第29話 暗雲
変わった。
顔を合わせた瞬間にそう感じた。
ガイを扉の前に残し、部屋へ一歩踏み込んだ翠は不思議そうにこちらを見つめるジークハルトの姿を眺める。
「どうした?翠」
「いえ、何でもありません」
そう答えながらも、翠はふわりと笑う。
同じようにこちらを見つめる瞳。ただそこに浮かぶ光が今までとは違っていた。今のジークハルトはきちんと自分を見てくれていることが判る。
前のように熱に浮かされたようなものではなく、そのままの自分を見てくれている視線。
今も翠の反応が不思議だったのか、その理由を探すように伺っているのだ。
勝手な言葉を投げつけたまま立ち去ったというのに、その意味をきちんと考えてくれた事が嬉しい。
そして、突然認識を変えろと言われても無理だろうと、長い期間を想定していたというのに、すでに変わり始めているジークハルトに翠の口元が自然と緩む。
「……まあ、貴女がそうして笑ってくれているのは嬉しいがな」
まさかジークハルト自身の変化を喜んでいたとは想像できず、翠の笑みの理由を探りきれなかったジークハルトはそう告げると、滲むような笑みを浮かべる。
こうして穏やかに笑むと、年相応の色気を感じてしまうのだから質が悪い。
「私が悪いんだろうが、最初は睨まれてばかりだったからな。……だから、私にそんな顔を向けてもらえると───期待してしまいそうになる」
するりと翠の白い手を掬い上げると、ジークハルトはその甲へとそっと口付ける。
「な……っ」
素早く手を引くと、軽く添えられていただけだったせいか、ジークハルトの手の中から翠は己の手を取り戻すことが出来た。
咎めるような視線を向けても、ただ嬉しそうにするものだから調子が狂う。
暫く睨みつけてみたものの、楽しそうにこちらを見るジークハルトに気が抜けて、翠の口許も自然と緩んだ。
そんな時間を何度か繰り返したある日───いつものようにジークハルトの前を辞した翠が城を出て、しばらく歩いていると、ご機嫌にふわふわ浮いていたはずのコウが騒ぎ出す。
≪スイ!スイ!変な人がついて来る!≫
「変な人?」
≪うん……何か、嫌な感じの人がずっと着いてきてる≫
逃げて逃げて、と騒ぐコウに、翠は即座に近くの路地に身を潜め、コウに頼んで姿を隠してもらう。コウが翠の全身を取巻くのと同時に、見知らぬ男達が狭い路地に数人駆け込んでくる。
「ちっ……見失ったか」
「手分けして探せ!女の足だ、まだ遠くには行ってないだろう!」
潜めた声で交わされる会話の内容に、翠の表情が強張る。この路地には翠の他に人影は無かった。となると……この男達が探しているのは自分に他ならないだろう。
少しでも情報が得られないだろうかと、男達の中でも、指示を下していた人物の後をそっと付けて行く。しばらくは辺りを探し回っていたものの、翠の姿が見えない事で諦めたのか、再び集い解散の運びとなった。
散り散りに去る男達の顔を見渡しても、見知った顔は一つも無かった。その場から人の影が消えうせた後、ぽつりと翠はコウに問いかける。
「どこから、ついてきてたの……?」
≪お城を出てからずっと。最初は気のせいだと思ったんだけど……≫
コウの言葉に、翠は考え込む。城を出てからという事は……城の関係者。翠が関わる事といえば、ジークハルトとバルドルに関してのみだ。
今まで出会った人は皆竜珠という存在を求めていたが……もしかして、厭う者も居るのだろうか。
セルジオの言っていた事を思い出す。
世襲では無いから一代限りとはいえ、代々の竜王に阿る者はいるのだ。そういった存在からは邪魔な存在なのだろうか。だが、竜王の心の安寧の為には竜珠は必要らしいのに……
考えても、知識の浅い翠には正しい答えを導き出す事が出来ない。これ以上一人で悩んでも無駄だと意識を切り替え、身を隠したまま帰路につく。
それが、不穏な日々への幕開けであった。