第32話 名前
一歩踏み出すその足に迷いは無い。
硬い石畳をしっかりとした足取りで進む翠の表情は穏やかなものだった。
姿だけはしっかりとコウに頼んで消してもらったまま、翠は城へと繋がるその道をゆっくりと踏みしめる。
(やっぱり昨夜のうちに動いてよかった)
その穏やかさとは裏腹の視線をちらりと暗がりに身を潜める男へと向ける。先日自分を追ってきた内の一人なのは確かだ。危険を前に情報は何より必要で、翠はしっかりと追う連中の姿を見ていたのが幸いだった。
今まで以上に息を潜めその場を横切る。
ガイの一件もある、ある程度気配に敏い者であれば、翠の姿は見えなくとも違和感を感じるようだ。だが日中の雑踏に紛れてしまえば大丈夫だろう。
視線だけで様子を伺えば、まだ翠の詳しい足取りは捕まえられていないのだろう。探すように男の視線は忙しなく辺りに向けられている事から明らかだ。
時折見かける見覚えの姿に身を固くしながらも、翠は城まであと少しという場所まで辿り着く。
突然に姿を現にするわけにはいかない。どうせ城の出入りも見張られているだろうから。
「ここでいいよ、有難う」
翠のその言葉にふわりと身を包んでいた光が四散する。
城の入り口近くの繁みから翠は姿を表すと、今度は堂々とその身を晒す。
「お忙しい中、大変申し訳ありません。スイと申しますが……陛下にお目通りしたいのですが、取次ぎ願えますか?」
声を掛けた瞬間、ぴりりとした緊張が走る。門を守る男達は女性だからと気を緩めること無く、対応しようとして……その姿を見てそれを和らげる。
予定の日取りではない不躾な訪いに、門前払いを食らわされても仕方ない覚悟だったが、翠の姿とその名は何度かの訪問で周知されているのか、何事も無く門を通された。
「申し訳ありませんが竜珠の姫様、ただいまガイ様へと伝令を出しましたので、こちらでお待ち頂けますか」
余計な仕事を増やしてしまい申し訳なく思うが、やはり有難く。翠は感謝をしながら邪魔にならないように控える。
「…………」
翠を取巻く環境の変化とは裏腹に、ぼんやりと見上げる空は高く青い。
今どんな思惑が翠の周囲で張り巡らされているのかは判りようが無いが……翠の心境は今日の空のようだった。
(有難うなんて言葉じゃ、伝えきれない……)
瞳を閉じると、昨夜の顰めっ面を思い出してしまう。
『全て終わってからなら……好きにすればいい』
愛想一つ無い、憮然とした顰めっ面はいつもと同じだが、長い沈黙の後にその言葉を落とした亭主の瞳は穏やかなものだった。
『さすが、アタシの亭主だよアンタは!』
バシリと痛そうな音を立てて男の背を叩いたハンナはいつもと変わらぬ満面の笑みだった。
その言葉に、ようやく許しが出たのだと知り、翠は目を極限まで見開く。そんな零れ落ちそうなまでに瞳を開いている翠の姿に苦笑すると、ハンナはにいっと男勝りな笑みを浮かべる。
『うちのもんが危険に巻き込まれるなら、許せん』
一瞬穏やかになりかけた雰囲気を、男のその言葉が引き締める。
『だが、そうでないないなら……いつでも、帰って来い』
『絶対に……絶対に、迷惑を掛ける状況で戻ってきたりしません!だから……いつか、帰ってきていいですか』
震える喉を必死に宥め、翠は決意を込め問いかける。
『何度も言わせるな!』
荒げられたその声は迫力満点だというのに、ふいと背けられた男の耳がほんのり赤く染まっていた。
『はい!』
そんな姿に笑いながら、ハンナは何度も男の背を叩き続ける。二人の様子に、翠は幸せ一杯の笑みを乗せる。この世界に来て自然と浮かぶ事が多かったせいか、何時の間にか……その笑顔からは硬さが取れ、翠の本来持つ美しさを増す華やかなものだった。
『有難う御座います……ハンナさん。そして……あれ?』
翠の微笑みに一瞬見入っていた二人だったが、焦ったような翠の様子を訝しむ。
『どうしたんだい、スイ?』
ハンナの問いかけにだらだらと冷や汗が背中を流れる。翠だって自覚してなかったのだこの瞬間まで。そう───店の主人でもあるこの男の名を知らないという事に。
いつもハンナの旦那、店の主人という呼び方で事足りていたのだ。こうして住まわせてまで貰っているのによもや名前を知らないなんて恩知らずにも程がある。
先ほどの笑みの欠片さえ無く焦ったようにちらちらと男の顔を見る翠の表情に、ハンナがとうとう腹を抱えて笑う。
『ま、まさかスイ、今までずっと知らなかったのかい、この人の名前!!』
『ご、ごめんなさいぃいいっっ!!』
今でも赤面しそうになるそんな一幕まで思い出し、翠は顔を覆ってしまいたくなる。
あれから本当に腹が痛くなるまで笑ったハンナから教えてもらった名前───ドルフ。
確かにちゃんと名乗った事は無かったからねぇ、と笑い飛ばすハンナの横で今度こそ本当に苦々しい顔をしていたドルフ。あの場所にいつか戻れるかもしれない、そう思うだけで前へと進む力が湧いてくる。