第35話 重圧
(無い、これは無い……)
久々に翠はこう思う。
翠の目の前に広がる光景は部屋を間違えました!と叫んで出て行きたい衝動に駆られるものだった。
これが一般的な客室と違う事は、先程ジークハルトを待つ間に通された部屋を知っている為断言できる。
まだ明るい外の光を和らげる紗幕のような布には精緻な文様が刺繍され、寝心地の良さそうな寝台は広く柔らかだった。今は開かれている窓帷もまたしっかりとした厚みを持ち、綺麗な房飾りが下げられている。
家具の一つ一つも熟練の職人が手を掛けた品なのだろう。繊細な細工が施され、見る者の目を楽しませた。
何気なく机に置かれた小物一つでさえも、複雑な寄木細工が優れた意匠を誇っている。
ぱっと見は落ち着いた雰囲気の部屋だが、きちんと見てみれば、それら全てが贅を凝らした物であるとすぐに知れる。
大した審美眼も持たない翠でさえこうなのだ。ちゃんと価値が判る者がこの部屋を見ればどう思う事だろう……。
恐ろしくて部屋の物何一つ手に取れない。腰掛ける事も憚られる長椅子に浅く腰掛けるだけで緊張しそうだ。初めてジークハルトと直に対応した時より緊張していた。
今の自分では何年かかっても弁償できそうにない品々に囲まれる恐怖は翠をぐったりと疲れさせる。
今までに通されていた部屋は、どれほどに豪華であれジークハルトの為のものと思えば何とも思わなかったが……これは自分が過ごすための部屋なのだ。
(逃げ出したい……)
今の自分の癒しは楽しげにあちこちを飛び回っては家具や小物の上でぴかぴか光るコウだけだ。いっそのことコウと一緒にバルドルの部屋に逃げ込んでしまいたい。あそこなら最高の癒し空間だ。そのうえ最高の護衛にもなるからそういった意味でも安心だ。だが……
(それじゃあ手を出そうとしてる連中も何もできないか)
「うぅぅ……」
この部屋で生活する重圧に押し潰されそうだ。翠は情けない声を発しながら、倒れてしまいたくなる。
かといって別の部屋に───などと言ってしまえば、ジークハルトは嬉々として翠を自分の部屋に連行してしまいそうだ。
何故かこの点は疑うべくも無い。客室にと告げたセルジオに対し、微妙に不満気な視線を遣っていた事からこの考えは自惚れでも何でも無いと思う。連行先は、ジークハルトの自室か……下手をするとその妃の部屋を与えられそうで恐ろしい。
≪スイー!綺麗なものがいっぱいあるー!≫
きゃいきゃいとはしゃぐコウの姿に目を和ませながら、翠は自分もこんな風にただ楽しく受け容れられれば良かった……とがっくりと肩を落とす。冷静な部分で、この処遇もセルジオの計略の一端だろうと気付いているから拒否も出来ないのだ。
「お待たせ致しました。……スイ様?」
ぐったりとしたまま返事をした翠の姿を見て、入室したセルジオが怪訝そうに呼びかける。
普段綺麗に背筋を伸ばしている翠が、疲れ果てたように長椅子に倒れたままなのが不思議でならないようだ。
「セルジオさん……この部屋の豪華さに私負けてしまいそうです……」
初めての泣き言がこれかと、セルジオが失笑する。翠もまた珍しく噴出すセルジオの姿に小首を傾げながらも、セルジオが落ち着くのを待つ。
「ス、スイ様……諦めて下さい。こちらは客室の一つではありますが……竜珠の姫のための部屋なのですよ」
ようやく笑いを収めたセルジオの言葉に、もう部屋移動の希望は絶たれたな、と翠は遠い目をしてしまう。
「大事に使いますが……壊れても弁償できそうにありませんよぉ~」
豪華な部屋の圧迫感にか、まるでガイを相手にした時のように砕けた言葉を紡ぐ翠に、セルジオは僅かに嬉しそうに笑む。
「普通にご使用なされば大丈夫ですよ。良い品というのは見た目だけではありませんから」
その言葉に少しだけ翠の気持ちが安らぐ。
ようやく落ち着いた翠の向かいに優雅に腰掛け、セルジオは真剣な瞳で翠を見据える。
「先ほどの説明に偽りなどございません───が、お伝えしていない事があります」
セルジオの硬い表情に、翠もまた姿勢を正して先を促す。
「基本、竜王も竜珠もかけがえのない存在で……消してしまおうという輩は確かに居ないのですが」
そこまで告げると、セルジオは一度口を噤み、苦々しい声を発する。
「何事にも例外というものはあるのですよ。そう───竜などという獣に支配されたくないという者達とか、ね」




