第2話 漆黒の竜
しばらく黙りこんだまま考えていた自分を気遣ってか、そっと寄り添っていた光を撫でる。まだ心配そうに伺っているそれらに優しい笑みを浮かべると、そっと立ち上がる。
見下ろした泉に移る部屋はもう、完全に閉じられてしまったのか、先ほどまでは残っていた灯りさえ消されていた。
「竜に、会えば良いのね」
先ほどの二人の会話から、自分が竜のために呼ばれえたことは理解できていた。ちょっと迷うようにしながらも、ひょこり、と跳ねた光に、なら案内して?と告げ、躊躇無く泉に身を躍らせる。
濡れてしまうのかと思えば、先ほど闇の中を下降していたように、ゆっくりと何も無い空間を落ちてゆく。だが傍には同じく銀色の光たち。笑みさえ浮かべてそのまま沈んで行くと……ひたり、と今度は冷たい床の感触。
暗い室内を、銀色の光で見渡せば、そこは神殿のようだった。温かみの感じられない石造りの建物の中、光に導かれるように歩を進める。
部屋にいたところを呼び出されたせいで、足の先から冷たさを感じる。ぶるりと身を震わせると、ほわりと銀色の光に包まれ、柔らかな暖かさを感じる。
「有難う」
笑みに喜ぶように、身を包む光がさらに暖かくなる。正直な反応に微笑みながら、竜の元へと告げると、光が困惑したように明滅する。
「ん?もしかしてさっきの二人に会って欲しいとか?」
おずおずとうなずくように、自分を包む光が上下する。
「でもねぇ……お近づきになりたくないのよね~…」
厄介ごとの気配しかしないのだ。自分が竜のために呼ばれたのなら、その竜にだけ会って、どこかであとはひっそりこの子達と暮らしたいのだ。有難いことに言葉が理解できるのは先ほどの件で知っている。言葉さえ通じるのなら、あとは何とかできるだろう。
「用件だけ済ませてさっさと去っちゃダメ…?」
お願い、と告げると、どうしよう、どうしようと光がふわりと離れ、うろうろと彷徨う。
「竜にだけ会って、私が出来ることをしたら…あなた達だけとひっそり生きたいんだけど…」
願望を口にすると、ピッと嬉しそうな気配が辺りを取り巻く。本来ならあの二人に会わないといけないのだろう、少し迷う動きはするのもの、私の提案が嬉しいのか、ご機嫌にピンクに色を染めたりしながら、ふわんふわん動く。
(うう……可愛い)
どうしてこうまで好かれているのかは謎だが、一切の悪意を感じないこの子達と居るほうが絶対自分のためだ。というか自分の幸せだ。可愛いこの子達と戯れながら、少しずつこの世界を知って、生活して行く。竜などというファンタジーな生物もいるようだが、人間もいるなら町もあるだろう。言葉さえ通じれば、どうにかしてみせる。
生きるためなら何一つ良いことを運んできてくれなかったこの容姿さえ利用する事に躊躇いはない。か弱い女性が涙ながらに頼めば、職を与えてくれる優しい人もいるだろう。などと、本当にか弱い女性なら思わない思考を廻らせ、もういちど畳み掛ける。
「私が欲しいのは平穏と、あなた達だけなんだけど…」
じっと光を見詰めていると、ふるふると震え始め、ほわりと薄紅色に染まり、ぽとりと床に落ちる。慌てたように掬い上げると、ぱっと浮かび上がり、やけに必死に上下にぴょこぴょこ動く。
(こ、これは了承してくれたのか、な…?)
今度はさあ行こう、早く行こうとばかりに光が先へ先へと促してくる。それどころか部屋から出て、長い回廊を歩いている間に人の気配を感じて柱の影に身を寄せると、隠すように光が覆う。何度か人をやり過ごすうちに、光が隠してくれていると気付かれないのだと悟り、柱に身を隠すことなく光で全身を覆ったまま歩き出す。
一つだけ案内をするように光っている子は、先ほど床に落ちた子なんだろうなぁと、気配で目が合うたびにほわりと薄紅に染まることでわかってしまう。
安心すると、回りを見渡す余裕ができてきて、すれ違う人々の姿をじっくり観察してしまう。
メイドのような姿をした女性達があちこちで働いており、制服をかっちり着こなした男性が一定感覚でいる。彼らは腰に剣を佩いていて、護衛のようなものだと感じた。全体的に意匠は中世と中華を足して割ったような感じで、建物ももちろんだが、ここが違う世界なんだなと肌で感じる。
自分は異質なものなのだと痛感し、歩みを止めてしまうが…身を包む暖かさに、一人であっても、独りじゃないことを思い出し、顔を上げる。
再び歩み始めたその時、すぐ近くの扉が開き、先ほど泉越しに見た男が硬い表情で出てくる。そのまま足早にどこかへ向かおうとしていたのに、何故か自分のすぐ傍で立ち止まり、不審そうに此方に目を凝らす。
「……」
「……」
互いに沈黙しながらも、だ~らだ~らとこちらは背筋を冷たい汗が伝う。蛇に睨まれた蛙のようにただ見上げるしかないまま息を詰める。
こうして傍で見ると、見上げていると首が痛いほどに男の背は高く、鍛えられた引き締まった身体なのが衣服の上からでも見てとれる。
じっと見詰めてくる薄茶の瞳は力強く、本当はこちらが見えているんじゃないかと思うほどだった。視線がカチリと会うと、男が口を開こうとして……背後の扉の音に遮られる。
「陛下!!お待ち下さい!!」
先ほどもいた細身の青年が目の前に呼びかける。
(陛下……陛下……やっぱり厄介ごとにしか思えない)
男を前にしてから少し迷うような気配をしていた光を、陛下と呼ばれえた男が背後の青年に意識を取られた瞬間を狙い、さっさとこの場を過ぎ去るように促す。
何とか二人に近づかないように、壁際をじりじりと進み、通り過ぎると安堵のあまり小さく息をつく。すると、ヒュッ!と風を切る音と同時に、すぐ傍の壁に銀色の塊が突き刺さる。
ギ、ギ、ギ、とさび付いたように後ろを振り向くと、黒尽くめの男がいかにも何かを投げましたとばかりの姿でこちらを見据えていた。
見えているわけではないのか、先ほどの陛下らしき人物と同じように訝しむような表情をしている。
困惑したような青年とは違い、陛下と黒衣の人物はまっすぐにこちらを見据えている。首を元に戻すと、目の前には見事な短剣。これが自分に投げられたのだと理解すると同時にへたりと腰が抜けそうになる。震える足を、意思の力だけで繋ぎとめ、何かを感じ取っているのか、近寄ってこようとする陛下と黒服から逃げ出そうと全力疾走する。
慌てたように光が必死に先導するのを追い越さん勢いで駆け抜けると、突然光が動きを止める。肩を上下させ、必死に息を整えながら顔を上げると、そこにはあまりにも巨大な扉が存在していた。
どう見ても自分には開けそうにないそのサイズの扉に途方に暮れ、そっと手で触れる。
「う、そ……」
ギシリ、と音を軋ませながら扉がゆっくりと開いてゆく。大の男が数人がかりでもびくともしなさそうなその扉は羽より軽く、目の前で開かれてゆく。
扉が開かれるとともに目に入り込んできたのは漆黒の壁。艶やかに光を弾くその滑らかな壁の先を辿るように視線を滑らせると、あまりにも高い天井と、その天井近くにある真紅の宝玉が目に入る。
「竜……?」
絵本の中でしか見たことのないその姿。恐怖に意識を失ってもおかしくはないその巨体。今目にしている赤い二つの光は狂気を帯びていた。それなのに、自然と足が引き寄せられる。
誰がどう見ても恐ろしいはずの存在なのに、惹かれてやまない。ただ早く抱き締めてあげないといけないと逸る心のままに駆け出す。
『グォオオオオオオオオ!!!』
全身に響くような轟音。それが目の前の竜の叫び。恐怖を煽るはずのその声は哀しく響き、とても聞いていられない。
「私を!!傍に!!」
その言葉だけで意を酌んだ光に包まれ、猛る竜の目の前に浮かびあがる。目の前の獲物に喰らいつこうと鋭い牙を見せた竜の鼻先に、そっと触れる。
思いもかけぬ感触に動じたのか、グ…と唸り声を上げ、硬直した竜に身を添わせる。そのままそっと鼻先を撫でていたら、ぐり、と腹に鼻先を押し付けられる。甘えるようにぐりぐりと擦り付けてくるその姿に、自然と笑みが浮かぶ。
「こら、くすぐったいよ」
甘やかすようなその声に、さらに満足そうに鼻先を押し付けてくる。先ほどまで細くなっていた瞳孔は大きく開かれ、狂気を宿していたはずが穏やかな光を湛えている。
ひょい、と大きな鉤爪のついた手に乗せられても危機感など感じない。手のひらにのせたまま鼻先だけでなく顔をすりすりと寄せて甘えてくるのに、苦笑しながら手の届く限りに優しく撫でる。心地よいのか時折目を細めては喉を鳴らす姿に愛しさを募らせていると、ようやく落ち着いたのか、竜が鼻先をすこし離す。じっと見詰められているのに、居心地の悪さなど感じず、同じように見詰め返していると、突然に脳内に低い男の声が響く。
≪我に、名を≫
どこか聞き覚えのある声で告げられたその内容に、疑問を抱かず、まるで用意された名前を辿るように口にする。
「バルドル」
≪其方の名は≫
「スイ……青木、翠」
応えた瞬間、二人を包むように風が渦を巻く。石造りの室内が破壊されるほどの力なのに、翠にはそよ風一つ吹かない。
≪契約は、完了した。スイ……我が、花嫁≫