第16話 決意
バルドルの言葉に、翠は晴れやかに笑う。
「うん……決めたんだ。わからない未来に怯えるんじゃなくて、手を伸ばしてみようって」
怖がってばかりいたら、今この手の中にある大切なものさえ傷つけ、失ってしまうだろう。
ようやくそれに気付いた翠は、バルドルの鼻先に頬を寄せる。
扉の前で別れた時には合わせられなかった瞳をしっかりと合わせ、翠は安堵したように目を細めるバルドルに自分の心を伝えた。
≪……頑張ったな≫
優しい、優しすぎる響きのバルドルの声に、翠はぽろりと涙を一粒だけ落とす。
「……っ、あり、がとう」
心配を掛けていただろうバルドルに、翠は謝罪ではなく、その言葉を返す。
失う恐怖に怯え、立ち竦む翠を見守ってくれてたバルドル。
そして、立ち止まったままでいようとする翠の背を押してくれたハンナ。
いつも傍にいてくれて、翠が傷つく度に心配してくれたコウ。
人馴れしない翠を、辛抱強く構ってくれた酒場の人々。
沢山の優しさが、一滴ずつ翠の心に染み入り、本人ですら気付いていない内に、他者を拒むその壁を崩してきたのだ。
自分だけで完結することのできない、見知らぬ世界での生活故のものもあっただろうが……今なら、あの時のバルドルの言葉を受け入れる事ができる。
「この世界で、いっぱい……新しい縁ってものを、作って行こうと思う」
もし、その新しい縁さえも失ってしまいかけたとしたら、今度は手を伸ばそう。
自分といたら不幸になるなんて言い訳と共に、ただ失うのを見ているのではなく、力の限りこの手を伸ばし、掴み取ろう。
諦めることばかりを覚えるのではなく、欲しがる事も覚えよう。強欲だと言われてもいい。大切だと思えるものを、沢山作ろう。
≪え~……スイ、僕らだけで良いって言ってくれてたのにぃ~≫
ちょっと拗ねたような声が、すぐ傍らでする。その言葉は本心からのものだったし、こんな言葉を聞いたら大好きなコウが相手なだけに、揺らぎそうになる。でも。
「ごめんね、コウ。私我儘になることにしたの」
ここで悪いと思って、元の自分に戻ってしまうなんて事はできない。
自分から言った約束を違えてしまうことに、ちくりと罪悪感を抱いていると、きゃらきゃらと楽しげな笑い声が木霊する。
≪冗談だよ!……僕らだって、スイに一人で居て欲しいなんて思わないよ≫
ちょっと、惜しいけどね。そんな風に言いながらも、嬉しそうに翠の周りをくるくる回る光珠に、翠もつられるように笑い出す。
「私も、ちょっと惜しいわ」
バルドルとコウ、それだけの世界でいるのも幸せだったろう。膝を抱え、優しさに微睡むような世界。怖いものも、悲しいものも無いだろう世界。でもそんな世界で目を閉じたままでいることは───生きるとは言えない。
幼い頃、大切な宝物をどんなに丁寧にしまっていても、それが色褪せてしまったように。閉じたままの世界でいては、その関係さえも歪めてしまうだろう。
今まで以上の痛みや悲しみもきっとある。再び大切な人を失うことも。けれど、その苦しさから目を背けず立ち向かっていかないと───得るものもないのだ。