「あー、しんどかったわ」と、くたびれた声をあげた。
「何がしんどかったわじゃ、ボケ」と、太陽が開口一番に言った。
「…ちゃうねん、俺これでも急いで来てんで。俺、今まで学校やってんから」
「関係ないんじゃ」と、太陽がまた笑いながら毒づいた。
池ちゃんはアルバイトの合間に、週三回程公務員の専門学校に通っているみたいだった。
僕は後部座席を振り返ってから、「久しぶり」と、言った。その声で池ちゃんははじめて僕の存在に気がついたらしく、
「おお、久しぶりやな」と、ちょっと驚いたような声で言った。
「もう、試験の結果わかったの?」と、僕が尋ねてみると、池ちゃんはいくらか困ったような表情を浮かべて、
「まだやねん。明日やな。結果がでるのわ」
と、不安そうな声で言った。
池ちゃんはもう既にいくつか内定をもらっているらしいのだけれど、まだ本命のところの結果がでていないみたいだった。
「受かってるといいね」と、僕は励ますように言った。
「絶対落ちてるわ」と、横から太陽がちゃかした。
その言葉に対して、
「なんでお前そんなこと言うねん」
と、池ちゃんは本気で嫌そうな顔をした。
すると太陽はまた面白がって、「絶対落ちてるわ」と、繰り返していた。
僕はそんな二人のやりとりを眺めながら、何故だか懐かしさが込み上げてきた。学生のときと何一つ変わっていないその感じがひどく愛おしくもあった。
「で、これからどうすんの?」と、池ちゃんが思い出したように尋ねてきた。
「一応、石川あたりでバーベキュウでもしようって話になってるんだけど」
僕はほぼ一年半ぶりくらいに大阪に戻ってきたのだけれど、四年間一人暮らしをしていた大学あたりの場所が懐かしくて、みんなで集まろうと提案したところ、じゃあバーベキュウでもやろうかという話になったのだ。
「じゃあ、早よ準備せなあかんやん」と、池ちゃんは忠告するように言った。すると、また太陽が冗談半分に、「わかってるわ。お前が遅れたんじゃ、ボケ!」と、言った。
池ちゃんはいちいち相手にするのが面倒くさくなったのか、今度はあっさり無視していた。
近くのスーパーで、適当にバーベキュウのための買い物をすませると、僕たちはその足で石川に向かった。石川というのは大学の近くを流れている川のことで、僕たちは学生の頃、講義をさぼってはその原っぱでぼんやりしたり、みんなでサッカーをして遊んだりした。
石川の河川敷に降りると、橋の下あたりで大学の演劇部らしい集団が発声練習で大声をあげていた。他にも小さな子供連れの家族がちらほらいたり、犬の散歩をさせているひとたちの姿が目についた。
反対側の河川敷では小学生くらいの子供達が野球をしていた。いつの間にかあたりは夕暮れの光に包まれていて、遠くの空は口に含むと甘い味がしそうなやわらかなピンク色に染まっていた。山の中腹あたりに太陽の光が赤く美しい光を滲みませながら沈んでいこうとしているのが見えた。
「他のみんなはどうしてんの?」と、池ちゃんがさっき買った食料品を近くの芝生の上に下ろしながら言った。太陽はちらりと池ちゃんの方へ視線を向けると、
「さあ、もうすぐ来るんちゃう」
と、気のない声で答えた。「仕事終わってから車で来るって言ってたで」
「…そうなんや」と、池ちゃんは頷くと、しばらくの間何か考えていたけれど、「そういえば和華ちゃん、車買ったんやんな」と、呟くように言った。
「何か和華ちゃんが車持ってるなんて変な感じするわ」
と、池ちゃんは首を傾げながら言った。
「今頃、走りやになってるで」と、太陽は笑いながら言った。
和華ちゃんというのは、サークルで知り合ってからずっと仲の良かった女友達で、彼女は植栽関係の会社に就職して働いている。
確かに池ちゃんの言うとおり、彼女が自分の車を持っているというのは変な感じがした。でもそれ以上に、彼女が会社員をしているということに違和感を覚えた。僕はフリーターで、学生のときとそれほど変わらない生活を送っていたから、まわりのみんなが社会人であるということに、いくらか戸惑いを覚えてしまうところがあった。
結局、和華ちゃんがやってきたのは、バーベキュウの準備が全て整ってからだった。和華ちゃんの姿と一緒に佳代ちゃんの姿もあった。彼女もサークルで知り合ってからずっと仲の良かった女友達で、彼女は花屋さんでアルバイトをしている。
彼女は大学を卒業してから一度アロマテラピー関係の会社に就職していたのだけれど、色々と事情があってその会社を辞めてしまっていた。
「ごめん。ごめん。」と、和華ちゃんはその可愛らしい声で謝った。彼女の声はやわらかいな、と僕はいつも思ってしまう。「ほんまはもっと早く来れるはずやってんけどな、ひとつ仕事が終わらんくてな、それで遅れてしまってん。それに佳代ちゃんも迎えに行かなあかんかったしなぁ…」
「ごめん」と、和華ちゃんの横から佳代ちゃんが謝った。
「どうせやったら一緒に行こうと思ってな、和華ちゃんに車で迎えに来てもらってん。だけどな、こんなに遅くなると思ってなくてなぁ。ごめんな」
何はともあれ久しぶりにみんなに会えたのは嬉しかった。仕事の関係で結局これなかった人間もちらほらいたけれど、これで大学時代に仲の良かった人間がほぼ揃ったことになった。明日は土曜日で休みだし、今日はみんなある程度のんびりすることができる。学生の頃あんなにあった時間が、今は驚くほど限られものになってしまっていた。
缶ビールで乾杯してから、おのおのに紙皿に肉を取って食べた。その頃にはあたりはすっかり暗くなっていて、頼りになるのは、太陽が持ってきたキャンプ用の簡易照明だけだった。
飲み食いしながら、それぞれの近況について報告し会ったけれど、なかでも一番驚かされたのは、和華ちゃんが結婚するかもしれない、という話だった。
「まだ具体的に決まったわけじゃないで」
と、和華ちゃんはいいわけするように言った。
「でも、石川くんにだいたいそんな感じのことを言われたんでしょ?」
と、僕が訊くと、和華ちゃんはお酒のせいもあるのだろうけれど、頬を赤らめて照れ笑いをした。それからふっと彼女は真剣な表情を浮かべると、
「でもなぁ、ちょっと迷ってんねん」
と、弱い声で言った。
和華ちゃんが今の彼とつき合いだしたのは大学二年の半ば頃ことだから、もうかれこれ四年のつき合いになるのか、と僕は思った。僕は今ままでそれほど長く誰かとつき合った試しがなかったから、その期間の長さに驚きを覚えたし、また羨ましくもあった。
今の感じでいくと、僕が結婚するのはいつのことになるのだろう、とちょっと途方に暮れるような思いがした。
「何を迷ってるの?」と、佳代ちゃんが訊くと、うん、と和華ちゃんは頷いてから、「大したことじゃないねんけどな」と、答えた。
「何かな、彼としては将来は地元に戻って何か自分で仕事がしたいみたいやねん。でもな、わたしはこっちに親もおるしな、できればこっちに残って親のことを見ててあげたいなって思ってんねんな。…だからな、どうしようかなって思っててな」
「そっか」と、僕は頷いた。結構難しい問題だな、と思った。
「イッシーにそのことは話してみたの?」と、佳代ちゃんが続けて尋ねると、和華ちゃんはいくらか神妙な顔付きをして頷いた。
「そうやって言ったらな、じゃあ、今から頑張って公務員になろうかなって言い出しとる。それやったら大阪でずっと仕事続けて行けるし、将来も安定するからって、趣味にも力入れられるしって」
「だったら、それでいいんちゃう?」と、池ちゃんが言うと、
和華ちゃんは池ちゃんの方へ視線を向けて、
「でもな、本人に他にやりたいことがあるのに、わたしの都合でそうしてしまってもいいのかなって思ってしまうねん」
と、声のなかに迷いを滲ませながら言った。
「太陽はどう思う?」と、僕が振ると、太陽はいくらか複雑な表情を浮かべて、「本人がそれで良いって言ってんやったらいいんちゃう」と、答えた。
どうやらこの話に結論は見出せそうになかった。あとは本人が判断して決めるしかないことだった。それに、正式に決まったわけじゃないにせよ、結婚が決まったということは良いことだと思った。
「でも和華ちゃんが羨ましいわ。だってな、うちらのなかで一番最初に運命のひとと巡り会ったわけやで」と、佳代ちゃんは憧れのこもった眼差しを和華ちゃんの顔に注ぎながら言った。
すると、和華ちゃんはもとの明るい微笑を口元に広げて、
「…運命ってそんな大げさなものじゃないで」と、照れくさそうに答えた。
「みんなはどうなん?最近いいひとできた?」
と、佳代ちゃんはそう言いながら、反応を伺うように周囲を見回した。
僕は佳代ちゃんの視線を避けて、顔を俯けなければならなかった。他のみんなもだいたい僕と似たような感じだった。
僕の恋愛の成果は東京でも相変わらずあんまりパッとしていなかったし、池ちゃんにしても最近別れたばっかりだった。太陽に関しては大学四年のときに出来た彼女がいるはずだったけれど、卒業してからどうなったのか詳しいことはよくわからなかった。でも、何も言わないところを見ると、あまり上手くいっていないのかもしれなかった。
「みんな頑張なあかんで」と、佳代ちゃんはみんなの反応を後目に、妙におどけた調子で言った。
「自分はどうなん?八木くんとは上手くいってん?」
と、横から池ちゃんがちゃかすように尋ねると、
佳代ちゃんは複雑な感じの笑みを口元に浮かべて、
「まあまあやね」と、答えた。
佳代ちゃんが以前交際していた男と寄りを戻したという話は聞いていたけれど、その話を聞いて僕はやれやれと思ったものだった。佳代ちゃんとその男は以前、別れ際にひどくもめたことがあったのだ。一時はほんとうにヤバイところまでいって、(彼女が別れたいといっても、男がなかなか別れさせてくれず、ほとんどストーカーの一歩手前までいった)本人もそうとう懲りたはずだったのに、女心はわけがわからないな、と僕は感じた。
気がつくと、さっきまであんなにあった食べものはあらかたなくなってしまっていた。僕は紙コップにウーロン茶を注いで飲んだ。
和華ちゃんもウーロン茶が欲しいと言ったので、持っていたペットボルト入りのお茶を彼女のコップにも注いでやった。
周囲の空間は青く透き通った闇に包まれていた。空に視線を向けると、南の空の高い位置に三日月が見えた。銀色の淡い光が夜空にぼんやりと滲むように広がっていた。月の明かりが強いせいか、回りに星は見えなかった。
近くの茂みのなかで、コオロギが鳴いているのが聞こえた。少し冷たい風が吹いて、木々の葉を静かに震わせていった。橋の上を走りすぎていく車の音が時折思い出したように聞こえてきた。照明に照らされて、闇のなかにぼんやりと浮かび上がっている橋を見ていると、どうしてか寂しいような、哀しいような、そんなしんみりとした気持ちになった。