第15話 呼び声
(もう、他人じゃない───)
その言葉が、翠の頭を占める。どんなに心に線を引こうとしても、思う通りに心は従ってはくれない。
ぐるぐると、今まで大切だった人、今大切に……思ってしまった人、皆の顔が駆け巡る。ハンナの言葉に、すでに自分が人を受け入れつつあった事に気付く。
(どう、しよう………)
情け無いのか、悲しいのか、怖いのか、嬉しいのか、自分で自分の感情が判らない。
「……大切な人を作っちゃ、駄目、なのに」
着替えることもせず、寝台に座り込んだまま翠が思考の海に沈んでいると、つい、と鼻先で光珠が震える。それに意識を現実に引き戻すと───
(───呼ばれてる)
知らない感覚なのに、当たり前にそう感じた。
それを肯定するように、くるりと一回転した光珠が翠を促すようにその全身を包み込んで行く。温度など感じるはずがないのに、暖かく感じられるその光に優しさを感じる。
何度も、何度もコウにはこうして慰められてきた。それなのに───何度も、悲しませてきた。
柔らかな光に包まれ……翠はこのままじゃ駄目だと唇を噛む。
ハンナだけじゃなく、コウも、そして今───私を呼んでいる、バルドルも。
失う可能性に怯えるままの自分でいたら、いつか優しい皆を酷く傷つけてしまうだろう。
そんな確信ともいえる予感がした。だから───
「強く、ならなきゃ」
言葉にしてしまえば、それは決意となる。翠はしっかりと眼前の闇を見据えると、銀色の光に包まれ窓から身を躍らせた。
二階にある自室の窓から、光珠の助けを借りてゆっくりと舞い降り、毎朝通る路を通り過ぎる。
すぐ隣にいても、誰とも視線が交わらない感覚は久し振りだった。身を隠してくれている光珠に小さく有難う、と囁く。ほわりと全身を取巻く銀色の光が薄紅色に変わるのを見るのも久し振りだ。
大通りを過ぎ、次第に人気の無い方へと導かれ進んで行く。
足を進める度に、心の中に響く呼び声も近くなり、バルドルに近づいて行くのを感じる。
夜も更け、静けさを増した街を駆け抜けてゆく中、翠はふと視線を感じる。
振り返ると、いつの間に着替えたのか、普段店に来ている時とは違い、闇に紛れるような漆黒の衣装に身を包んだガイがこちらを向いていた。
こちらが見えるはずがないのに、何故だかその黒い瞳は、完全にこちらを見ているように感じた───
制服のような、ガイのその姿を見ていると何かを思い出しそうになったが、翠はさらに強くなるバルドルの呼び声に背を押され、その場を後にする。
それが、大きな変化への第一歩だとは知らずに───。
「バルドル!!」
夜の闇に、その身を溶け込ませるような黒竜を見上げ、翠は弾むような声を上げる。
≪会いに来た。───翠≫
深い森の木々の間から零れる、僅かな月の光にその鱗を輝かせたバルドルに翠が駆け寄ると、その長い首を下ろし、挨拶代わりのように翠の頬を大きな舌でぺろりと舐め上げる。
「会いたかった」
くすぐったい感触に笑いながら、翠もまたバルドルの鼻先に軽い音を立てて口付ける。
バッタバッタと揺れる尻尾が近くにあった木に大きな音を立てて当たり、ハッとしたようにバルドルがその動きを止める。
「…………っっ!!!」
なんっ、て可愛いの!!!翠が内心悶えていると、ひょいとその身体を掬われ、気付いた時にはバルドルの両手に捧げ持たれるような形になっていた。
≪其方に会えぬ時間は、長う感じられた……≫
すり、とその首を翠の頬に擦り付けてくるバルドルを受け入れるように、翠はその長い首に手を回す。
長い抱擁の間に、冷たいバルドルの肌が、翠に温められてゆく。
グルル……と甘えるように喉を鳴らす度に、翠はその小さな手でバルドルの首を撫でる。
そうやって言葉よりも触れ合いで、会いたかった気持ちを伝え合っていると、漸く満足したのか、バルドルが僅かに身を引き、久方振りの翠の姿を見詰めてきた。
≪少し、良き表情になったな翠≫